法  話

HBCラジオ「曹洞宗の時間」(毎週土曜 午前6時15分〜6時19分)にて放送された、
北海道各地のご住職の法話を掲載しております。
また、実際にラジオで放送された音声データの配信も行っております。

ポッドキャスティング 配信データ

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  2. 2009/11/21
  3. 2009/11/14
  4. 2009/11/7

2010年5月29日放送

このところ巷では、「エコ エコ」とよく耳にいたします。エコバッグ、エコ減税、エコポイント、これだけ毎日毎日耳にしていると、一体エコとは何ぞや?という疑問がわいてきたりします。「環境を表すエコロジーと経済を表すエコノミー」を合わせた接頭辞なのだそうですが、まず頭に浮かぶのは、あふれるほどの物を造りながら、一方で節約ブームと謳っている矛盾点に疑問が湧いてきます。自分の周りをよ〜く見渡してみて下さい。案外必要の無いものに囲まれて生活している事に気が付いたりもします。 確かに地球の環境を守り、無駄を無くすのは素晴らしい考え方です。個人で出来ることは限られていますが一人一人が意識を持つことで世の中はゆっくりと変化を遂げていきます。

仏教の教えに「少欲」と「知足」という言葉があります。お釈迦様は「欲望というものは、満たせば必ず次の欲望を生む」これが人間の迷いの根幹であるとご指摘されました。しかし一方では欲望を満たすのがいけないとは申されてはいません。 欲望というものは、絶えず危険性を伴うものであることを知り、その制御を学びなさいということを教えられています。何かに付けて闇雲にエコを唱える前にまず日常からこの欲をおさえて足りていることに気付くという「少欲」と「知足」の教えを意識して生活することこそ本当のエコに繋がるのではないでしょうか。今一度考えてみてはいかがでしょう。


札幌市 瑞現寺
住職  斉藤 徳光さん


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2010年5月22日放送

若い時には、早く大人になりたいと思い、時の早さを感じる事など無く、今この年になって振りかえると、あっという間であるという事は、誰しもが思い、一年一年さらに、その早さは増してくる。まさに光陰矢の如し、との意味を身をもって感じています。普段お檀家さんと接していますと、年配者が多い訳で、年の話になりますと、一年早いですねぇ、こないだ正月来たと思っていたら、もう春になって、もう半年がたち、もう盆の季節がめぐり、盆も終わればすぐに寒くなり、日も短くなり、やがて冬がくる。本当、年とったら早いんだよねぇ。いや私もそうですよと答えると、お寺さんなんかまだ若いよ、年をとると一日何もしないで過ごせば、一日が長いものと思いきや、ぼけっとしててもすぐに一日が終わってしまう。いや本当に年はとりたくないねとおっしゃっていました。

それは、素直な気持ちであると思います。車でたとえるならブレーキはきかず、スピードはゆるむ事なく、むしろどんどん加速していき、とどまる事なく、いつ故障するかも分からず、いつ大破するかも分からない。そう、我々の人間の命は、そんなものである。そう考えたら、ぼやぼやしてられない。今日この命が尊く、かけがえのないものであり、過去は捨てられたもの。未来ばかり追い求めず、今この時、この瞬間が、一番大事である。日々、一日一日を、充実したものにするには、明日というのは無いものと思い、あす死んでも悔いはないという生き方こそが、もっとも大事であると思います。


札幌市 祥龍寺
住職  長谷 泰広さん


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2010年5月15日放送

皆さま、思いやりのある心づかいで親切にしていただくと、うれしくて、感謝の気持ちで心温まりますよね。 思いやり、心づかいとは、感謝をされたい、お礼を言われたいから、とすることではございませんよね。 ドアが閉まらないように支えてあげたり、道をゆずってあげたり、食事の時にお正油を取ってあげたりおかわりをよそってあげたり、そこに、見返りを求めてしまえば、せっかくの思いやりや、心づかいがだいなしになってしまいます。また、心のこもった贈り物、心のこもったおもてなし、心のこもった言葉、まごころのある行いは、やさしく、うれしく、心に届きますよね。

うそいつわりのない誠の心、まごころは、人の心に響き伝わります。

人と人とは、心と心。
ひとりでいると心細い、だれかといると心強い。清い心をもてば清く、心、汚れれば汚れてしまう。強くなるのも、弱くなるのも、良い事も、悪い事も、良い行いも、悪い行いも、その人の心によるものです。

人と人とは、心と心。
人は心で生きるのです。まごころを大切に致して、いきたいですね。


古平町 禅源寺
住職  秋田 修孝さん


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2010年5月8日放送

北海道もようやく桜の季節ですね。
私のお寺の境内には、八重桜の木が十数本植えられています。毎年五月の中頃から、終わりにかけて、満開を迎えます。もう何十年も満開の桜が咲き誇り、やがて風に吹かれて大地に舞い落ち、境内をきれいなピンク色に染め上げてきました。私は、物心ついたときから眺めてきたこの風景が大好きです。人の心には、いつも桜が咲いています。

毎年同じ様に咲く桜ですが、咲く時期も、咲き方も、散り方も、違った表情をみせてくれます。まさに一期一会、その瞬間に美しさを感じます。咲いていく花、散りゆく花、同じ風景はおそらく二度と見ることは出来ないでしょう。 今咲いている桜は、いつまでも永遠に咲き続けることはできません。たとえ同じ風景だとしても、その時の心の在り方によって見え方は違ってきます。人が、心奪われる事柄は、常に形を変え、変化していく様子です。 変化している様子を感じることで、発見し、感動するのです。

代わり映えのない日常などありません。あらゆることは常に形を変え、変化しています。昨日までなかった花が咲き、今日まで咲いていた花が明日には枯れてしまうかもしれません。移りゆくこの世界に目を向ければいろんな発見や感動があふれています。何気ない日常の中に、いままで気づかなかった、見つけることが出来なかった答えがあるかもしれません。それが心の桜です。

