法  話

HBCラジオ「曹洞宗の時間」(毎週土曜 午前6時15分〜6時19分)にて放送された、
北海道各地のご住職の法話を掲載しております。
また、実際にラジオで放送された音声データの配信も行っております。

ポッドキャスティング 配信データ

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4月 2017/4/29
「作稀勢」

2017/4/22
「待つということ」

2017/4/15
「幸せになるために」

2017/4/8
「花祭り」

2017/4/1
「万物尖新(ばんもつせんしん)」

3月 2017/3/25
「逃げるは恥だが役に立つ」

2017/3/18
「匙は、その味を知らず」

2017/3/11
「禅師と饅頭」

2017/3/4
「祈る」


2月 2017/2/25
「奇跡」

2017/2/18
「善い行い」

2017/2/11
「明珠在掌」

2017/2/4
「小さなほとけさま」


1月 2017/1/28
「お不動さん」

2017/1/21
「洗面・歯磨き」

2017/1/14
「無功徳」

2017/1/7
「感謝」



 ▼過去の放送分
 2016年 2015年 2014年 2013年 2012年 2011年 2010年 2009年

2017年4月29日放送「作稀勢」

今年の大相撲春場所では横綱稀勢の里が涙の逆転優勝を果たしました。ふだん大相撲を観ることのない私でも、千秋楽での取り組みはテレビにくぎ付けになりました。弱冠十八歳、史上二位の早さで新入幕をはたしたものの、その後はライバルたちに先を越され、それでも一途に精進を重ね、横綱にまで上り詰めたのでした。

稀勢の里の四股名は、師匠の故鳴門親方がつけられたものです。この四股名は、親方が現役時代、親しくされていた、大本山永平寺の秦慧玉禅師に「作稀勢」読み下して『稀なる勢いをなす』、という言葉を頂き、将来横綱になり得る力量の弟子が現れたら「稀勢の里」と名付けようと決意したことによります。
その四股名をつけられた弟子は、時間はかかりましたが師匠の見た通り横綱になり、大勢の人々に感動と勇気を与える相撲を見せてくれているのです。名前のもととなった作稀勢の言葉を贈った秦禅師は、大の相撲好きで有名でした。

私の記憶では、禅師さまが、駒澤大学の教授時代、相撲部の顧問を務められていたころ、集合写真に学生力士の真ん中で、ふんどし姿で腕組みをして収まっている姿を見たことがあります。さらには大相撲のテレビの生中継で、しばしば砂破りで熱心に観戦している姿が映り、全国の曹洞宗の和尚さんたちに、「また、禅寺さまが相撲を観ていらっしゃる」と言われていたものです。
奇しくも今年三十三回忌を迎えた秦禅師さまのお言葉が、年月を隔てて花開いているのを見ると、禅寺さまと故鳴門親方の願いが成就したかのように感じるものです。

生きている私たちの積み重ねている行いや、ことばや、願いは時が流れても消えてしまうものではありません。必ず時を経て実を結ぶことになります。

形見とて何か残さん春は花夏ほととぎす秋のもみぢ葉 有名な良寛さんの辞世の句であります。


札幌市 真龍寺
飯田 整治


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2017年4月22日放送「待つということ」

私達が、「待つ」といった場合、「人」を待つ、或いは「時」を待つということになりましょうか。古い歌ですが、“待ちましょう”とか“待つわ”という曲がありました。これは、自分に素敵な人が出てくる迄、待つという切ない乙女心を歌ったものです。人を待つ心境を、竹久夢二は「宵待草のやるせなさ」と詠んだように、待つというのは人間にとって何とも切ないものです。
徳川家康は「泣かぬなら、泣くまで待とうほととぎす」と、その心境を詠んだものの、おおむね人間は「待つ」ということがたまらなく苦手なのです。

