法  話

HBCラジオ「曹洞宗の時間」(毎週土曜 午前6時15分〜6時19分)にて放送された、
北海道各地のご住職の法話を掲載しております。
また、実際にラジオで放送された音声データの配信も行っております。

ポッドキャスティング 配信データ

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2011年12月31日放送

2011年、今年もあと数時間となってしまいました。申し上げるまでもなく、この一年は、世界中で災害が相次ぎました。 わが国では、この大災害に遭って、改めて人と人との絆、思いやりの心、ありがとうの言葉と感謝することの大切さを考え直す機会となりました。

永平寺の道元禅師は「窮亀を見、病省を見しとき、彼が報謝を求めず、ただひとえに利行にもよおさるるなり」と示されました。言うこころは、困っている人や病に苦しんでいる人を見たとき、その人から感謝されることを望むこともなく、ごくごく自然に、「助けなければ」という「利行」に催される、という意味です。

昨年の今頃は、「タイガーマスク運動」が私たちの心を温めてくれていたものです。ランドセルが買えない子供たちにランドセルを密かに贈る行為でした。これもまた、利行に催された人々の尊い行いでした。

そして、三月十一日の大震災での大津波と追い打ちをかけるような福島第一原発事故。歴史に残るこれらの大災害は大勢の人々の、平凡な日常を一変させました。被災された人々を目の当たりにして、私たち日本人は一丸となって利行に催されたものです。 利行の心が、人さまの悲しみ・苦しみに深い共感を覚えることによって、目覚めさせられたのであります。

さもあらばあれ、旧年の道はそのまま、新年の道になります。あらためて、思いやりの心、感謝の心をもって新年のスタートにしてゆきたいものであります。


歌志内市 明王寺
合澤 淳徳さん


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2011年12月24日放送

私達は日常の会話の中で、よく「お陰様」と言う言葉を使います。しかし、この「お陰様」の本当の意味を理解して使っている方は少ないような気がいたします。

「陰」とは、御先祖さまの霊を表す言葉であり、即ち「お陰様」という言葉は、自分の力だけではなく、それ以上に、御先祖様にお守り頂いていることに対する感謝の意味が込められています。

かつて私が、本山での修行から寺に戻ったときに、妹がこんな話をしてくれました。 私の留守中、お正月などの大事な行事の折には、母が必ず私の席に、私がいた時と同じように陰膳をしてくれていたそうです。 その話を聞いた時には、子を思う母の真心に対して、本当に有り難い気持ちになったものです。

真の「供養」とは、特別にお金をかけたり豪華に飾り付けたりすることではなく、真心を込めて普段通り自然にする行いのことです。それは雨露が自然に草木を潤し育てるように、見返りを求めず、ただ無心に行われることです。

「真心さえあれば、それは必ず念ずるところの精霊に通ずるものである」と、総持寺をお開きになりました瑩山禅師様が言われました。 仏様におりく禅やお供えを差し上げても、実際に食べて下さるわけでも、有難うとお礼をいわれるわけでもありません。けれども真心というものは、必ず伝わるものなのです。その真心こそが「供養」であり、御先祖様に対する感謝の気持ちが「お陰様」という言葉に込められているのです。

とかく我々は、日常に追われて供養の心を忘れがちですが、毎日の暮らしの中で「お陰様」という言葉を使う時には、この言葉の真の意味を思い出して欲しいと思います。


岩見沢市 安国寺
岡田 博孝さん


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2011年12月17日放送

今年も残すとこ僅かとなり、皆さんにとってどんな一年になったでしょうか。一日一日を大切に過ごすことが出来たでしょうか。

先日お檀家さんのお宅にお参りに行き、当家のお婆さまとお話をする機会がありました。今年も一年お元気でお過ごしになり良かったですねと尋ねると、「はい、おかげさまで一日一日を健康無事に過ごすことが出来ました。寂しいことや嫌なこともありましたが、明日にはまた嬉しいことがあると願い、日々の幸せを感じながら過ごした一年でしたよ」と穏やかなお顔でお話をしてくれました。

私たちはみんな同じ時間という単位、同じ一日という単位を過ごしていますが、その中でどのように時間を過ごし、どのような気持ちで一日を過ごすかによって、生活が変わってくると思います。

『日々是好日』という言葉があります。嬉しいことがあった日も嫌なことがあった日も、それは二度と繰り返すことのない大切な一日であるから、過去のことを悔いたり、未来のことを考えたりせずに、この一瞬、その時を手を抜かずに全てを受け止めて、精一杯生きることと言う意味です。すなわちその日を良い一日にするのは、起こる出来事でも、出会う誰かでもない、自分自身のこころなのです。

お檀家のお婆さまも、全てを受け止め、おかげさまの感謝の気持ちで、そして穏やかなこころでその日を『好日』としてお過ごしになったのであります。皆さんの今日一日起きてしまった出来事は変えることはできないけれど、それを受け止めるこころ次第で変わってきます。どうか一日一日を『好日』としてお過ごしをいただき、今年一年を締めくくって頂きたいと思います。


岩見沢市 常厳寺
山下 門仁さん


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2011年12月10日放送

「おとうさん、会いに来たよ…。なんぼ呼んでも返事しないんだから。」 私のお寺のお檀家さんで、寺参りに来られる度に必ずこう言って、お亡くなりになられたご主人のお墓に話しかけるご婦人がおられます。またそれを何度となく耳にしていた私の妻は「○○さんは幸せだね。」と言って私に教えてくれました。私は何とも言えぬ温かい気持ちになりました。

しかし何故、返事がないと不満を言っている奥さんの姿を見て、さらには亡くなっている仏様に対しても、幸せだなと思えたのでしょう。それは、人というのは亡くなっても、きっと何処かで私たちを見守ってくれているから、こちらの思いが通じていると信じているからなのだ、と思いました。結果を求めたり、実際に確認できなくても、幸せは感じられるのだと知りました。

幸せとは一体なんですかと聞かれたら、おそらく多くの方は自分の思うある欲求が満たされた時に感じるものだと答える方が多いかと思いますが、それは本当の幸せでしょうか。

唯教と言うお経の中に「多欲の人は利を求むること多きが故に苦もまた多し 小欲のひとは無求無欲なれば則ち此の患い無し」とあります。ひとつの欲を満たしても、さらに多くのもっと大きな欲望へと変わっていくことで、苦悩もまた増えていくことになってしまうのです。本当の幸福・心の安楽とは、この欲を少なくしていくことにあると教えてくれています。

さて、大晦日になりますと除夜の鐘が打ち鳴らされますが、これは心の闇夜を除くという意味で、人が持つ百八つの煩悩を取り除こうと心の大掃除をする為に打ち鳴らされるものです。

月日はあっという間に過ぎ去って行きます。今年こそ今年こそ、また来年とならぬように今から少しでも少欲に心掛けていきたいものです。


美唄市 禅昌寺
荻野 道弘さん


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2011年12月3日放送

今月の八日は、お釈迦様がお悟りを開かれて仏様になられた日であり、各お寺ではそのお徳を讃え報恩感謝の心をこめた「成道会」という法要を行います。「成道」とは「道を成す」と書き、道を得て仏と成る、という意味です。

お釈迦様は、人は誰でも仏様の心である「仏心」を持ってはいるが、様々な物に執着する心も持っているので「仏心」が表に現れず、苦しみに満ちた人生を送ることになる、と気付かれました。そして、苦から逃れようとするなら、この執着心を捨てなければならないと説かれました。「仏心」とは「執着心を離れた時に、あらわれてくる心」を言うのです。

お釈迦様は、皆がご自分と同じお悟りを開くことをお勧めになりました。しかし、言うことは簡単ですが、実際には非常に難しいことです。たとえば、野球をやるなら全員がイチロー選手になることを求められているようなものです。

イチロー選手のようなプレイヤーになることは難しい。でも、イチロー選手のファンになり、そのプレーに感動することは出来ると思います。同じように、お釈迦様の信者となって、その教えを信じ心を安らかにすることは誰にでも出来ることだと思います。