思うようにならないときこそ、自分に閉じこもることなく、目的に囚われず、まわりを見渡して下さい。心を満開の桜で一杯にするために気づかぬうちに発見や感動が、心に種を蒔いています。人知れず心に桜が咲いていることでしょう。あなたの心にも必ず桜は咲いています。


美国町 観音寺
住職  的場 敬貴さん


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2010年5月1日放送

「この目で見た、この耳で聞いた、間違えない」と言い聞かせ、自分の都合勝手な独り善がりの世界を広げていませんか。 ある方は「世の中の活動は、見えない糸の繋がりだ」という。私達が、実際に見なかったり聞かなかったりするところに「生きる支えとなっている大切なものが、見え隠れしている」ことを忘れてはならないのです。私達が「お蔭さま」と手を合わせるのは、生きるものの深い認識から生まれた姿勢だと思います。

私達が生きるために、体内の臓器は日夜休むことなく働いています。私達の意識に関わらず、一年間に9,460,800回の呼吸が行われています。私達は、自然とも深い関係があり、四季折々の季節感によって生活のリズムを維持しています。その自然は、気取ることもなければ隠そうともせずに、いつも精一杯「もちつもたれつ」で生きるご縁の喜びを演出しています。

私達が、恵まれ感謝すべき状況にあるのに、どれだけ受け止めた態度かと思うと寂しく感じるのは、私だけでしょうか。道元さまは「この世は、諸縁の関わり深く、苦労を惜しまない努力があってこそ噛み合うものだ」と説かれています。私達の生きる世界は、不思議な浅からぬ因縁が展開していることを踏まえて「縁に随って行じ、縁に随って去る」の心情で、今此処でやるべきことをやるだけです。

この世は「無常」で、すべて変化し生まれ変わっていて、決して自分の思うようにならないのです。私達は、自分独りの力で生きているのではなく、多くの人や物に支えられて生きている自分に気づき、お蔭さまとご縁を受け止めさせていただく心の輪を広げたいものです。


三笠市 唱和寺
住職  加瀬 道男さん


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2010年4月24日放送

ちょうどこの時期、福井県の曹洞宗大本山永平寺では、たくさんの檀信徒の皆様と、僧侶が集い、仏さまとのご縁を結ぶ、年に一度の大法要が営まれております。 その永平寺で私が修業時代に、開祖道元禅師様がご生誕800年を迎えられ、お寺の中にこのような言葉が提示されていました。

はきものをそろえると心もそろう
心がそろうとはきものもそろう
脱ぐときにそろえておくと
はくときに心が乱れない
誰かが乱していたら
黙ってそろえてあげよう
そうすれば 世界の人の心もそろうでしょう

私がとても好きな言葉です。

今度、自分の履物を確認してみてください。乱れてないでしょうか?もし乱れていたら直しておきましょう。まずは自分の心をそろえる。 そして「だまってそろえてあげよう」。

そろえてあげたんだから…と胸を張るのではなく、何も求めることなくただそろえてあげる。これがとても大事なことです。

こんな些細なことですが、それを積み重ねていけば世界の人々の心がそろう。なにげないひとつの行動で自分の心がそろい、自分以外のひとの心もそろい、そしてそのことによって世界の人の心もそろう。

自分のなにげない行動が世界を変える力となる。

そのなにげない行いが仏道なのです。仏様の道なのです。

今日からでも遅くはありません。ご一緒に実践してまいりましょう。


岩見沢市 孝禅寺
住職  安彦 智峰さん


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2010年4月17日放送

今月八日は仏教の開祖、お釈迦さまの誕生日でした。

お釈迦さまのおかあさんは、お釈迦さまをお産みになられた後、産後の肥立が悪く、七日後に亡くなってしまいました。今も昔も、女性にとって出産というのは大変なことであります。

現代の私たちは、自分や家族又は友人の誕生日を賑やかにお祝いすることが多いものです。自分自身の誕生日を幸せで楽しい気持ちで迎えることは大切なことです。 しかし、最も心しなければならないのは、自分を生み育ててくれた親に感謝することです。

「諸人よ 思いしれかし おのが身の 誕生の日は 母受難の日」

父母が生きているうちに、親孝行の大切さに気付いた人は幸いです。しかし、人格的に完成し、生活にゆとりができるころには、既に親が他界していることが多いものです。 「親孝行、したいときには親はなし」とはよくいったものです。

自分の誕生日には、おのれの命の源に思いを馳せましょう。 そして、生み育ててくれた労苦に、「ありがとう」と心から感謝できる人間になりたいものであります。

ちなみに、きたる五月九日は母の日です。私自身、常日頃、つい忘れがちな母へ感謝を込めて、「ありがとう」という気持ちを届けたいものであります。


札幌市 真龍寺
住職  飯田 整治さん


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2010年4月10日放送

この四月から新しい職場に就職の決まった方は、大きな期待と少しの不安を抱えて仕事に励んでいることでしょう。就職、それは自分が社会に尽くすプロとしての第一歩です。どんな場所でもどんな仕事でも、その場その場で当たり前のことを当たり前にやる。与えられた仕事に自分を活かし、前向きの姿勢で全力を打ち込んで働く事によって、自分の持ち味が発揮されるはずです。

しかし人生には、様々な困難、色々な悪条件が巡って来ます。如何なる困難、悪条件が起こっても「やり遂げよう」「やり通そう」と、一心に念じて努力すれば必ず困難、悪条件も克服できます。

禅の言葉に、「切に思うことは必ずとぐるなり」とあります。「切なる思い」というのは、「どうしてもこのことはやり遂げよう」と思う一心からくるものです。ものに一心になれば、そこにしぜんと方法・工夫も出きて、そしていつの間にかうまく行きます。うまく行かないのは、一心が足らないか、工夫、努力が足りないからです。

また四月は、新しい出会いの季節、縁あって人は様々な出会いをします。

考えてみると私たちは、絶対に独りでは暮らせません。必ず誰かと関わり合いが無ければ生きて行かれません。「みんなに生かされて、またみんなを生かしている」のだと気付いた時、「ありがたいなあ おかげさまで」という、感謝の心がわいてきます。そこに私たちの探し求めている今日(こんにち)の幸せがあるのです。ふれあいが生活を支え、命さえも支えているのです。これなくしては、一日も一時も暮らせません。