テレビコマーシャルで「三分間待つのだよ」という、カップラーメンのキャッチフレーズがありました。これは、わずか三分、三分間でさえも待てない現代人の我慢のなさを、はっきりあらわしているかと思います。三分間でさえ待てないのです。なぜでしょうか?それは、待つということは、自分を捨てて相手に、或いは、向こう側に身をゆだねてしまうことだからです。やるべきことをやり、向こう側にすべてをおまかせしてしまうことといってもいいでしょう。私達の人生において、じっくり待たなければならないことが多々あるのです。

“果報は寝て待て”

“待てば海路の日和あり”


安平町 見龍寺
守屋 敬道


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2017年4月15日放送「幸せになるために」

あなたは幸せですか?と問われたら何とお答えになりますか?先日、ある勉強会で講師の方にそのように聞かれました。私は迷わず「幸せです」と答えましたが、ある調査によりますと先進国といわれる国の中で、日本人が最も幸福度が低いという結果が出たそうです。

もちろん人それぞれ幸せの定義は違うわけですが、人の幸福度についてとても興味深い研究結果があるそうです。それは幸福度の50パーセントは遺伝子的要素で決まると。更に残りの10パーセントが環境的な要因、40パーセントが本人の行動だそうです。
そもそも遺伝子で決まっているのだから自分ではどうしようもない。日本人に生まれたのだから、この親から生まれたのだから幸福度が低くて当然だともとれますが、しかし、この研究結果の中で重要なのはそこではなく残りの40パーセントは自分の行動でなんとかなるというところです。

幸福度を決めるのは生い立ちや自分の立場、学歴、社会的地位など、今の状況よりも、これから自分がどのように行動するかがその四倍もの要素であるということです。

ではどうしたらいいのか?仏教では正しい行いをすること、善いことをする、悪いことをしないことで幸せになれると示されております。仏教とは幸せに生きるための教えです。善いことはこれからも続けていく、今から始めても遅くはありません。大事なのは実行することです。

更にある調査結果によりますと年齢を重ねるごとに幸福度は高くなる傾向があるそうです。今は幸せだとは思えなくても、正しい行いをしていればいつか幸せだと思える日が来る、そう信じて行動していくことが、きっと自分を幸せにしてくれるのでしょう。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰


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2017年4月8日放送「花祭り」

本日、4月8日は、お釈迦様のお誕生日です。全国各地のお寺では、この時期に「花祭り」が行われます。

お釈迦様は、現在のネパール南部のルンビニという村の花園でお生まれになりました。ご存知の方も多いかと思いますが、お生まれになってすぐに7歩歩き、右手を天に、左手で地を指差して「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと伝えられております。
更にその時、竜の王様が甘い水を注いで祝福したとも伝えられており、それに倣いまして花祭りでは、花御堂の中の誕生仏に甘茶を注いでお祝いいたします。

曹洞宗の御詠歌の中に、この花祭りの御詠歌もございますので、今からお唱えいたします。

心の花も咲き匂う  卯月八日の花祭り

幼姿のみ仏に    甘茶灌ぎて祝わなん

花祭りを通して、約2500年前の方を想って甘茶を注いでいる、自らの尊さにも気付きましょう。


札幌市 峯光寺
小野 隆見


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2017年4月1日放送「万物尖新(ばんもつせんしん)」

今日から四月一日、新年度です。ここ北海道も長い冬がやっと終わり新緑の春を迎えます。春分の日から少しずつ昼の時間が長くなり、毎日そのことが実感されます。北海道の春はモノクロの世界であった冬から色にあふれた世界へと劇的な変化を見せ、喜びもひとしおであります。そんな春の始まりである新年度最初の日を、それぞれにいろいろな環境でお迎えのことと存じます。

中には何も変わらないという人もいらっしゃるかもしれませんが、多くの方は新しい学校、新しい職場、新しい立場など状況が変化していることと思います。

禅の言葉に「万物尖新(ばんもつせんしん)」という言葉があります。この言葉は法要儀式の中に出てくる言葉で非常に重要な言葉です。
万物これは−すべてのものという意味でよろずという字に物の字を用います。尖新−これは尖るという字に新しいという字を用います。つまりこの言葉の意味するところはすべてのものは丁度この春の木の芽のように常に新たに芽吹いているということであります。何が芽吹くのかというと仏性−仏心といってもよいでしょうが人間が持っている本質即ち仏性ということであります。