普段お釈迦様を意識することは少ないかもしれません。この成道会という機会に、お釈迦様の教えに耳を傾け、親しみ、実践していかれることをお勧め致します。


奈井江町 円通寺
矢野 一道さん


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2011年11月26日放送

先日、あるお檀家さんの家にお伺いしたとき、小さなお孫さんが得意気に話しかけてきました。
「ねぇ知ってる?『親』っていう字は、木の上に立って見るって書くんだよ。」
「へぇ、そうなんだ。よく知ってるね。」
「……あれ?でもうちのお父さん木登りできない……」
学校でそう習ったのでしょう。聞いている私も微笑ましくなるような言葉でした。

私もこの話は子供の頃教えられました。「親は子供のことをいつも見守っているものだ。だからこのように書くんだよ」と、親の大切さを説明されたのを憶えています。 親だけではありません。我々の前に累々と続くご先祖様、そしてその先祖をお守りしている仏さま。実に数多くの方々に、私たちは慈悲の眼で見守られています。

この「慈悲」という言葉、慈しみの他に「悲しい」という字が使われているのはなぜでしょう。これは、私たちのよくないところ、直した方がよいところを見て「こうすればもっとよくなるのに残念だなあ」という心配をしてくれる心なんです。 つまり我々は数え切れないほど多くの人から、よいところは伸ばされ、悪いところは直される、ありがたい視線を送っていただいているわけです。

ところが我々は普段、自分のために何かをして欲しいと「願う」ことはしょっちゅうなのですが、その自分自身が「守られている」「願われている」ということには、意識しないとなかなか気づきません。 普段守られ、願われていることに気づき、こちらからもお礼の気持ちで恩返しをする事が、供養に繋がっていきます。

「慈しみの眼をもって衆生を視れば、福の聚(あつ)まること海のごとく無量なり。」

お経の一節にあるこの言葉を、見守られている我々の立場で訳すとこうなります。
「皆に慈しみの眼で見守られているので、我々には幸せが海のように集まってくる。」

お仏壇の前、お墓の前、ご先祖様を思うとき、このことを思い出し、一言「いつもアリガトね。」の言葉を付け加えてみるのも、いいかもしれません。


函館市 高龍寺
永井 正人さん


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2011年11月19日放送

最近「頑固な人」が気になります。

頑固な人ってどんな人なのでしょうか? 言い出したら聞かない人、これは困った人。人と合わせられない人、これは我が儘な人。自分の意見を曲げない人、ある意味そうですね。自分がこれまで行ってきたこと、それをやめないこと、やめようとしないことであると思います。 長い時間をかけて1つのことを考えたり、行い続けてきた人であることに違いはありません。時代遅れと言われたり、古いと言われたり、今とは合わない、といわれることもありますから、悪いイメージが先行してしまいます。

でも、実は「頑固」であること、頑なに自分の生き方を貫くこと自体には、「良し」も「悪し」もありません。

それに比べて、最近の私達は何をするにつけても、終わることを考えています。学校の授業、仕事。「これぐらい出来ればいい」とか、「今日はここまで」といって自分の仕事や行いを区切ることをしています。「上手に時間を使う」ということを目指しますし、無駄にしない、利口なことでもありますが、裏を返せば「打算的」です。 そしてこの打算は時として、自分の人生という時間すら勝手に計ってしまいます。

「頑固に生きる」この生き方には、打算的な仮定や憶測は存在しません。やり始めたことは、やり通さなければなりません。なぜなら、やめるために始めたものではないからです。格好は悪いかもしれませんし、結果も残せないかもしれませんが、自分がしていること、してきたことを行い続けることに「頑固」な生き方があります。「自分」で選び、自分の意志で続ける1つのこと、それが結果として「頑固」な姿になるんです。 「頑固」な人達の生き様が、強く生きるためのヒントを教えてくれているように感じています。

皆さん、頑固にいきましょう!


滝川市 興禅寺
芳村 元悟さん


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2011年11月12日放送

この世の中、お金を借りるにせよ就職においてもきびしい誓約書に署名捺印しなければならないし、学習を目的にする学校の入学においてさえも、そうした手続きをすることが必須条件とされている。 男女が愛情を確かめ合ったうえでの結婚式をあげるときも、当然やらなければならない儀式の順序で、誓いのことばを取り交わした上に、三三九度という固めの盃を交わし、その結び付きをたしかなものとして安堵する。 なにゆえに対人関係において我々は、そういう煩わしい手続きをふまなければならないのか?理由は簡単である。人間不信へのあがきである。

証書を入れ、誓いを取り交わしたからそれが絶対のもの、というのではなく、証書を反故のごとく扱い、誓いを踏みにじる事例は色んな分野において世間にいっぱいあってさまざまな悲劇を巻き起こしている。 そのことを知らない者は居ないと言っていいにも関わらず、尚且つその頼りにならないものに寄りかからなければ安心できないのが人である。

人間の心、そこから出る言葉は、それほど信用がおけないということは、初めっから嘘の塊としてあるのではなく、いつ何時変わるかもしれないという無情性があるということである。 宗教とは、その無情性をみつめることによって、その寂しさを悲しむ心であり、自ずから底抜けに相手を信じようと志向する願いが生まれてくる。

証書や手続きを抜きにしての繋がりこそ、貴重なものとして、儚い人間関係の中に、そういう温かいものを一つより二つ、二つより三つというふうに輪を広げたいものです。


岩見沢市 禅洞寺
渡辺 孝文さん


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2011年11月5日放送

今年6月、私のお寺に男の子が産まれました。 産まれた瞬間、か細い声でおぎゃーおぎゃーと泣き、一生懸命に呼吸をして生きようとするその姿をみたとき、改めて命の尊さを感じました。

人の命は、親から子へ、そして孫へと、次々と命のたすきが引き継がれ、どの一人が欠けても存在しない奇跡のようなものだと思います。 この世に誕生して、生きて、死んでいく。これが私たちの人生ですが、この命は授かったものです。この世に人として生まれて、授かった命を生きているのです。

人として生まれてくるのはなかなか得がたいことです。 お釈迦様はこの得がたさを、「ヒマラヤの頂上から糸を垂らして、海の中にある針の穴に糸を通すようなもの」とたとえられました。それだけ、人として魂を宿す事は奇跡のようなものです。

そんな得がたい命を自分の都合で奪ったり、また自分自身で絶ったりする悲しい出来事が昨今増えています。 生きていく人生の中には、生、老、病、死のように苦しいことがたくさんありますが、だからといって歩みをとめたり、後戻りしたりすることはできません。 苦しみや障害にもくじけず、それを乗り越えていかなければなりません。授かった大切な命を、ろうそくの火が燃え尽きるように、臨終のその時まで生き抜くことが大事なのです。

人生は、誰にも代わってもらうことはできません。二度とやり直しのきかない、一回限りの人生を誰もが生きているのです。 この身が、たとえどんな境遇にあっても笑顔で、やさしい心を持ち続け、共に人生を楽しく生きたいものです。

人は生まれながらに仏であります。我が身ながらに尊いことです。生まれながらにそなわった仏心を生かしていきたいものです。


美唄市 大円寺
岡田 倫尚さん


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2011年10月29日放送

首都圏の駅などでは節電で止まっていたエスカレーターが動き、昼間消していた照明がつき始めたようです。震災後、東京へ行くと空港や駅は暗く、止まったエスカレーターを横目に見ながら、荷物を持って階段を上り下りして、不便に感じ戸惑ってしまいました。

人は、今まで当たり前と思っていた事が当たり前ではなかったと気付いた時、それがどんなに有難いことだったのかと感謝の気持ちになれるものです。 これまで私達は、様々なものを浪費し続けることによって豊かさを求めてきました。それが当たり前のことのように、便利に慣れ錯覚してしまっていたのです。実にもったいないことです。

もったいないという言葉は、世の中にモノが溢れ大量に消費を続ける現代ではあまり聞かれなくなっていました。しかし、モノを大切にしてきた先人たちの生活の中では間違いなく、もったいないという精神が息づいていました。

子どもの頃、ご飯茶碗にご飯粒が残っていると、「最後の一粒までもったいないからしっかり頂きなさい」と言われたように。モノには限りがあり、それらを大切に扱うことで愛着を持ち、さらにはそれを作ってくれた方やそのものに敬意を払う心があったのです。