『その日その日を悔いの無い一日を』 この言葉を、限られた人生を送る私たちの合い言葉にしたいものです。


札幌市 禅林寺
住職  日比 健士さん


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2010年4月3日放送

長かった冬もおわり、雪どけのすきまからふきのとうが顔を出す季節になりました。 私のお寺の庭にも、ふきのとうや、福寿草が芽を出し始めようとしています。 むかしの歌に

「踏まれても 根強く忍べ 福寿草 やがて花咲く 春はくるなり」

とあります。 福寿草やふきのとうは、冷たい雪の下で、永い間、ジーッと芽をだす時を待っているのです。そしてそれは、ただ漫然と時を待つのではなく、花芽をじっくりと育て熟成させて、春の到来に備えているのです。

おおよそ、春の花々にとって、冬の寒さは単に厳しいのではなく、その厳しい寒さがあってこそ、花を咲かせることができるのです。

永平寺の道元禅師様は「春になって爛漫と咲き誇る花々のすべてが、この寒い雪の中にあって花をつける梅の花に凝縮されている」と言われました。 北海道の場合、桜も梅もほぼ同時に咲きますが、これは冬の厳しい寒さが一転して春暖に変化することをあらわしています。 冬の寒さの厳しさゆえに、春の喜びがより大きいということなのです。

当番組をお聞き取りの皆さん方の中には、今、この時を雪の下の福寿草のような思いで苦しみ・悲しみに耐えていらっしゃるかたもあろうかと思われます。 そんな時こそ、春に咲く花に思いを致し、耐えるべきときはじっと時を待ち、今の苦しみがそのまま、大きな喜びになると信じて、精進いたしましょう。

もうじき野山が花々で覆われる季節がやってきます。春の喜びを、ともに味わおうではありませんか。


新篠津村 光明寺
住職  藤原 重孝さん


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2010年3月27日放送

この季節を迎えると不思議に、かってローカル線の汽車の中での、幾度か転勤を繰り返し、定年退職を迎えたに見える御夫婦の姿と会話を思い出します。

「かぁさんやっぱりあのタンス投げたのか…」「投げたよ…あんたなんべん言えば分かるの…形見だ形見だ…なんぼ転勤するたびにあのタンスに悩まされたの…ようやく自分たちの家だもの…あずましく暮らそ…あんたの言うようにしていたら家の中、整理整頓できないしょ…」「うん、そうだな…分かってるけどいたわしかったナ」

急に後ろの御夫婦の会話が閉じたのです。 何となく後ろの席が気になってちらっと御二人を見て座りなおしました。ご主人は言わなければ良かった…心なしか項垂れている様子、奥さんは「つい言い過ぎた…」という様子でした。

私は車窓の流れ去って行く風景を眺めながらフト考えました。 お釈迦様さまは、人間は如何に生きるべきかと六年間のご修行の末に【身を整え・息を整え・こころ整え】【己を見つめる】坐禅によって、ついに悟りの人「仏」となられました。人は一人では生きてゆくことは出来ない・多くの人やものに支えられ・生かされることによって生きている…【心の整理整頓のありかた】を御示し下さいました。

今の時代、一番求められているのが【ぬくもりの心】一番忘れているものが【思いやりの心】だと言われます。 次々と胸痛めるニュースを見聞きするたびに【本当だナー】とうなずいている方も多いのではないのでしょうか。

春は【出会いと別れの季節】です。どうか御互いに心の整理整頓を心がけたいものであります。


厚岸町 吉祥寺
住職  斎藤 章彦さん


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2010年3月20日放送

今日は春のお彼岸の三日目になりました。冬の長かった北海道のこの地も、ようやく春になって雪解け水が沢を満たし、木々に大地に潤いをもたらすようになりました。そんな好時節の春のお彼岸は、まさに心のオアシスと言ってもいいのではないのでしょうか。

私は団塊世代まっただ中の一人です。ITやインターネット等なかなかついていけません。特に現代社会はあわただしく、時の流れをとても早く感じています。そんな世相の荒波に飲み込まれないためにも、一週間心を落ち着けてご先祖様をしのび、手を合わせることによって自分の気持ちを今一度しっかりしたところにおきたいものです。

お彼岸は日本独自の仏教文化としてとても大切な行事です。 このお彼岸に、亡き父母を想い、亡きご先祖さまに感謝の気持ちで、ご供養するということは、自分の命の根源に手を合わせるということです。父母を愛し、ご先祖さまを愛するということは、自分の命の根源を愛するということです。 ご先祖さまのおかげで人間としての命をいただいている私たちがいます。そう考えると手を合わさずにはいられません。手を合わせるということは、心を合わせることであり、心を合わせるということは命を合わせることでもあります。

ご先祖さまと強い絆で結ばれている私たちです。これからも感謝の気持ちを忘れることなく、心をこめてご供養をしていくことが、私たちの幸せへとつながってゆくのです。


安平町 見龍寺
住職  守屋 敬道さん


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2010年3月13日放送

道元さまは、人にものを言う時には、その言葉が御仏の教えであるか?その人の幸せとなるか?今言うべきなのか?と三度考えた後相手の幸せを願って言いなさい、と説かれました。相手の立場に自分を置き換えて考えることをしなければ時として、人の心を傷つけたり、諍(いさか)いの元ともなります。又、自分では良いことをしてあげたと満足していても相手にとっては「迷惑」と思われる事もあります。

数年前の正月でした。Aさんの家で年始のお経のあと、私が「今年は孫さん達は来ないのですか?」と尋ねると「何が不満なのか嫁が連れてきてくれないのです。方丈さんから正月くらい顔を見せてやりなさい、と言ってくれませんか?家の人が淋しがっていますので」とお母さんから頼まれました。私はお嫁さんと同級生です。心配になり電話をしました。