春風に吹かれて新緑の木の芽が芽吹くのは分かり易く目に鮮やかに映る現象です。しかし、木の芽は冬の寒風に晒されることがなければ芽吹きません。新緑の木の芽は実は既に厳寒の真冬の中で始まっているのです。取り巻く環境が冬と見えても春と見えても芽吹くべき新芽が自身の中に実は存在しているのです。

「万物は尖新」です。

全ては日々刻刻に新しいのです。


札幌市 養福寺
河村 康秀


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2017年3月25日放送「逃げるは恥だが役に立つ」

「逃げるは恥だが役に立つ」。昨年末に放映されておりましたドラマでご存知の方も多いでしょう。とても視聴率が高かったようで大きな話題となりました。
その中で私が一番関心があったのは、その内容ではなくこの題名、「逃げるは恥だが役に立つ」という言葉です。

調べてみますと、この語源はハンガリーの諺にあるそうです。直訳しますと「自分の戦う場所を選べ」「自分の土俵で戦え」「自分の得意分野で勝負しろ」。

「人はそれぞれ得意不得意がある。後ろ向きな決断を下すことがあっても、それはその時は恥であっても、そのことによって自分のやるべきことがみつかるのならばいいことじゃないか」。
「恥をかいても生き抜くことが大切で、生きてさえいればきっといいことがあるさ」とも解釈できます。

常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)さまはどんな人にも分け隔てなく「あなたは必ず仏になれますよ」と言って礼拝して歩いていたそうです。
しかしそんな姿を良く思わない者も多く、悪口や罵るもの、中には杖や石などで攻撃するものもいたそうですが、決して腹を立てずに、やり返すことは無かったそうです。そんな時にはその場所を逃げて、遠くから大声で言ったそうです。

常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)さまはお釈迦さまの教えをひろめるという目的を果たすために耐え忍び、体と命を大事にされて最良の方法を実践されたのです。

逃げるという行動はいいことではなく、その場に踏みとどまって耐え忍ぶことがいいこととされることが多いようですが、必ずしもそうではありません。「三十六計逃げるに如かず」。一時恥となっても、いい結果となるならば、逃げることが最良の策となるのです。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰


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2017年3月18日放送「匙は、その味を知らず」

『匙(さじ)は、その味を知らず』お釈迦さまのお言葉です。
『匙は、その味を知らず』

匙は、物をすくったり、塗ったり、混ぜたり、食べるとき、計るとき、色々な場面で使われます。熱いお茶に入れられたり、冷たいアイスクリームの中に刺されたりと、大活躍です。

しかし、匙には、熱いも冷たいも、美味しいも不味いも関係ありません。
匙は、何も知らず何も感じません。
でも、私たち人間は、『匙』であってはいけないと、お釈迦さまが教えられているのです。

恵まれた環境にいることに気付かずにいたり、すぐ隣の人の苦しみ哀しみを想いはかり察することもない、そんな人間にはなるなということです。
多くの縁、関わりの中に、この身をおく私たちは、無関心でいること無く、心をやわらかく、やわらかい心を持たなければならないということです。
堅い心から生まれてくるものには素敵なものなど無いはずです。

テレビCMにも使われた相田みつをさんの言葉があります。
『セトモノとセトモノと ぶつかりっこすると すぐこわれちゃう
 どっちか やわらかければ だいじょうぶ
 やわらかい こころをもちましょう
 そういうわたしは いつもセトモノ』