当たり前と思って自分中心に生きてしまいがちな私達が、実は多くの見えないものの有ること難しのおかげによって、包まれ、支えられ、生かされていることを、感謝の念を忘れずにいたいものです。


豊頃町 放光寺
井上 泰孝さん


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2011年10月22日放送

今や、知りたいことは何でもインターネットから、検索ボタンひとつで探し出せる時代。一昔前なら、書籍を買って読むことでしか得られなかった知識も、インターネット上で調べれば、詳しい解説が無料で見られる便利な世の中になりました。 知識・情報の集積。この点において、コンピュータはもはや万能と言ってよいかもしれません。

私は、お年を召されたお檀家さんのお宅へお参りするとき、よく戦時中の思い出話を教えていただくことにしています。シベリアに抑留された時、餓死していく仲間たちを見ながら、雑草を食べて飢えをしのいだこと。十勝の空襲の際、爆撃機に見つからないよう草むらに隠れた経験・・・。知識としてしか戦争を知らない私に、経験者にしか語れない言葉で教えてくださいます。

曹洞宗ではお釈迦さまから授かったみ教えを、師匠から弟子へ継承する儀式があります。式を行う場所は、部外者の立ち入れないように閉め切った本堂。そこではお釈迦さまの時代からの、歴代の弟子の名前が連なった書の中に、自分と師匠の名前を確認します。この作業を通じて、自分も先人たちの中に名を連ね、初めて一人前の僧侶と認められることになります。経典の知識と同じくらい、あるいはそれ以上に悟りの経験、そのつながりを重視しているのです。

我々が学ぶ学問の知識・歴史事実は、そのかなりがパソコンから引き出せるようになりました。しかし文章では伝わらない、実際にその時代を生きた人が面と向かって話すことによってしか伝わらないものがあります。新しい世代に、経験の継承。たまにはじっくり、ご家族で昔話をしてみてはいかがでしょうか。


帯広市 永祥寺
織田 秀道さん


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2011年10月15日放送

ある夏の日のことです。
お寺に若い御夫婦がお参りに来られました。お母さんの腕には小さな赤ちゃんが優しく抱かれていて、お父さんの手には、三才になる女の子の手がしっかりと握られていました。 お参りが始まるまでも、ご供養のお経をあげているときも、その女の子はずっと、何か呪文のようなことを口ずさんでいます。お経を読んでいる私にはなかなか聞き取れません。 お参りが終わりまして、そのご夫婦とお話をしていますと、また女の子がその呪文のような言葉を言いました。そこで私は「お子さんは何度もなにを言っているのですか?」と尋ねてみました。 ご夫婦は照れくさそうににっこりと笑って「私たち家族みんなの名前です。」とおしえてくれました。 おもしろいことに、お父さん・お母さん・女の子・赤ちゃんの名前がしりとりでつながっているのだそうです。 仮に例を挙げてみますと、「たかし・しずか・かおり・りか」といった具合です。リズムが良くて気に入ったのか、最近いつも口ずさんでいるのだそうです。

お寺はお釈迦様からのおしえを代々護っているところ。ご供養はご先祖様からの命のつながりを確かめ感謝すること。女の子はそれと同様にとても大事な、今の命のつながりを、しっかりとお唱えしていたのです。

ご夫婦の笑顔と繰り返される女の子のやさしい呪文に、楽しく新しい形で家族の絆を感じさせていただき、心があたたかくなった出来事でした。


士別市 玉運寺
坂野 亮宗さん


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2011年9月24日放送

物事の状況には、『ありのまま』の状態があります。意味をつけたり、名前をつけたりする以前の『ありのまま』の世界があります。その『ありのまま』の感覚を会得すること。これが仏の道の根幹であると思われます。

では、その『ありのままの状態』を説明いたします。
人間の目で物事を見る時、そこに価値や評価が起こります。しかし、犬や猫、動物たちの目線で世界を見る時、ただ見え、聞こえ、その事実、出来事があるだけです。天気が良いとか悪いとか、プラスだマイナスだ、損した得したとかは、すべて人間の自分を中心とした価値判断でありましょう。

こういう人間的な評価をつける以前の清らかな状態を、ただひたすら、と書いて『只管(しかん)』と言います。 この『只管』とは、あなたが今向かっている目の前のこと。すべてが元々人間の考えや想念で色づけされていないこと。つまり『ただ』です。 あらゆる思想や主義、思いを交えない、ただ、そのままの状態。物事に良いとか悪いとか、買ったとか負けたとか、忙しいとか暇だとか、好きとか嫌いとか、このような思いを起こす以前の世界・精神・自己の姿であります。

お釈迦さまはこのことを、仏教の本質であると説かれ、すべてのことに評価をつける以前の世界を知ること、気付くこと、そういうまなざしを持つことが真の悟りであり、また、そこに住することが、涅槃・彼岸・菩提の道である、と示されております。

何ものにもとらわれない、なんでもなく、あたりまえで、すがすがしい、ありのままの精神状態『只管』。そこを悟ることができれば、人は誰でも大安楽へと導かれることでありましょう。


標茶町 瑞龍寺
西嶋 隆元さん


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2011年9月17日放送

私たち人間は、限られた「命」を救うという事は不可能であり、そこは無力です。しかしながら、どんな人間でも、人の「心」は救う事ができる。救うまで大げさでなくとも、相手の「心」に触れる事ができる。メスで体を開かなくとも、「心」に触れることができる。互いに触れ合うことができる。 そんな素晴らしい力が、時代にも、国や人種にも、性別にも、年齢にも関係なく、全ての人間に、全ての生命に備わっております。

その力は、時に「愛」と呼ばれたり、「強さ」と表現されたり、「優しさ」と称されたりも致しますが、仏教ではこれを「慈悲」と申します。

例えば、「慈悲」をわかりやすく「優しさ」という言葉で表現すれば、人は誰かに一つ「優しさ」をもらう事ができれば、一つ優しくなれる。優しい気持ちになれる。人間が一つ「優しさ」を投げかけた事によって、ここに「優しさ」が二つ生まれる。これが人間同士の本来の姿でなければならないはずです。

心に「優しさ」を持つというのは、実は勇気がいる事。握ったこぶしを開くというのは、実は勇気がいる事です。しかしながら、「優しさ」を持ち続けることは、何よりも強いこと。どんな武器を持つよりも、どんなこぶしで戦うよりも強いこと。「慈悲」の心は、何にも勝るものであり、そしてそれは、本当は誰しもに備わっているものなのですよ、という仏教の御教えです。

一切衆生悉有佛性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)
全ての人の心には、分け隔てなく、純粋な「優しさ」がある。
全ての人の心には、分け隔てなく、慈悲がある
全ての人の心には、分け隔てなく、仏さまいらっしゃる。
その心を、全ての人が今一度、見つめ直すことが大切です。


稚内市 寿徳寺
佐々木 隆宣さん


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2011年9月10日放送

曹洞宗大本山永平寺の修行僧は、毎年七月、日本アルプスの霊峰・白山に登り、山頂の白山神社へ詣でます。

数年前、久しぶりに白山に登ってみると、往復十四キロの山道は、なまった体にはあまりにも厳しく、何度も挫折しそうになったものです。 帰宅してから、快適に登山をするにはどのようなトレーニングを積むべきか、色々と調べてみました。結果は「実際に山を登る」という、何とも当たり前の答えでした。 闇雲に登るのではなく、歩幅やペースを考え正しく登る。そこで、近所の小高い丘で何度も何度も訓練を重ねました。 その甲斐あってか、翌年からは景色を眺めたり、写真を撮ったりと、気持ちにもゆとりができ、快適な登山ができました。

同じように、何かを上手くなりたいと思ったら、そのことをやり続けることが一番良い方法です。スポーツでも、料理でも、勉強でも、仕事でも。 そしてもっとも重要なのは正しい方法で続けることです。登山の歩みのように、ペース配分や呼吸、そして体調管理と装備品の手入れなど。ふだんから正しい努力を積み重ねることが大切です。 この「正しく努力をし続ける」ことを仏教では「精進」といいます。