すると彼女はこのように話してくれたのです。「お父さんもお母さんも、とても良い人です。でも子供達を連れて行くと、甘やかして夜も遅くまで起こしています。毎月小遣いを決めて、高価な物は誕生日まで我慢させているのですが、一万円もする物もすぐ買って呉れるのです。この頃は、欲しい物があるとお爺ちゃんに電話して買ってもらうと反抗したりします。ですから子供の教育の為にも連れて行けないんです。方丈さんから、うまくお母さんに伝えて下さい。」と言われました。

納得した私は、数日後、注意深く、相手を傷つけないように、おばあちゃんにお嫁さんの気持を伝えました。すると、おばあちゃんは「私も子育ての時、同じ事で悩んだ事があったのに、すっかり忘れていました。本当に良く分かりました。」とお礼まで言ってくれたのです。

そして次の正月には賑やかな孫達に囲まれた幸せ一杯のAさん御夫婦とお嫁さんの笑顔が私を迎えてくれたのでした。


枝幸町 長林寺
住職  島崎 敬三さん


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2010年3月6日放送

昨年の十一月のことです。ブラジルのサンパウロ、曹洞宗大本山別院、佛心寺、開教五十周年のお祝いの法要に参加して、その帰りにニューヨークに寄りました。なんとあの有名な五人組「スマップ」がブロードウェイに全員集合したのと、ちょうど同じ時期でした。マンハッタンで摩天楼を仰ぎ、世界同時多発テロの被害にあった、ツインタワービルの跡地で慰霊をした翌日、特急列車で私はワシントンに向かいました。アーリントン墓地でケネディ大統領のお墓参りのついでに、オバマ大統領は不在でしたがホワイトハウスの前で、私はもの凄い人に出会ったのです。

彼女ピシオットさんは、当時勤めていた領事館や国連を辞めて、一切の家財を投げ打ち核兵器廃絶の為に、三十年近くも路上生活をしながら平和運動を続けているのです。立て看板の広島・長崎の大きな被爆写真に目がとまります。それは幼い子供を抱いた悲惨な姿でした。「ベットの感触なんて私覚えていないわ。」真っ黒く日焼けた顔のシワが長い歳月を表していました。先月、ワシントンは大寒波が襲い、大雪被害のニュースが流れていました。どうしているのでしょう。「ここで死んでもいいの!地球から核爆弾がなくなるまで私座り続けるわ!」握手した手の温もりが熱く伝わってきたのを思い出します。この反核おばさんのド根性と明るい笑顔に感動と勇気を貰いました。私はこの人にこそノーベル平和賞をあげたいなと思いました。

私達はノーベル博士がダイナマイトを開発した事を悔やんで、この賞を遺言した事を決して忘れてはいけません!戦争のない世界が一日も早く訪れることを、お祈り致しましょう。


札幌市 薬王寺
住職  田中 清元さん


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2010年2月27日放送

厳しかった寒さの季節も、ようやく峠をこえようとしています。凍てついた北海道の冬の夜、私はたびたび澄み切ったえりもの空を眺め、星の輝きに魅せられました。

「真砂(まさご)なす 数なき星のその中に われに向かひて 光る星あり」

明治の歌人、正岡子規がよんだ歌ですが、こぼれるような星空の中で、自分だけに語りかけてくる、たった一つの星に出会うことができたらすてきですね。

私たちが星の輝きに美しさを感じるのは、それが微妙に変化しながら、またたき続けるからです。宇宙物理学者の佐治晴夫(さじ はるお)先生は、星がまたたくときの光の強さの変化を“ゆらぎ”と呼び、大気がゆらめくせいで、光の道筋が変わり、光の量が増えたり減ったりするように見えると説明しています。佐治先生によると、星のまたたきの“ゆらぎ”と私たちがとても安らかな気分でいるときに出てくる脳波の強さの“ゆらぎ”に共通性があるそうです。そんな話を聞くと、ますますあの無数の星の一つが、私を呼んでいるような気がします。

夜空の星は、私たち人間に宇宙の存在を教え、同時に私たち自身も宇宙の一部であることを教えてくれます。私たちは地球という小さな天体の住人として生まれましたが、この地球も広大な宇宙の中の存在です。そして、その小さな天体に住む私たち一人ひとりは、とても小さな生命ですが、宇宙の長い歴史のなかにあって、たった一人の、今という瞬間にしか存在しない、かけがえのない生命(いのち)なのです。
もし宇宙に意志(こころ)があるとすれば、宇宙でたった一人しかいない、この自分を大切にするよう望んでいるのだと、思わずにはいられません。


えりも町 法光寺
副住職  佐野 俊也さん


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2010年2月20日放送

昨年の12月、インドを訪れ、お釈迦様に関係深い地をお参りしてまいりました。
お釈迦様は今から2600年前に80歳でお亡くなりになられました。 80歳を迎え、自分の最後もそう遠くはない、そう感じられたのでしょう。自分の生まれ育った地にて最後を迎えたいと、当時住まわれていたラージギルという場所から、お生まれになったルンビニーへ約400kmにも及ぶ最後の旅を始められました。
しかし、その思いは届かず、途中クシナガラという地にてお亡くなりになりました。 私たちの旅の3日目は、お亡くなりになったクシナガラより、出発点ラージギルへの道のりでした。

途中、ヴァイシャーリーという町を通ります。この町は生前お釈迦様が大変好まれた町と言い伝えられています。長い距離の移動でしたので、その町へ到着したときはもう夕方でした。緑の芝生の中にたたずむ赤茶色の煉瓦の遺跡、それを囲むように茂るマンゴーの木々。少しほこりっぽい空気の中で、夕日が真っ赤に大きく浮かび上がります。そんな美しい景色をみていると、2600年前にお釈迦様がここに立ち、弟子たちに説法しているご様子が目の前に浮かぶようです。

お釈迦様はこの地にてこうおっしゃったと言われています。

「この世界は美しいものだし、人間のいのちはすばらしいものだ」

それは、2600年前から続いている私たち人間へのやさしく、力強いメッセージです。今のような時代だからこそ、もう一度いのちのすばらしさを感じ、感謝することが必要なのではないでしょうか。このメッセージをしっかり受け止めていかなければいけない。ヴァイシャーリーの景色を見ながら、そう私は感じました。