匙やセトモノで終わらない心を、人の苦しみ哀しみを察しうる心を、美しいもの微笑ましいものにも感じ入る心を、そんなやわらかく広い心でありますように。


札幌市 含笑寺
神谷 俊英


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2017年3月11日放送「禅師と饅頭」

大正時代初期のお話でございます。
あるお寺へ、大本山永平寺より禅師様がご法要に参られました。

少し離れたお寺の御老僧が禅師様と親交が深く、是非ご挨拶に伺いたいが、どうしても都合がつかず、代わりに弟子の小僧さんに菓子折りを持たせ挨拶に遣わせました。

小僧さんはお寺へ到着し、すぐに禅師様のお部屋へ通されましたが、緊張で挨拶もできず、禅師様の前に出されている饅頭をじっと見つめて、禅師様の話に頷くのが精一杯でした。

禅師様は小僧さんにどんなお坊さんになりたいかと聞いたそうですが、小僧さんは緊張で何も答えられず、黙っていると、禅師様は自分の饅頭を手に取り、小僧さんの手のひらに饅頭を一つ乗せ「お前さん、坐禅一筋に生きなさい」とおっしゃられたそうです。

その瞬間、小僧さんの緊張はハッと解け、目の前のとても偉いお方が、自分の師匠と同じ事をおっしゃられた、これは間違いない自分は坐禅の道で生きようと心に決めたそうです。

小僧さんは、師匠の遣いとして、朝から長い道のりを歩き、緊張の中このお寺へやってきた。甘い饅頭などは普段滅多に口にできないだろうし、師匠の御老僧は坐禅一筋のお方である。
目の前で姿勢を正し、黙って座っている小僧さんを同事の心で理解された禅師様は、小僧さんが好きであろう甘い饅頭を布施して緊張をほぐし、進むべき道を愛語で示されたわけでございます。

あの日禅師様から饅頭を頂き、坐禅一筋に修行された小僧さんは、後に大本山永平寺七十八世の大禅師猊下となられ、全国各地で出会った小僧さんにはいつも優しく温かいお言葉をかけ続けておられたそうです。


札幌市 大昌寺
佐藤 文尊


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2017年3月4日放送「祈る」

近年、祈るという行為が心身に良い影響をもたらすという報告が精神神経免疫学という医学の分野でなされているようです。

ラジオをお聴きの皆様の中にも、たとえばお仏壇の前で手を合わせ、祈ったり願ったりされる方もおいででしょう。

私たち僧侶は読経の結びに必ず「回向文(えこうもん)」というものをお唱えいたします。回向(えこう)とは自身の善業によって生じた功徳を、他のものに巡らしたむけんと祈る事です。
本日はその回向文(えこうもん)の中でも最も短い「普回向(ふえこう)」というものをご紹介いたします。普回向(ふえこう)の「普」はあまねくの意味です。

次のようにお唱えいたします。
「願わくは、この功徳を持って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを」
と、このようにお唱えいたします。

意味は次のようなものです。
「私は願います。今お勤めしたこの功徳が、私たち人間を含めた生きとし生けるもの全てに巡り行き渡りますように。そして人々がお釈迦様の教えに即した生き方ができますように」
という意味です。

さて、私の勤めるお寺に、月に一度、今年小学生になったお子さんと、そのお母さんがお寺へお参りに来られます。その子のお父さんが眠る納骨堂の前へ手を合わせに来られるのです。納骨棚の前でお経を唱え、最後に一緒に普回向(ふえこう)をお唱え、手を合わせます。
手を合わせるその子の姿に、私は命の尊さを感じます。

気がつけば三月。北国も長い冬を過ぎ、これからお彼岸を迎えます。ご先祖様からのご縁を通じて、今を生かされているこの命に感謝をし、皆様の安心(あんじん)を祈ります。

今日という日が、皆様にとって良き一日となりますように。

「願わくは、この功徳を持って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを」

合掌


札幌市 瑞現寺
斎藤 徳光


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2017年2月25日放送「奇跡」

お釈迦様がお説きになられた、『父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)』というお経に、次のような一説がございます。

「全ての人々よ、父には慈恩(じおん)があり、母には悲恩(ひおん)がある事を忘れてはならない。人間がこの世に生まれてくるという事は、その人がこの世にどうしても必要な存在だという尊い約束にもとづき、その人の父母の命をよるべとして、生まれてくるのだ。」