一滴の雨だれでも、長い年月をかけて石に穴を開けることができるのです。


中頓別町 開禅寺
太田 元穂さん


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2011年9月3日放送

町役場の職員で友達の多い、音楽を愛する人が亡くなり、お通夜の席でさだまさしさんの「防人の詩」をかけさせていただきました。 仏様のおしえで「生老病死」と無常が入った詩でした。

私は時折 苦しみについて考えます
誰もが等しく 抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病の苦しみと 死にゆく悲しみと
現在(いま)の自分と
おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか

三月十一日、東日本大震災。大津波、さらに原子力発電所事故という未曾有の大災害に、私も修行仲間と慰問をさせていただきました。 甚大な被害の様子に、身の凍る思いをいたしました。 少しでも一人ひとりが、安穏な暮らしが訪れますよう、被災者の皆様と向きあい、わがことと受けとめ、ともに支えあうことが大切です。
この詩に

わずかな生命の
きらめきを信じていいですか
言葉で見えない 望みといったものを
去る人があれば 来る人もあって
欠けてゆく月も やがて満ちて来る
なりわいの中で
※『防人の詩』 1980年7月10日 作詞・作曲・歌:さだまさし

標津町 龍雲寺
梅田 一成さん


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2011年8月27日放送

私のお寺では、三年前位から、ふた月に一度のペースでありますが、坐禅会をしています。そして坐禅が終わると、参禅された方々をお茶とお菓子でもてなし、歓談のひと時を設けています。禅寺ですから布教の一環ではあるのですが、それ以上に、お寺にたくさん人を呼びたい、お檀家さんは勿論のこと、地域の皆さんにも、お寺と言うものが身近な場所であると感じて頂きたい、と思ったからです。

お寺へ行くのはお葬式やご法事の時ぐらい、あとは何かない限り行く所ではない。また逆に、何事もないのにお寺へ行くのは変、という昨今の状況。このような存在ではなく、お寺と言うものは境内やご本尊にフラリ訪れてもホッとできる場所、心が安らかになれるトコロ、と感じてもらいたいのです。 かつて、お寺は地域の集会の場でもあり、地域の人々の心の拠りどころ…安心の場でもありました。もう一度お寺がそういう場所になれば…というのが私の願いであり、坐禅会を始めた動機です。

『坐禅』と聞くと、未経験の方は「痛い、きつい、怖い、厳しそう」というイメージで、「チョットは興味があるけれど、いざとなると中々…」と言う方が多いようですが、しかし、一度でも経験された方は一様に清々しい面持ちになり、坐禅を体験してみて――言い方は人それぞれなんですが――皆さん「良かった。心がホッコリした。落ち着いた。何か溜まったモノが出たみたいでスーッとした」などなど。そして、「また坐禅をしてみたい」と言われます。鐘や太鼓で人を呼んでみてもそれは、一回きりのイベントで終わってしまいます。

『坐禅』は、「安楽の法門なり」と道元禅師さまはお示し下さっています。『坐禅』に親しむ人を増やすことで、お寺に人の足を向けさせることが出来る、『坐禅』には人々を安心に導く大いなる力が在ると…私は信じます。

皆さんも一度、安楽の法門を潜り、安心への道を歩いてみませんか?


根室市 開運寺
山崎 祐久さん


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2011年8月20日放送

今年のお盆はどのように過ごされましたか? 里帰りし、墓参りされた方、お寺参りに行かれた方、それぞれ亡きご先祖様に手を合わせご供養の誠を捧げられたことと思います。

さて皆さんは灯篭流しを知っていますか? 私のお寺では今でも灯篭流しを行っています。

お盆は亡き家族、ご先祖様がなつかしい我が家へ里帰りする日ですが、お盆の終わりには、お迎えしていたご先祖様をお送り致します。 灯篭流しは、お盆に帰ってきたご先祖様の御霊を仏様の世界へと送り出す儀式(送り火)が変化したものを言います。 それぞれのお家にお迎えした仏様のお名前を灯篭に書き込み、たくさんの小さな灯篭に火をともし、川や海に流します。 毎年たくさんの灯篭は読経の中、ろうそくの明かりを照らしながらきれいに流れていきます。 ゆらゆらと流れて行く様は神秘的で、しだいに遠くなって行くローソクの灯りがご先祖様の魂を象徴するかのようです。

ご家族大勢で参加する方、お子さんを連れて参加する方、お友達と参加する方など、それぞれ手渡しで川面に浮かべたり、川岸にたたずんで亡き家族を思い手を合わせるなど、思い思いのひと時をすごしています。

今年のお盆もそれぞれのご先祖様の御霊をまごころをもってお迎えし灯篭流しでお送り致しました。 経験のない方でもし皆さんの地域やお寺で灯篭流しを行っているところがあったら、来年はぜひ参加してみませんか?


紋別市 祇園寺
北川 智徳さん


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2011年8月13日放送

今日、八月十三日はご先祖を我が家にお迎えする日です。皆様方も、いつもとちがった気持ちで今日の朝を迎えたのではないでしょうか。

私の母親が亡くなってから今月でまる二十年になります。毎年この時期になりますと、いつも以上に懐かしく両親を想います。今生きていたらどんな言葉をかけてくれるのだろう、心配でハラハラしながら毎日毎日を見守ってくれているのだろうなあ、と考えたり致します。そして生前よく口にしていた言葉を思い出すのです。

当時の私は悩みのドロ沼にどっぷりと浸かっているような顔をしていたのでしょう。「心配で苦しいことがあったら、自分で抱え込まないで観音さんや仏さんにしょってもらいなさい。肩の荷は軽いほうがいいんだよ」と話していました。

昔のひとの歌に「後は人、先は仏にまかせおく、己がこころのうちは極楽」というのがあります。何か取り越し苦労をしそうなときに呪文のように何度も繰り返してこの歌を読んで居りますと、だんだん気持ちが楽になってまいります。

さて、私のお寺では通夜の時、読経、お説教のあとに尺八を献奏させていただきます。 亡き人のご冥福をお祈りするのはもちろんですが、あとに残されたご遺族、参列者の方々の悲しみの心、寂しい気持ちに、尺八の音色が、あたかもクスリのように優しく浸み入ってくれたらと念じ願いつつ、吹かせていただきます。

今年もお盆を迎え、ご先祖様への感謝報恩のこころを形にあらわし、安心して見守っていただけるように、精一杯、一日一日を大切に生きていきますと、お誓いいたしましょう。


釧路市 大康院
横山 寛道さん


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2011年8月6日放送

うちのお寺では朝と夕の二回、鐘楼堂の鐘を撞いています。石垣を切って作ってある階段を上って鐘を撞くのですが、その階段がちょうどいいのか、よく大きなクモが巣を張っています。 鐘を撞く時間のちょっと前にその階段を上ろうとすると、階段いっぱいに巣を張って真ん中に堂々としているんですね。

通れない、さて困った。

私はいつも階段のすぐそばに細い竹の棒を置いていて、それでクモの巣を払うんです。そうすると驚いたクモは石垣の陰に隠れようと、一目散に糸を伝って逃げていく。そうやって巣を払って階段を上がらせて貰うんですが、何時も何時もせっかく夜に作った巣を壊されて可哀想だなという事で、たまに竹の棒でちょっと離れた林に移ってもらうんです。

ある朝、鐘を撞いた後に林に移ってもらおうと、棒を石垣のすみで小さくなっているクモに差し出しました。 するといつもはゆっくり棒に移るクモが、ちょっと後ずさりしてまた体を小さく丸めてジッとしている。なので棒の先をまた近付ける。また二、三歩後ずさりして小さく身を縮ませている。その格好は私の子供とまるきり同じでした。

今、私には二人の小さな子がいます。普段は生意気ですが、怖い思いをしたときなどは「とと、とと」と私を呼びながら私にしがみ付いてきます。それと全く同じ格好でした。 そう思えた瞬間、いままでずっと苦手だったクモがとても小さく哀れで、いとおしく、いとおしくなりました。人と姿大きさは違えども、それは確かに、一生懸命な命でした。