北見市 白麟寺
住職  副島 豊道さん


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2010年2月13日放送

あなたは、「心の平穏」をどんな時に感じるでしょうか?
家族団らんのひととき、ひとり趣味に没頭するとき、旅に出て美しい景色を見ながらたたずむとき、気が置けない友達と時間を過ごすとき、あるいはお仏壇に向かって静かに拝むとき、いろんな場面がありますが、家族団らんの時間がない、趣味にさく時間がない、もう何年も旅に出たことがない、気が置けない友達はそれぞれ忙しい、うちには仏壇がないなど、心に平穏を感じることが今は難しい時代と言えるのかも知れません。

お釈迦様は、「心の平穏」のことを「ネハン」と言われ、その心の平穏を乱す原因を三つ示されています。
一つは、「自分の心にかなうものをむさぼり求める心」です。小さな子どもが買い物をしているときに欲しいものを買ってもらえるまでおねだりし、親を困らせる光景が思い浮かびます。
二つめは、「いかりを抱き人を憎む心」。
三つめは、「道理をわきまえる智慧のない愚かさ」です。
お釈迦様は私たち人間の内なる苦しみの原因をこの三つに集約し示されましたが、この三つに苦しめられることなく生きることは容易ならざることです。

時に心の平穏は、ささやかな「幸せ」を感じることができれば得られるものです。 「幸せは得るものでなく、感じるもの」です。宝くじがあたったとか、試験に合格したということではなく、今日も朝目が覚めた、ご飯を食べることができた、そんな当たり前のことに平穏を感じることのできる心を見つめる時間をもちたいものです。


苫前町 晃徳寺
住職  坂川 資樹さん


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2010年2月6日放送

ヒトとヒトとの絆。我々は一人で生きている訳ではありません。様々な人間関係、人間同士の絆によって、生かされているのです。

それでは、その『人間同士の絆』をより高め、より深める方法とは何か?
その方法の一つに『言葉を大事にする』というものがあります。
相手を思いやる心から生まれた言葉。 相手のことを考えた、温かい言葉。
ですが、このような言葉づかいを、最初から完璧に行うというのは難しいかもしれません。

まずは第一歩として、挨拶から。 本当の気持ちが込もっていれば、『おはようございます』『こんにちは』『ありがとう』という、日常の挨拶だって、『相手を思いやる温かい言葉』になるのです。
ですが、あなたが普段口にしている挨拶、もしかしたら、台本に書かれた台詞(せりふ)、棒読みの挨拶になっていたりはしませんか?

先日のことです。おそらく、『このような時にはこう応対しなさい』と、従業員用の接客マニュアルが存在するのでしょう。 たまたま不慣れな従業員だと思うのですが、『マニュアル通りの台詞』『棒読みの挨拶』に違和感を受けたのを、今でも覚えています。

『決められた台詞を、決められた通りにただ言う』そこには、『相手を思いやる心』があるとは、言えないでしょう。 周りを見渡せば、世の中には『棒読みの言葉』が氾濫している事に気付かされます。
だからこそ、もう一度、問いたいのです。 あなたが普段、口にする挨拶…棒読みの台詞になっていたりはしませんか?
心の込もった『ありがとう』。心の込もった『おはようございます』これらを普段から当たり前に言える…そんな自分自身をめざしてはみませんか?


厚岸町 吉祥寺
住職  斉藤 章道さん


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2010年1月30日放送

私たちが、お仏壇にお供物や食べ物をお供えするということは、大切な供養の一つです。

二年ほど前のことですが、家の仏壇にヨーグルトが供えてありました。聞くとお客さんから子供達への頂き物、とのこと。
人様から何か頂いたら先ず仏壇にお供えするというのは昔の話なのだろうか。いや、今もそうである。そうであってほしい。
当時四才の三人兄弟の末の子が仏壇に上げたらしいそのヨーグルトの上に、お店でもらったと思われるプラスチックのスプーンも一緒に添えられていました。そのスプーンを見た時、私は『ヨーグルトを食べる時スプーンが必要だよな』と素直に思ったものです。

御飯を食べる時には箸が必要です。御霊供膳にも箸をそえてお供えします。ただ、ものを上げれば良い。少ないと見映えが悪いから「それなりに」という見栄を張ってしまいがちです。それは体裁をつくろっているに過ぎないことでもあります。

しかし、子供が添えたスプーンには「どうぞ召し上がれ」という気持が込められていました。その素直な気持、心がうれしく感じられました。ふだん私が忘れがちな心を思い出させてくれました。

「どうぞ召し上がれ。そして私達もいただきます」 その心があって、お仏壇にお供えした、お供物や食べ物が本物の供養になります。亡き人と私が一つになります。 子供の素直な行いから、大切な供養の心を頂いた出来事でした。


北見市 高雲寺
住職  佐伯 正純さん


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2010年1月23日放送

「一生懸命尽くしているのに裏切られてばかりです」と、よく耳にします。
人は人に期待をし、その期待があるがために尽くしたりします。 しかし、結果として自分が思うようにならなかった場合、それが裏切りに見えたり、更には失望へと繋がっていきます。
実はこの「期待」に問題があるのではないでしょうか?

「期待」という言葉の中には相手に対して「〜をして欲しい」という欲望が少なからず見え隠れします。ましてや人が自分の思うようになるはずがないのに、期待を膨らませてしまいがちです。期待よりも結果のほうが小さいとき、裏切りとか、失望を感じたりします。
しかしこれは相手に問題があるのではなく、期待をよせた自分に問題があるのではないでしょうか?

もし、これが期待ではなく「希望」であったならば如何でしょうか?
希望はなかなか叶えられないものです。もし叶えられたら些細なことであっても、とても嬉しいものです。 期待を持つと裏切りや失望を感じる反面、これが希望であったならば喜びになっていたのでは、という経験はありませんか?