さて、私達がこの世に今こうして存在できておりますのは、勿論、お一人お一人のお力によるものですが、御先祖様、そして私達を直接お生み下さった御両親様の御存在あっての事と存じます。

又、ある本に次のような事が書かれておりました。
一組の両親から、どれだけの遺伝子のパターンを持った子供が生まれてくるのか。これを計算致しますと、その可能性は七十兆だそうです。
私達は七十兆分の一なのです。これはもう奇跡的な数字です。まさに、私達は七十兆の中から選ばれて生まれてきた、かけがえのない一人なのです。

私達がどんなに人類をさかのぼっても自分と同じ人間は絶対にいませんし、人類の歴史がどんなに続いても、自分と同じ人間は生まれてこない、今現在を生きている私という存在は、過去にも未来にも存在しないのです。

世情、命を軽んじるような事件が数多く起こっておりますが、奇跡ともいうべき確率でこの世に生を受けた私達は、自分の命は勿論の事、他人様の命も大切にし、そして又、この世に私達を生んで下さった御両親様始め、御先祖様方に日頃より感謝の気持ちを持たれる事が大事なのではないかと思います。


夕張市 錦楓寺
磯西 道由


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2017年2月18日放送「善い行い」

仏さまの教えに「わるいことはしない。よいことをする。そうすれば心が清らかになる。」というものがあります。じつに簡単そうなことですが、実際に行動に移そうとするとなかなか大変なことでございます。

善いことを積み重ねることを「徳を積む」などと申しますが、善いことをしてもそこに見返りを求める心や、人に褒めてもらおうとする心があったりするとそれはなんの値打もないものになってしまいます。
人に見せびらかさず見えないところでする善い行いが本当に価値のあるものでこれを私たちは「陰徳を積む」と申しております。

もっというと誰も見ていない誰も知らないならば、平気で悪い行いをして、誰かが見ているところでは善い人を演じる。このようなことはしていないでしょうか?

人が見ているところでゴミをポイ捨てする人はなかなかいませんが、誰も見ていないところでポイ捨てをしてしまう人は実のところかなりいる気がいたします。

人が見ているから善い行いをするのではなく誰も知らなくても見ていなくても善い行いをすることが「陰徳を積む」ということです。

言うは易く行うは難しですが、まず例えば玄関の靴やスリッパが乱れていたら直すように心がける。毎朝、仏壇の水とご飯を替えることを約束する。

なんでもよいのですがこれらのことを長く長く続けてください。10年続けることが出来たならそれは日常の生活の一部となっていて、何の見返りも求めずに自分でも気付かずに陰徳を積めていることになります。
大切なのは続けることです。

自分の良心にしたがって正しいことを積み重ねていっていただきたく思います。


夕張市 禅峯寺
安藤 英賢


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2017年2月11日放送「明珠在掌」

皆さんは、「幸せの青い鳥」という童話をご存知でしょうか?兄のチルチルと、妹のミチルが、幸せの青い鳥を探して夢の世界へ旅に出るお話です。
二人はいくつもの不思議な国を巡って青い鳥を連れて帰ろうとしましたが、とうとう果たせませんでした。ベッドの上で目が覚めて、ふと鳥かごを見ると、かごの中に探していた青い鳥の羽根が入っていました。
わざわざ探しに行かなくても、きょうだいが家で飼っていた鳩こそが、実は幸せの青い鳥だったのです。

このお話は、幸せは自分のすぐ近くにあるのに、我々はそのことになかなか気付かないものなんだと教えてくれています。

「明珠在掌(みょうじゅてのひらにあり)」「明珠在掌」という禅の言葉があります。素晴らしい宝物は、最初から手のひらの中にあるのだ、という意味です。

数年前にあるお檀家さんにお参りに伺った際、ご主人を亡くされたおばあちゃんが、私にこんな話をしてくれました。
「若さんね、旦那が生きてるときは、腹を立ててケンカしたこともあったよ。けど、亡くなった今となっては全てが懐かしく思える。愛おしく思えるんだよ」と。