去年の夏の朝、幼い時からクモが苦手だった私とクモの四十五年目の再びの出会いの話でありました。


遠別町 正法寺
山本 大樹さん


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2011年7月30日放送

あるお檀家さんへお参りに伺った時のことです。
「ごめんください!お寺です。お参りにまいりました。」
「ご苦労さまです。どうぞ!」
「失礼致します。」
そう言って私はいつもの様にお茶間を通り、一直線に仏壇の前に座ってローソクに火を灯し、線香を立てて手を合わせてチーン、チーン、チーンとお勤めを始めました。

でも何だかいつもと違う感じがします。それで仏壇の周りをよく見ると一枚の絵が仏壇の折戸に貼ってありました。その絵は丸刈りにメガネを掛け、黒い服を着て紫の小さなエプロンを着けた私よりちょっぴり若い男性が描かれているのがわかりました。そしてお勤めが終わってもう一度よ〜くその絵を見てみると、その絵の左側に平仮名で「ひいばあちゃんのおまいり、いつもありがとう。 はるか」と書いてありました。

私は「この前一緒にお参りをした曾孫さんが描いてくれたんだな」と直感的にそう思いました。そのあとすぐに檀家さんが、「うちのはるかが描いたんだよ。」と教えてくれました。

私は素になって、何度も何度もうれしい、うれしいを繰り返しました。それと同時に色々な疲れや悩みが吹き飛んで、体中にエネルギーが充満してきて、自然と頑張らなくてはという気持ちで一杯になりました。 このひいおばあちゃんの命を受け継いだ、願いや思いがいっぱいつまった曾孫さん、はるかちゃんの行い、あたたかくて思いやりのある言葉、おくりもの、素敵だと思いませんか!

お盆が近づいています。


新得町 永福寺
大崎 道春さん


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2011年7月23日放送

私達は、喜怒哀楽などの自分の感情や思いを誰かに分かって欲しいと思います。そして言葉を用いて自分の意志を相手に伝え、その心のうちを理解します。お互いに認識を共有することで人間社会が営まれています。言葉は人と人との交流に重要な役割をもちます。

「あの時あの人にかけてもらった一言に救われた」「生涯忘れられない言葉」もある一方「あの人にあんなことを言われた」ということも誰にでもあるはずです。それだけに言葉の使い方如何によっては毒にもなり、薬にもなってしまうのです。よくよく注意して使いたいものです。それ故、私達・仏教徒が実践すべき徳目、愛語が大切になってきます。

母親は幼い子を穏やかな優しい眼差しで見守ります。「愛語」というのは、そんな母親の気持ちになって心から人を思いやる、温かい言葉をかけることです。悩み、悲しむ人を力付け、その人が笑顔になると自分もうれしくなります。慈愛の言葉、まごころの言葉が、その人の一生を良い方向に導くこともあります。また、その人を思って叱る言葉、厳しく言う言葉も「愛語」です。表面的な優しい言葉ではなく、本当に相手のためになる言葉をいいます。

多くのものに支えられ、生かされている自分。人と人との絆はかけがいのないものです。このことに気づき、「愛語」を実践することでお互いに生きる喜びとまごころの絆を深めていきましょう。


美唄市 東光寺
東松 道仁さん


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2011年7月16日放送

新聞の投稿欄には読者の方が、その日の出来事や見たり・聞いたり・思った事、感謝の気持ちや憤り・疑問や提案などが投稿され、毎日色々な事柄が掲載されます。その中で、人の温かさに接する事柄を読むとホッとする事があります。

ご自分のお子さんが、学校や塾の行き帰りに定期券やお財布を落とし困っていると、見知らぬ人から交通費を頂いた事や、外出先で急に気分が悪くなりうずくまっていると、見知らぬ人から声をかけてもらい、自宅や病院まで送ってもらった事。

その投稿をした方々は、突然の事でその場では充分な御礼を言うことが出来なかったけれども、今改めて紙面を通して御礼を言いたい。 どのような形にせよ、お世話になった人に対して感謝の気持ちを伝えたいという心の温まる投稿です。

そこには、困っている人を見過ごす事は出来ずに手をさしのべたのであり、御礼を言ってもらおうとか、感謝してもらおうとか言うことではなく、ただ純粋に助けてあげたいという気持ちで有った事と思います。

私たちは、誰かに助けられたり、優しい心配りを頂いた時に、合掌して感謝の心を表します。 合掌は、「祈り」の姿であり、「感謝」の姿でもあります。 食事を取る時は、目の前の食事が出来るまでに、多くの人びとの手間ひまが掛けられている事に対して、「お蔭様」という感謝の心が湧きます。 それが「いただきます」という感謝の言葉になり、「合掌」という感謝の姿で食卓に向かうのです。 今日一日、「感謝の心」・「感謝のことば」・「感謝の姿」で暮らしたいものです。


砂川市 天津寺
滝本 昌典さん


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2011年7月9日放送

お檀家さんに、八十八歳のおばあちゃんがいます。若い頃結婚をして男と女の子、二人の子宝にも恵まれて、何不自由なく暮らしていましたが、会社を大きくする為に少し借金をしました。半分位返した頃ご主人に他界され、息子さんの代に成っても返済がうまくいかず、追い打ちを掛ける様に、息子さんも亡くなり、バブルがはじけ資金繰りが出来ず、ついに倒産してしまいました。

四十五年間、家族の為会社の為に尽くして来ましたが、残ったのは三千万円の借金でした。家や土地、家財道具など有りとあらゆる物全てを売ってお金に換えても、二千万円も返さなければ成りませんでした。七十近いおばあちゃんが、その日から生きて行くのも大変な時に、食べる物も着る物も削り、人とのお付き合いもせばめて、返済の毎日が始まりました。

その中で、おばあちゃんはご供養だけはきちんとしてこられました。月参りも法事もお寺詣りも、只の一回も休んだ事は有りませんでした。好きな言葉は『日々是好日』です。働くのもお参りや法事をするのも、今日の此日が私にとって、とても良い日だと言っていました。いつもの様に月参りのお経が終わり振り向くと、目に涙を一杯溜めて、ぽたぽたと落としながら、私の手を握り「やっと借金返し終わったのよ。お寺さん有難う、今日が一番いい日だよ。生まれてから今日まで仏さんを信じてきてよかった。ご先祖を大切にして来てよかった。有り難や、有り難や」と言いました。

おばあちゃんの手は、年老いた女性の手とは思えない程、大きなゴツゴツとした、ざらざらの冷たい手でした。


芦別市 大英寺
日比 英孝さん


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2011年7月2日放送

最近、巷の若い女性の間では「困り顔」というのが流行っているそうです。女性向けファッション誌のモデルさんなどが写真を撮るときに眉をへの字にして、視線をそらし、口を少し尖らせて小首をかしげる表情が「かわいらしく」見えるのだそうです。

写真など、一瞬の表情での「困り顔」はかわいらしくて良いですが、日常の中での「困り顔」は出来れば避けたいものです。 私なども、いつも笑顔でいたいと思うのですが、これがなかなか難しいものです。日によっては落ち込んでいたり、イライラしたりと知らず知らずに顔に出ているようで、そんな時に無理に笑顔を作ってみても、なんだか微妙な表情になってしまい、人との会話も弾まずに終わってしまいます。これではまさに「困り顔」です。 「困り顔」のお坊さんを見ても誰も「かわいい」とは思ってはくれないですよね。

いつも笑顔でいるというのは、常に心も穏やかでいるということが必要で本当に難しいことです。しかし、これが私たちの人生にはとても必要なことです。 いつも笑顔の人は世の中や自分の事をよく知っているのです。そして不平不満を言うことが「困り顔」を作るということも良く知っているのです。素敵な笑顔の人に出会った時、私たちはすがすがしい心安らかな気持ちになりますよね。 それはきっと、その時のその人の心が誰よりも晴れ晴れとしているからかもしれません。

お互いに笑顔で心を和ませ、明るい言葉で心を楽しくする。毎日忘れずにこころがけたいものです。困り顔よりも、つられて一緒に微笑んでしまうような笑顔の人の方が、やっぱり一番素敵です。 皆さんの大切なご家族が「今日は良い一日になりそう」そう思えるような笑顔を、今朝はあなたからしてみてはいかがでしょうか。