絶対とまでは言えませんが、多くの場合、期待から希望へと切り替えると苦しみから脱却できます。 もし、今、何かに「〜して欲しい」と期待しているのならば、「〜だったら良いのに」という希望へと切り替えてみて下さい。 失望することが少なくなり心が楽になります。 このことは、何事につけても言えることなので、是非、試して頂きたいとおもいます。


札幌市 瑞現寺
副住職  斉藤 正憲さん


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2010年1月16日放送

お檀家のお父様が癌を患い、入退院を繰り返していました。ある時、ご自宅にご先祖様のお命日でお伺いをした時、たまたま外泊でお帰りになっておられました。

御回向が終わりお茶をいただきながら世間話をしていると突然こんな話を切り出しました。
「方丈さん、俺こんな病気にかかってしまって生きてきた意味があるんだろうか」と。
その時私はドキッとしながらもこう答えました。

「私はお父さんと出会い、様々なことを学びました。それが恐らく私の力となり、これから出会うであろう苦しんだり悲しんだり、或いは病んだりしている人の心に寄り添う力になるかもしれません。目には見えませんがお父さんは家族を含めた多くの人にそうやって力を与えてきたはずです。そこにお父さんが生きてきた意味があると思います。」
そう言うと大きくうなずき大粒の涙を流しながら私の手を強く握りました。

オーストリアの精神科医でエミール・フランクルはアメリカで驚異的ベストセラーとなった「夜と霧」という本の中で「あなたを必要としている何かがどこかにあり、あなたを必要とする誰かがどこかにいるはずです。そしてその何かや誰かはあなたに発見されるのを待っている。」とナチスの強制収容所での体験を通して書いています。
人生で起こる総ての事はどんなことにも意味があります。だから私達が生きている事には当然のことながら大きな意味を持っています。
そのことを常に信じて力強く生きていきましょう。生きている事で誰かがどこかで大きな励みとなり力となっている事を信じて今日も明日も精一杯、生き抜きましょう。


当別町 全久寺
住職  白井 應隆さん


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2010年1月9日放送

殺伐としたこの時代、親切な言葉を掛けられても相手の心の裏側に何か有るのではと素直に受けとめられないという難しく淋しい世の中になってしまった様な気が致します。
「人と接して仏となる」これは私の本師が示してくれた言葉の一つです。
自分と気持ちが合う人でも合わない人でも、様々な人と接する事が人生の糧になる。
しかしストレスの多い今の社会では人と接する事で逆に心の病にかかる方も増えたようです。

よく人から元気をもらうという事を聞きます。これは相手からの励ましの言葉に元気をもらう事は勿論ですが、それ以上に元気づけようとする相手の気持ちがその場に温かい雰囲気をつくり、その優しい空気が自分の心を穏やかにし元気を取り戻す事が出来たのではないでしょうか。
人と接している時のその場の空気は自分達が発しています。勿論これは酸素や二酸化炭素等の科学的な成分の事を言っているのではありません。
優しい会話の時には優しい空気、厳しい会話の時には厳しい空気、真剣な時には真剣な空気がその場に生まれます。知らず知らず生み出されている気、雰囲気の事であります。そしてその空気を生み出しているのが私達の心です。

供養の養は「養う」という字です。これは私達が誰しもが持っている「仏心」つまりは人間らしい優しい心を養う事、育てる事であります。そしてその心を養う場がお寺での行事であり、皆様方が営まれる法事等の先祖供養です。一心に手を合わされるその場には真剣に亡き人を思う篤き空気が満ち溢れます。この空気をいっぱい吸う事で疲れた心を洗い流し、優しい心という栄養を与えてくれます。

殺伐とした世の中は誰のせいでもなく一人一人の疲れた心のその結集です。
自分達で心を養う努力し明るい世の中にしたいものであります。


南幌町 菩提寺
住職  岩井 淳一さん


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2010年1月2日放送

みなさん、明けましておめでとうございます。曹洞宗北海道管区教化センター統監 藤原重孝です。
今年もまた「曹洞宗の時間」を宜しく御聞き取りくださいますようお願い申し上げます。

さて、数年前のある雑誌の調査によると、札幌市の成人男女の約60%が「人生、やりなおしたい派」なのだそうです。
人生は一日一日・一時一時の積み重ねの結果です。「失敗した」「やりなおししたい」という反省や後悔が、より良い人生をつくりあげる力にもなります。
映画作家の大林宣彦さんのお父さんは「他人のようにウマくやるよりも、自分らしく失敗しなさい」と、失敗を恐れない生き方を示されたそうです。

昔、中国の雲門禅師という方が、集まった大勢の修行僧に問いかけました。
「今までのことは問わない。今日、たった今から以降のおまえたちの生き方をひとことでいってみよ」と。
なみいる修行僧に即答するものがいないのをみて、禅師はみずから「日々これ好日」とこたえられたそうです。

私たちはだれしも、さまざまな人間関係・社会との関係などがびっしりと絡み合って、この世で生きて、生かされています。ですから人生をリセットすることはできないのです。
しかし、たとえ失敗しようがつまずこうがいまのこの日を「好日だ」と感じることができるはずです。

人生やりなおしたい派の方も、あるいは、そうでない皆さんも、一日一日・一時一時を、よりよく生きることを心がけて、「日々これ好日」で過ごされることを、心からお祈り申し上げるものであります。


※参考文献 札幌人大調査(平成二年刊)


曹洞宗北海道教化センター
統監  藤原 重孝


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2009年12月26日放送

今年も、はや年の瀬となり、気ぜわしい季節を迎えました。
道内各地のスキー場もオープンして、それなりの賑わいをみせているようですが、以前ほどではないようです。最近はスノーボードが若者の間では流行していますが、スキーの楽しさと素晴らしさはまた格別です。

わたしは、三〜四年前までアルペンの競技スキーに出場するジュニア選手の世話をすることがありました。
スキー競技で良い成績をおさめるためには、選手個々の能力や技術を向上させることは勿論ですが、同時に雪のコンディションとワックスの相性をよく考えなければなりません。どんなにスキー競技の能力が高くても、スキーの板に塗るワックスの判断を誤ると台無しです。