私は「亡くなった今となっては全てが懐かしく思える。愛おしく思える」という言葉に深い深い愛情を感じると共に、そうは言ってもそのおばあちゃんはご主人のことを元気なうちから大切に思っていたんだろうなと感じました。
一番身近な存在の大切さ、いてくれる有り難さに気付いていたんだろうなと思いました。

幸せは自分のすぐ近くにある。素晴らしい宝物は最初から手のひらの中にある。
皆さんのすぐ近くにも、きっと幸せや宝物があるはず。必要なのは、探しに行くことより、気付くことです。


千歳市 大禅寺
押見 正貴


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2017年2月4日放送「小さなほとけさま」

本日は「利行」と言う教えについてお話を致します。
「利行」とは見返りを求めずに人助けをする仏様の行いです。

先日境内の落ち葉を掃き掃除しておりますと見知らぬ小さな男の子が自転車で私の元へやってまいりました。
「こんにちは、お坊さん何してるの?」
「ほうきで落ち葉を集めてお掃除をしてるんだよ」
「ふーん、僕はね今パトロールしてるんだ。僕もお手伝いしても良いですか?」
「え、あ、ありがとう、じゃあ宜しく頼むね」

話を聞くとその子は近くの保育園に通う五歳の男の子でありました。
十分程が経ち私が「もういいよ、どうもありがとう」と言うと「えー!でも、まだ向こうにも落ち葉があるよ」と言って男の子は箒を持って駆け出して行きます。

結局それから一時間近くも境内の掃除を一生懸命手伝ってくれたのです。
「どうもありがとう。おかげで綺麗になったよ。これお礼にチョコレートどうぞ」
「そんなのいらないよ、でもその代わりまたお手伝いに来ても良いですか?」
「もちろんだよ、ほんとに今日はどうもありがとう」

私はこのとき小さな男の子にほとけさまの姿を見ました。
改めて「利行、見返りを求めずに人助けをする仏様の行い」を教えて戴いたのです。

それ以来お寺には時々、自転車に乗った小さなほとけさまが掃除を手伝いに来てくれるようになったのでした。


安平町 瑞雲寺
増坂 泰俊


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2017年1月28日放送「お不動さん」

2017年がはじまり間もなく一月が経とうとしております。
年末をご家族とゆっくり過ごし、年が明け心新たにお寺や神社にお参りされた事と拝察致します。
初詣や厄払い、節分の御祈祷とこの時期は、各地で身と心を浄めるお勤めが多くございます。

大安寺では本日十二時より不動尊の法要が執り行われます。
皆様にはお不動さんと呼ばれ親しまれております。
以前は開基松岡家にお祀りされ、地域の皆様にお参りされておりました。
ある時お祀りしていた建物が火災にあいました。
しかしお不動さんはその中から奇跡的に焼け残り、その後はお祀りする場所を大安寺本堂へと移し、文字通りこの地の不動の守護尊として私たちを見守ってくださっております。

お不動さんは怖しい姿をされております。
剣で悪しきものを遠ざけ、煩悩、私たちの欲を打ち砕き、迷いを断切り、願いを成就させ、良きご縁へと導いて下さいます。
お不動さんは、私たちに所願成就と良きご縁は、欲深き迷いの先にはないという事を、お姿を持ってお伝えくださっております。

菩提寺様、近隣のお寺様へ足を運び、この時期は仏縁を深めて頂ければ幸いでございます。
2017年、皆様の家内安全、諸縁吉祥をお祈り申しあげます。


室蘭市 大安寺
岡部 良道


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2017年1月21日放送「洗面・歯磨き」

みなさま、今朝起きられてから洗面、歯磨きは、お済ませでしょうか?
毎朝、何気なく洗面と歯磨きをされている方も多いと思いますが、この洗面・歯磨きという行いが大事な修行の一つであると、曹洞宗の開祖である道元禅師は説かれているのです。