伊達市 大雄寺
奥村 孝裕さん


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2011年6月25日放送

私の師匠が、人の話を聞くときの心得として「右の耳から入れて、左の耳からす〜っと流し出すんだ。自分のちっぽけな智識、経験や自分勝手なスキ・キライ、分別概念を通さず、ただ声を聞くのだ。頭を少しでも働かすと、本当の意味にほこりがついてしまう。だから右の耳から入れて左の耳から出すのだ。」とお教えをもらいました。人は、相手の姿形性格にとらわれてしまって、素直に見たり聞いたり感じたりすることができなくなる事があります。

私の母は二十年程前に亡くなりましたが、生前一緒に暮らしていた時、私を心配して注意してくれたのですが、私は素直に聞けず、「わかっているよ。うるさいなー。」と言ってしまいました。 母の葬儀が終わり四十九日が終わり、一段落したある日、姿ない母の言葉を思い出しました。今思うと、自分のことを一番知り、わかってくれる母の言葉を素直に聞き入れなかったことを後悔しています。

人から褒められたら、えらくならずにただ素直に喜べばいい。人から馬鹿と言われても、馬鹿になるわけではない。人を憎まず、自分の行い、言動を反省すれば良いわけです。 それは簡単そうでむずかしいけれど、我がままな見方や自分中心の分別概念を一切入れず、見たまま、聞こえたまま、感じたまま素直にそのまま受け入れれば本当の声・仏の声が聞こえてくるのではないでしょうか。


泊村 法勝寺
江良 敬一さん


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2011年6月18日放送

いのちって何だろう。幸せって何だろう。 東日本大震災は私達に、あらためていのちを、私達の生きることの意味を問い直す契機となりました。 今まで信じてきたあらゆるもの・・・いや自分が勝手に信じたがっていた総てのものを根底から覆してしまったのです。

「恵の海」は地震と津波とによって人々のいのちと、幸せな暮らしそのものを奪い去る「恐れの海」となり、原発事故は、豊かな生活の基盤となるエネルギーを失わせるだけではなく、「目に見えぬ放射線」という底知れぬ不安を与え続けるものとなりました。

畏れ敬う心、「畏敬」とは人の力を超えた大自然に、人としての慎みをもって敬い大切にする心。自らのおごりをこそ恐れよとの「戒め」なのです。 大自然との共生の中に、今日一日の平穏を祈り、工夫と努力惜しむことなく勤め、無事を心から喜んで感謝する。 今日出会えたことが嬉しい、出来ることが楽しい。今日の幸せと喜びを共に分かち合いたい。

おごり、見下し、我が侭、その時々の都合勝手は自らの人間性を貶めることに他ならず、我も又、大自然に生かされている身なのだと慎み励み勤めてこそ、互いに人と人、人と大自然との絆を確かめ合う、眞に人間性を取り戻した姿となることでありましょう。 いのちって何だろう、幸せって何だろう。今回の大震災は私達に今、許されて生きることの意味、いのちの意味を根本から問い直すこととなったのです。


せたな町 延命寺
松崎 清智さん


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2011年6月11日放送

人間はいろいろなものに例えられてきましたが、そのひとつに「石垣のごとし」というのがあります。 自分が生まれてから今日に至るまで、その間に起きたひとつひとつの出来事をひとつひとつの石であると考えるとき、あたかも人間は積み上げられた石垣のようです。 そこには、小さくて丸い石もあれば、大きくて四角い石もあります。 石の色も、自分のその時々の悲しみや喜びに似て、濃いものも淡いものもあります。

私たちは生まれたときから、石垣の石を積むようにして生きてきました。 そして現在、自分の年齢に見合う高さまで、石垣を積み上げたわけです。 さて、あなたの石垣の出来栄えはいかがですか、グラグラしていませんか、穴があいていませんか。 出会う出来事すべてが、私の石垣の石となる以上、いい加減に積める石などひとつもありません。それはまさに自分の人生の石垣です。

道元禅師の教えに「人もし仏道を修証するに、得一法・通一法なり、遇一行・修一行なり。」とあります。 すなわち仏道を修めるということは、「一行に遇うて、一行を修す」ということであります。いま自分が出会うひとつひとつのおこないに対して、それが好きだ嫌いだ、損だ得だという自分勝手な判断をせずに、ただ一生懸命に努力することで、仏道にかなった生き方ができるということになるのです。

人生の石垣の美しさは、色や形だけではありません。私たちは、たとえどんな石でも自分の人生に必要なものとして、両手で大切にいただき、それを丁寧に正しく積み上げることによって、本当に美しい出来栄えの石垣を創り上げてゆきたいものです。


安平町 瑞雲寺
増坂 澄俊さん


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2011年6月4日放送

私は、50歳まで特別養護老人ホームに勤務し、「生老病死」の「四苦」を目の当たりにしながら、役目を果たしていました。 「死ぬこと」を意識せざるを得ない状況にいるお年寄りのお世話をし、200人余りの方の最後を看取りました。多くの方は、老いて、病を患う、自分の心身の現状を認識し、そのことを受け入れて、納得して生活していました。

さまざまな人生の感想を聞きました。「苦労したから幸せだった」「仕事の後にみんなで飲んだ酒はうまかった」「これで良しということはない」などなど。 究極の幸せは、お金や物でなく、ひとに「愛されること」「ほめられること」「役に立つこと」「必要とされること」だそうです。 出会った方々は、そのために『嫌われないように』『怒られないように』『邪魔にならないように』『健康でいるように』そうやって生きてきたからこそ、満足感・達成感を得て、おだやかに「死」を迎えられるようです。

ひとつのことにとらわれず、自分の知識だけが真実と思い込まず、みんなと呼吸を合わせて、十分に力を発揮して、苦労して困難を乗り切ることが「幸せ」となるようです。「楽する」ことは「幸せ」ではありません。 これらのことを、20年余りの勤務のなかで、実習させていただきました。 ただ、これらの「幸せに生きる」方法は、仏教そのものであり、お釈迦様が教えてくださったことです。

仏教を知ることは、「幸せな人生」をおくる、道しるべになります。 お坊さんは、お釈迦様の説いた「幸せに生きる」方法を学んでいます。 お坊さんと話をすることで、「心の荷物」が軽くなるかもしれません。 まずは、お寺の行事に参加して、お話してみませんか。


滝上町 報國寺
久保田 粹穂さん


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2011年5月28日放送

朝起きますと開口一番最初に顔を合わせる人と最初の挨拶です。「おはようございます」皆様はこの挨拶をしていますか?同じ屋根の下にいても中々出来ない人もいますね。今日一日がはじまる時、会う人にやさしくほほえんで挨拶すると廻りの人々もすがすがしい気持ちになると思いませんか?

最近テレビを見ていますとドラマの中の食事の場面で合掌をして「いただきます」と云ってから食事をするシーンを目にします。脚本を書いている人もよく考えていると思いませんか?きっとそれを見た人たちも食事をする時「いただきます」と云って食事をすると思いますよ!!これも食事をする時の挨拶ですね。

私達は口や身や心で物事を行います。口で悪を云い、人をののしり、手足で暴力をふるったりします。それらはすべて私達の心が発信元です。「口は心の影法師」といわれます。ですから心で思っている事が口から出て手足の行動となります。出来るなら心で思ってはいけないこと、口では云ってはいけないこと、行ってはいけないことを思わない様にしたいものです。そうすればきっと廻りの人々、見知らぬ人々にやさしい言葉をかけてあげる事が出来ると思います。廻りの人々はことばの何気ないことをよく覚えています。

云われた人はいつまでも心にしみます。
おはようございます。こんにちわ、いただきます、おやすみなさいと笑顔で挨拶をしていただきたいと存じます。


大空町 禅法寺
鎌田 宏惇さん


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2011年5月21日放送

私は昨年還暦を迎えました。子供の頃の唄で、「村の渡しの船頭さんは今年六十のおじいさん」とありますが、私の子供の頃は六十と言うとおじいさんだったのです。今は高齢化社会と言われており、百歳を過ぎた方が全国で四万人以上おられると聞きます。 皆健康で元気に長生き出来れば幸せですが意に反して様々な老いを迎えます。