これは私たちの人生にも言えることです。近頃、適応障害で苦しんでいる方が多いと聞きます。これは、社会環境や人間関係に自分をなじませることができないということですが、スキーのワックスと雪の関係と同じことであるといえます。どんなに高い能力と立派なスキー板を持っていても、雪質とそれに合うワックスを選択できなければ、実力を発揮できません。人間関係などで悩んでいる人は、このワックスを忘れていることが多いものです。

私たちにとってスキーのワックス、つまり環境に適合するために必要なものとは一体なんなのでしょう。
その一つに、他人に対する和やかな顔と、暖かい愛情のあることばがあります。
この一年をしめくくるにあたり、「終わり良ければ全てよし」のことばどおり、年末の時季は笑顔とやさしい言葉を心がけて、好い歳をむかえたいものであります。


由仁町 常福寺
住職  山川 章順さん


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2009年12月19日放送

皆さんはこの一年どんな一年だったでしょうか。何か新しい出来事はあったでしょうか。
良い事の多い一年でしたでしょうか。それとも逆に辛い事の多い一年でしたでしょうか。
人によって様々であった事と思います。

人生は楽しく幸せで、わくわくする事ばかりではありません。また逆に辛い事だらけでもないというのが現実でしょう。ですから自分には、これといった事もなく、無事に一年が過ぎお正月を迎えられるのが一番幸せである。と言う人もいます。これはこれで一面の真理を含んでいるのかも知れません。

この言葉に似た禅の有名な言葉に「無事是貴人(ブジコレキニン)」という言葉があります。
ことなしと書いて無事、貴い人と書いて貴人と読むのですが、これは「無事に日々を過ごす事がめでたく、その様に出来る人が貴い人」という意味に思われがちですが、真の意味は若干違います。

ここで言う「無事」とは、幸せだとか不幸せだとか善だとか悪だとか計らない、求めない事を言うのです。また、「貴人」も貴族や名士といった人達の事ではなく、貴い境地、禅語で言う所の「安心(アンジン)」これはアンシンと書くのですが、不安が無く揺るぎない所を得た人の事ですから、本当の意味は「外に幸せや安心を求めるのではなく、それらを止めて自己に向う所に真の安心がある」という様な意味になるのです。

「無事是貴人」の真の意味をかみしめながら、自分は今年、アンジンに少しでも近づけたのであろうか。来年は更に近づけるのであろうか。そんな事を思いながら、年の瀬を過ごす今日このごろであります。


札幌市 龍松寺
住職  池田 賢一さん


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2009年12月12日放送

先日、とある講習会にお招きをいただき、その会場となった温泉に伺ってまいりました。
その温泉大浴場の脱衣所にかかっていた、一枚の水墨画に大変感銘を受けました。
その絵には、墨染めの衣を着たお坊さん二人が、それぞれ茶碗を片手にお酒でしょうか、お茶でしょうか、酌み交わしながらニコニコと話し込んでいる様子が描かれておりました。
そして特徴のある字体でこんな言葉が書かれていたのです。

「人間は泣きながら生まれてきたんだよ。長い人生だもの、泣く時もあるさ。その度に生まれ変わるんだな、きっと」

確かに産声をあげなければ私たちの今の命はありませんでしたから、泣きながら生まれて来たに違いありません。
またいくら大人になったとはいえ、肉親との悲しいお別れに涙された方も沢山おられる事と思います。
辛くて苦しい時、悔しくて悲しい時、様々な人生の場面場面で、泣きたい時も沢山沢山あった事でしょう。
その時に流す涙を、生まれ変わるための涙だと受け止めるのは、決して簡単で容易い事ではないと思います。けれど「今泣いたこの後生まれ変わるんだ」と思えたら、気持ちの上では随分と救われるに違いない、そう思っています。

涙の後に「さぁー、生まれ変わって新たに人生を歩んで行こう」と決意する事を発心と言います。また、菩提心を発こすとも言います。
曹洞宗をお開きいただいた道元さまは「菩提心を発こす事を何万回でもしていきなさい」とお示しされております。
人生泣いたり笑ったり、辛い時こそ前向きな気持ちで過ごしていきたいものと存じます。


夕張市 禅峯寺
住職  安藤 英明さん


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2009年12月5日放送

来たる12月8日は仏教を開かれたお釈迦さまが悟りを開かれた成道(ジョウドウ)の日であります。
ジョウドウとは道が成ると書きます。道を得て仏と成ること、仏の悟りを完成することです。
曹洞宗ではこの日を記念して、法要を営んだり、坐禅修行を行います。
お釈迦さまは長い修行を経て、最後には菩提樹の下で坐禅の行に入られ、12月8日の朝、明けの明星を見て悟られたと言われております。
お釈迦さまにとってこの日の朝は、悟りを開かれ仏陀と成った自分との最初の出会いであり、仏陀としての人生の始まりでありました。

さて、みなさんは今朝どのような目覚めをされましたか?
「今日は何と気持ちのよい朝だろう」でしょうか?「眠たくてなかなか目が開かないなぁ」でしょうか?
朝は一日の始まり、今日という人生の始まりです。今日の自分との最初の出会いになります。
わたしたちも朝目を覚ましたなら、新たな自分に生まれ変わった心持ちで、今日一日の勤めに精進する自分自身に向かって「おはよう」と挨拶をし、
ご先祖さま仏さま、そして全ての人々に心を込めて「おはようございます」と挨拶をしたいものです。

『言葉は心の足音』と申します。朝の挨拶から感謝の足音を響かせましょう。感謝の心は「おはようございます」の挨拶から始まります。
言葉にしなければ思いは何も伝わりません。どのような一日を過ごそうとも、もう今日という日は始まっております。