道元禅師が修行されていた当時の中国では、洗面は行われていましたが、歯を磨くという習慣が一般的ではなかったと言われています。
逆に当時の日本では、口をすすぐ程度のことは行われていましたが、洗面は行っていなかったそうです。

道元禅師は、これが一得一失であると考え、顔や歯を清潔にしない状態で人と接することや様々な行いをすることは無礼であり、単に自分の顔を洗うのではなく、洗面をすることは自分自身を浄めその行いが世の中を浄めると示され、汚れていようと、汚れていまいと洗面・歯磨きを行うことも修行の一つであるとして、洗面と歯磨きの両方を行うべきであると説かれました。

洗面については、水よりお湯の方が汚れが落ちるので、お湯を使って顔全体から耳の裏、頭の上に至るすみずみまで洗うことなど、歯磨きについては、楊枝の端を噛み潰して細かくしそれを使って磨き、舌も刮ぐことなど、正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)の中で所作や使用する物について事細かに示されました。

この道元禅師が説かれた洗面・歯磨きの教えが一般の人々に広まり現代の洗面と歯磨きが習慣となっていったのです。


小樽市 興聖寺
清水 英詔


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2017年1月14日放送「無功徳」

冬真只中の1月、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
まだストーブがついていない寒い部屋の中で、私はなかなか温かい布団から抜け出すことが出来ず、やっとの思いで起き上がっている毎日でございます。

そんな私のとある朝の出来事です。
顔を洗い、朝食を頂き、さあお寺に向かおうと外に出てみれば、待っているのは辺り一面の白銀世界。先ほど頂いたお味噌汁のおかげで温まった身体も、一気に冷めてしまいます。
せっせと雪掻きをし、やっとひと段落ついてお寺に行ってみれば、またまた一面白銀世界。一層気合を入れ、またせっせと雪掻き。

そんな中、毎朝お寺にお参りに来られるお檀家さんが来られました。
「おはようございます、知道さん。毎朝雪掻きお疲れ様。いつもこのお寺を綺麗にしてくれて、ありがとうね。」
この言葉を頂いた時、ポカポカと、身体だけではなく、心も温まっていくのを感じました。頑張った甲斐あったな〜って。

仏教には無功徳という言葉があります。どんな事にも見返りを求めてはならない。利益を求めず行うことで、初めて善行となされるといいます。なかなか厳しい教えでございます。
ですが、そこに相対する人が、慈悲の心をもって接すれば、愛語をもって接すれば、お互いの心に温かみが生まれ、これ以上のない功徳になるのだと、あらためて思い知りました。

寒さの厳しい北海道の冬ですが、人の温かさというものは、そんな寒さも吹き飛ばしてくれます。皆さまも是非、私のような寒がりな人を見かけましたら、慈悲の心をもって接してあげて下さい。


小樽市 円龍寺
桑田 知道


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2017年1月7日放送「感謝」

昨年も地震、台風、豪雨などの自然災害によって甚大な被害がもたらされた年となりました。被害に遭われました方々に心よりお見舞い申し上げますとともに、今年こそは平穏な一年でありますようにと祈念致すところでございます。

さて、「一年の計は元旦にあり」という言葉がある通り、物事を始めるにはまずきちんとした計画を立てることが大切です。皆さまもそれぞれの目標を立てて新年を迎えられたことでしょう。しかし、目標を成し遂げるためには様々な困難や悩み、苦しみなどを伴うことがあります。そんな時には今自分が存在すること、生きているということがご先祖様やご両親はもちろん、自分を支えてくれる多くの方々のお陰であるということに気づき、感謝する心を持ちましょう。感謝し孝行することは仏さまになる道であり、悩みを解決するための道となるのです。

本年は酉年です。この酉年の酉という字には果実が成熟した状態、実った状態という意味があるそうです。皆さまにとりましても実り多き一年となりますことを心よりご祈念申し上げます。


曹洞宗北海道管区教化センター 統監
藤原 重孝


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