檀家さんから、奥さんの様子がおかしいのでお祓いをして欲しいと頼まれました。認知症ではないかと思いましたが、一緒に暮らしている家族、まして長年連れ添ったご主人は受け入れる事が出来ないのではと思い、お祓いをして見守る事にしました。それから何カ月か過ぎ、ご主人もようやく認知症を受け入れ、老々介護が始まりました。夜寝せてくれない事が今一番辛いと私に訴えるので、一人で抱えると重いものでも、たくさんの人にかかわってもらう事で軽くなるから辛い時は辛いと言って助けてもらいなさい。私でよかったらいつでも話を聞くからねと言いました。

私は介護している人に言います、みんな苦しいのは分かっているから聞いてもらいなさい恥ずかしい事ではないんだよと。 もし自分の回りに介護で疲れている人がいたら話を聞いてあげて下さい。聞いてあげる事でその人の癒しになります。 人生どのように終わるか誰も予測がつきません。一日一日を大切に生きるのみです。


稚内市 大徳寺
竹田 俊明さん


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2011年5月14日放送

5月に入り、北海道各地に桜の便りが届く時節を迎えました。今年の桜は、それぞれがいろんな想いで観ていると思います。その想いは、昨年とは確実に違う何かを感じていることでしょう。

「毎年観ているこの桜も、また観ることができた。ありがたい。」「今年もきれいに咲いたなー」「来年もまた観ることができるだろうか」 今まで自分の中で培ってきた知識や財産、技術、社会的地位。それらすべては平和な社会を前提としている現実を改めて実感したことでしょう。 今まではすべてが当たり前に感じ、それが幸せと感じているでしょうが、「生きる」とはどういうことなのか?

お釈迦様は生きることは苦であると説かれました。 人生には色んなことがあります。 楽しいこと、辛いこと、悲しいこと、わかって貰えないこと。 自分の都合で楽しいことばかりを選べるものではありません。

「自分が」という考え方を変えてみて下さい。 そう、無理に主役にならなくてもいいのです。 自分の生き方が他人の役に立っていると思えれば、生きる意味が成り立つと感じませんか?

肩の力を抜いて、執着する心を脱ぎ捨ててみてください。 「なにをしたか」という自慢をするより、その経験でなにを学んだかが大切なのです。学ばさせてもらったと思う謙虚さが大事です。

感謝の気持ちを忘れず「生きとし生ける者が幸せであります様に」と心から念じる生活を送りたいものです。


美幌町 瑞法寺
庭野 徳芳さん


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2011年5月7日放送

ある俳優がデビュー当時、「笑いながら怒る人」という奇妙な芸をしていました。顔はニコニコ笑顔なのですが、口から出てくるのは怒りの言葉なのです。そのテレビの画像を見て、表情と言葉のアンバランスさに妙な違和感を覚えました。やはり、笑顔からはやさしい言葉が出てくるのが自然であり、それは相手の心を和ませてくれます。

私たちの町では「オアシス運動」と称して挨拶運動を展開しています。オアシスのオ、おはようございます。ア、ありがとうございます。シ、失礼します。ス、すみません。これらの言葉を日頃から言えるように心がけようという運動です。

最近は、無縁社会といわれるように人と人との結びつきが希薄になってきています。隣同士でも、同じ地域内でも挨拶をしないという人が多くなりつつあります。 挨拶とは、言葉を交わす、人と人を繋ぐことなのです。そこで大事なことは何においても、まず笑顔。こうすると出てくる言葉、口調も必ず和やかな感じのいいものになります。見知らぬ人であっても、こちらがニッコリ笑って挨拶すれば、きっと相手の方もまたニッコリ笑って挨拶を返してくれます。

そうして次第に知り合いとなり、心が通ってゆくのですから「挨拶」ということが生きていく上でとても大切だということになります。 日頃何気なく行っている挨拶を、いついかなる時もニコニコと和やかな顔で「おはようございます」「こんにちは」と言葉を交わし、毎日を仲良く幸せになるよう努力していこうではありませんか。


函館市 法泉寺
佐藤 孝昌さん


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2011年4月30日放送

私が副住職を勤めていますお寺は、戦後間もない頃、私のおじいちゃんとおばあちゃんが一緒に荒地を開墾し、立ち上げたお寺です。 おじいちゃんは、私が小学校一年生の頃に亡くなりましたので、当時の話を直接聞いた記憶がありませんが、師匠である父から聞いた話によると、二十歳後半から三十歳前半だったおじいちゃんとおばあちゃんが二人して、毎日毎日素手で、一つずつ石を拾ったり、根っ子を起こしたり、今と違ってブルドーザーとかダンプといった機械がありませんので、それは苦難と苦労の連続だったそうです。

今、おばあちゃんはニコニコしているだけで、そんな苦労話をしません。 しかし、ある日、彼女の顔を見て思いました。どんなに辛い時でも、その辛さを顔に出さず、笑顔で人に接してきたおばあちゃん。その皺が刻まれた笑顔こそが「和顔施」なんだと。

「和顔施」とは、平和の和に、顔に、施す、と書きます。文字通り、身近な人に笑顔を差し上げることです。 その笑顔があるだけで、その場にいる人たちの心も和んできます。そんな笑顔の人が皆さんのまわりにいませんか? どんな時でも笑顔でいることは、難しいことです。 けれども、笑顔を貰ったひとは、次の人に笑顔を差し上げてみてはどうでしょう。 池に投げた小さな石でも、波が大きく広がっていくように、笑顔の波が広がっていくはずです。 私はそんなことをおばあちゃんの笑顔に教わりました。


札幌市 豊龍寺
宮田 任宏さん


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2011年4月23日放送

年が明けて、もう四月の末ですね〜。時の経つのは遅いようで早いものです。 昨年を思いおこせば、あの暑い夏はいつしか去り、今年、新年を迎えては、三箇日が過ぎてから石狩や札幌は大雪が降り、除雪作業に奮闘しましたけど、もうすぐ五月の節句も近くなり、いよいよ春の到来です。

私の好きな禅語に日々是好日という言葉が御座います。字を見れば毎日が大安吉日と言う意味になりますが、残念乍ら大概は自分の都合に反して物事が進むことが多いように感じます。
でもそんな毎日ではありますが、怒ったり、喜んだり、泣いたり、笑ったり、楽しんだり、苦しんだり、悲しんだりして、かけがえのない時を生きて居るんだな〜と感じます。

高校時代、昭和五十三年頃、山口県のお寺に入り小僧修行をしながら高校へ通っていた頃の話ですが、朝のお勤めの後に、お寺の和尚さんがよくお話をして下さいました。和尚さんから「人生は、限り有るものだから味わって生きなきゃいけないよ。」と言われたことが今でも心に残っています。

今日と言う日、平成二十三年四月二十三日も一度しかない一日ですね。どうぞ精一杯、楽しんだり、怒ったり、悲しんだり、笑ったりして味わってみて下さい。その中に日々是好日が有るような気が致します。


石狩市 龍徳寺
奥山 千成さん


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2011年4月16日放送

私は、今から十年前、インドへ旅行に行きました。約十ヶ月の個人旅行で、社会との繋がりや培った人間関係を一時的に保留した、誰ひとり知人の居ない土地への長い旅行でした。インドでは、それまでにあった常識が通用しない事も多く、買い物の時、値札がなく、毎回値段が違うといった小さな事から、バスに乗った時ぎゅうぎゅうの車内をターバンの男が私の頭を踏みつけて歩いて行くといった大きな事まで、様々な文化の違いに直面するたび、世界の広さを思い知らされました。見た事のない景色を見、感じた事のない空気を感じる事が出来る。本当に強くこの世に生まれて来て良かったと思いました。

と同時に親への感謝の気持ちが込み上げました。この世界に自分が自力で生まれた訳ではない。産んで頂いた、そしてご縁を頂いたのだと。ひとりになってみて、ひとりではない事に気が付きました。無数の因縁により両親が私に命をくださった。
私のご先祖様のどなたかが少し違うだけ、又、それまで私の育った環境が少し違うだけでもこの結果は生まれていません。この奇跡とも言うべきご縁に、ただただ感謝するのみです。