さぁ、精一杯の思いを込めて、全道のみなさん「おはようございます」。


北見市 高台寺
住職  佐伯 至純さん


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2009年11月28日放送

私のお寺では年に一度、小学校高学年の子供達二十人前後が日曜から金曜日まで五泊六日をお寺で寝泊まりし、班分けをして食事の支度や片付け、掃除など日常生活の全てを高校生ボランティアの力を借りながら自分達の手で行う「寺子屋通学塾」というものを行っています。
その中で、毎朝、班ごとに三十分程坐禅をします。
日程終了後、子供達のこんな感想文がありました。
「毎朝の坐禅は足も痛いし、時間がとても長く感じられて最初は大変だった。でも慣れてくると心が落ちついて気持ち良く思えた。時々は静かな時間も必要だと思った。」
この感想文には、坐禅によって心が調えられてゆく様子がうまく表されています。

さて、坐禅をする時は、なるべく静かな場所を選び、仕事の事や家庭の事情を一休みし、損得や善悪を考えず、ただひたすら坐る。
腰骨を立て背筋を真っすぐにして姿勢を調え、吐く息、吸う息をゆっくり深く丁寧にして息を調える。そして、それによって心が調えられていきます。
夜寝る前に行うと安眠が訪れ、朝に坐ると一日が清々しく始まります。足を組めない方は正座でも椅子でも構いません。
道元禅師さまは、坐禅は悟ることを目的にするのではなく、安らかな修行としての坐禅ですよとおっしゃっています。
まずは一日の中で少しの時間でも静かに坐る習慣を身に付けたいものですね。


浜頓別町 永生寺
住職  加藤 智裕さん


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2009年11月21日放送

先日、新聞に「価格安定へ。ふぞろいの野菜達が出荷」という記事がありました。
「ふぞろいの野菜」とは大きかったり小さかったり、形や色が悪い、曲がっている、傷があるなど普段は市場に出荷されず処分される規格外の野菜のことです。
しかし、規格品と同じように手塩に掛けて育てられた事には変わりなく新鮮で味・安全面には全く問題はありません。

この「ふぞろいな野菜」が取り上げられた理由は他でもありません。今年は七月の長雨、低温、日照不足で全国的に農作物は大変な被害を受けました。
先っぽが真っ黒に染まり倒された秋撒き小麦、雨に流された玉葱、花が枯れたジャガイモなど例年に無い「異変」を身近な所で目の当たりにしました。
少しずつ野菜の高騰、品不足がテレビ、新聞などで報道され始め、「ふぞろいな野菜」が注目されたのが八月中頃でした。

そんな時、私達は野菜を手に取り「高いなぁ」と不満を抱く前に生産者の方々を想ったでしょうか。
いびつな野菜を避ける前に生産者の方々の手間、苦労を想ったでしょうか。
振り返ると「苦労を強いられているのは消費する側」だとする身勝手で自己中心的な自分にふと気付かされたのです。

「功の多少を計り彼の来処を量る」この言葉は自分の口に食物が入るまでにどれだけの人々の手を経て此処に到るのであろうか。その人々の想いも一緒に頂こうとする『感謝の心』を教えてくれます。
食事の時は心から唱えたいものです。「いただきます」「ごちそうさまでした」


由仁町 由仁寺
副住職  高山 和成さん


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2009年11月14日放送

今、ラジオを聞いておられる人の中で動物が好き、という方は沢山いると思います。
多くの人が、癒しを求めて犬・猫などのペットを飼っている。

旭川の旭山動物園で一年の入場者数が日本で一位に成って数年がたち、TVでも動物の番組が視聴率を取っています。
TV・CM・映画などでは、困った時には子供と動物というのがあるそうです。
可愛い子供・動物を出演させて高視聴率にするんだそうです。
私も、ごたぶんにもれず犬が大好きです。
本・雑誌の表紙に可愛い犬が出ていると、つい目がいき手に取ってしまいます。
よく動物好きに悪い人は居ないなどと根拠の無い話を聞きますが、確かにイッケン恐そうな人がペットの犬に赤ちゃん言葉で話している姿を見ると悪い人など居ないんだろうなぁ〜と、犬好きの私は確かに思ってしまいます。

動物は、人の言葉で会話する事が出来ません。
だから飼い主は、ペットの気持ちを思いやって優しく接します。
多くの人がペットに対する様に、他人にももっと優しく思いやる気持ちを持って接する事が必ず人には出来るんだと思います。
ラジオを聞いてる皆様、よければ今日一日優しい思いやりの心を持って人と接してみて下さい。


日高町 閑山寺
住職  菊池 慈海さん


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2009年11月7日放送

私は、週に5〜6日、町の小・中学生にサッカーを指導しております。
その指導の中でいつも私は、「なぜ失敗したのか、なぜ上手くいかなかったのかを考えなさい。そして、改善できるように努力しなさい。改善するということは、今よりも、もっとよりよい自分になるように、自分を変えていくことだよ。」と伝えています。
そして、自分の失敗を自覚し、反省し、改善しようと努力する、その毎日の積み重ね、一日一日の日送りが、よりよい自分、よりよい人間を作りあげることになると伝えています。

子供達が、毎日毎日、自覚し、反省し、改善しようと努力して、練習に取り組む姿勢には、輝きに満ちあふれた美しささえ感じることがあります。
私は、このすばらしい子供達にサッカーを通して、「よりよい生き方をする。」ということの大事さを逆に教えてもらった気がしてなりません。

それに対して、我々大人は、どうなのでしょうか?
毎日の日送りの中で、自分の在り方、自分の生き方をを自覚し、時に反省もし、よりよい生き方、よりよい毎日を積み重ねているだろうか?我々、大人が実践していないのに、この先の未来を背負っていく子供達に、何を伝えることができるのだろうか?
今、私の目の前には、明るい笑顔で、懸命にボールを追いかけ、日々努力を重ねている子供達がいます。我々、大人も負けてはいられません。今日の自分よりも、もっとよりよい明日の自分を求め、日々改善して、よりよい生き方を実践していかなければならないのではないでしょうか?
少しずつでも、改善をして、よりよい生き方をする、そんな志はいつも心に持っていたいものです。


江差町 観音寺
住職  松村 直俊さん


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