私が今ここでお話しさせていただいている事もご縁ですし、皆様が今、お聞きになられている事もご縁です。このご縁に感謝し、お互いに少しでも良き結果をもたらす事を願いつつ本日のお話とさせて頂きます。


札幌市 北大寺
大波 奨躍さん


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2011年4月9日放送

今年は三月に入ってもなかなか暖かくならず、とても寒くて雪の降る日がとても多かったですね。冬が長い北海道に生活している私たちは、毎日のように「もう雪はいらない。早く春になってくれよ。」って愚痴をこぼしたりします。 そういえば昨年の夏は記録的に暑い日が続いて、「暑いのは嫌だ。涼しくなってくれよ。」って愚痴を言っていたことを思い出しました。私は、その時々に向き合おうとはせず、逃げてばかりいたのでした。皆さんはどうですか。 では、「寒いとき、暑いときをそのまま逃げずに受け止めるにはどうすればいいのでしょうか。」

昔、修行僧が、洞山和尚に問いました。
「寒いとき、暑いとき、どのようにすれば苦しみから逃れられるでしょうか。」
洞山和尚が言われた。
「どうして、寒くないところ、暑くないところに安住しようとしないのか。」
僧が重ねて問われた。
「いったいどこに寒くもない、暑くもないところがあるのでしょうか。」
洞山和尚は言われた。
「寒いときには、あなた自身が寒さと一つになりなさい。暑いときには、あなた自身が暑さと一つになりなさい。」と答えました。苦しいことから逃れようとせず、苦しさの中にとびこんで、一つになりなさいと教えてくれたのでした。

今、大震災で被災された、数十万の人々が大切な家族や家を失い、厳しい現実に耐えて必死に生きています。その姿こそ、洞山和尚が教える生き方なのです。この生き方は、困難を乗り越え人生を切り開いていく原動力です。人生の苦しみに耐えている、被災された方々とともに、この苦しみを乗りこえていきたいものであります。


北広島市 龍仙寺
清水 常雄さん


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2011年4月2日放送

さきごろ、大学入試で携帯電話を使用してのカンニング事件が起き、大騒ぎになりました。犯人とされた受験生は「授業料の安い京都大学に入って、母親を安心させたかった。」と供述していました。聞くところによると、父親が亡くなり母ひとり子ひとりの家庭とのこと。カンニングは悪い行いではありますが、この母子の心情を思うと、まことに気の毒な気持ちで一杯になります。

この「まちがった親孝行」は、「親のことを思うあまり」の行いであります。私たちは同様のあやまちをたびたび繰り返しています。たとえば、わが子を思う一心で、他人の子を殺めた事件がありました。また、「お国のため」という崇高な理想を掲げて戦争をしたこともあります。

昔、中国に、インド伝来というお釈迦さまのお骨を、昼夜礼拝する男がおりました。 この男に、あるお坊さんが言いました。「お前が拝んでいるのは、毒蛇だぞ。」と。すると男は、「それでは、尊いお釈迦さまのお骨を見せてやる」と、意気込んで骨壺の蓋を開けて見ると、なんと!壷の中には毒蛇がトグロをまいていた、ということです。

このことは、おのれが良かれと思って執着していると、とんでもない間違いをおかすこともある、という教訓であります。
春、四月。あらためて、自分自身の行いと心を見つめなおし、正しい道を歩みたいものであります。


新篠津村 光明寺
藤原 重孝さん


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2011年3月26日放送

日本曹洞宗の開祖は道元禅師様です。道元禅師様は、幼くして父母を亡くし、世の無常を感じ、十三歳の時出家されました。 道を求める心が、やがて禅師様を中国大陸に渡らせ、悟りを開かれる導線となったのです。 ただひたすらに座禅をする事を弟子達にすすめ、自らも厳しい修行をつまれたのです。 その道元禅師様は、京都において五十四歳でこの世を去られました。

その時から十五年後にお生まれになられたのが螢山禅師様です。道元禅師様の三代あとのお弟子様です。お父様は仏縁深きお方、お母様は観音信仰のあついお方でした。 座禅の実践を主としながら、広く布教を行い全国に多くの弟子をおもちになり、教団発展のいしずえを築かれました。そのお弟子様達に見守られながら五十八歳で生涯をとじられました。

道元禅師様が開かれた福井県の永平寺、螢山禅師様が開かれた横浜の総持寺。共に大きなお寺です。 お釈迦さまのお教えをお伝えし、仏様の為、人々の心の安らぎ、よりどころとなるように、ここを両大本山とし、おふたりの禅師様を両祖として、お慕い申し上げているのでございます。

いつの時にも、静かな心にて南無釈迦牟尼佛とお唱え致しましょう。


小樽市 円竜寺
桑田 竜二さん


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2011年3月19日放送

皆さんは、次のような言葉を聞いたことがありますでしょうか。

「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸あれ。」

これは、仏教を代表するお経の『摩訶般若波羅蜜多心経』・『般若心経』の終わりのダラニ「羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提、薩婆訶。」の部分を訳したものです。

〈彼岸〉とは、我々のいる(迷いの世界)を、こちらの岸=此岸としたときの、仏様のいる(悟りの世界)、向こう側の彼の岸のことをいいます。 彼の岸へ渡るために、お釈迦さまの時代から(六波羅蜜)といわれるものがあります。
その一は、(布施)。皆さんの知っている、お金や物、いわゆる(お布施)だけではなく、笑顔ややさしい言葉、心をこめて仕事をすることも(布施)になります。
その二は、(持戒)。大事な規りや約束を守ることですね。
その三は、(忍辱)。世の中のどんな苦しみにも、耐え忍んで負けないことです。
その四は、(精進)。自分が正しいと思うことに、一生懸命に勤める。
その五は、(禅定)。心静かに座ること。特に坐禅をお勧めします。
その六は、(知慧)。今までの五つの波羅蜜によって得られるものであり、この知慧によって、他の五つが完成する、すなわち、六波羅蜜は六つに分けて説明しましたが、一つのことです。

もうすぐ、お彼岸のお中日です。彼の岸にいらっしゃる、仏様・ご先祖様と同じ気持ちになれるよう心から念じましょう。


芽室町 東光寺
渡部 晃誠さん


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2011年3月12日放送

最近、孤独死の増加、大切なはずのわが子を虐待する親、更に所在不明の高齢者が存在していたり、自分の親と何年も会っていないと平然と答える人がいたり、最悪は親の遺骸を放置したり隠していた人がいるという実態が明らかになり、無縁社会といわれる現代社会の実像の報道に触れる度に、最近の日本での人間関係に明るい未来の展望を感じることができません。

今一度、自分の生命のあり方を考えなければなりません。 私たちの今ある生命は、全て尊い縁を頂戴している生命であります。物やお金だけでは手に入るものではありません。つまり私たちは決して無縁ではないのであります。 「袖すり合うも多生の縁」、「袖の振り合わせも五百生の機縁」と古来より言い伝えられてきた様に全て縁に依って成り立っている生命であり人間関係であります。

あまりにも自分勝手な気ままな考えや、欲深い心に依って人間関係を断ち切り、現代社会の実態になっているのではないかと思います。 自分の生命は、ご先祖さまからつながっている縦の線と様々な人や物、自然の恵みとつながっている横の線に結ばれているのであります。きちんと結ばれているからこそ安心していられるのであります。その縦横の線は簡単には切れない、あたかも鉄でできているような固い線であります。

まもなく春のお彼岸を迎えます。ご先祖様、親に、自然に感謝の合掌を「ありがとう」の想いを添えてささげたいものであります。


剣淵町 神龍寺
松井 宏文さん


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2011年3月5日放送

今日は皆様に、私が日頃大事に思う言葉をご紹介したいと思います。
それは「隋処に主となれ」という言葉です。
隋(ずい)とはしたがう、まかせるという事。処(しょ)とはところ、場所の事です。隋処とは、いたる所、どこでもという意味になります。
主となれというのは、これは我が人生の主人公といってもいいでしょう。
その人の生きている場所がどうあれ、環境や立場がどうあれ、四苦八苦のまっただ中にあっても、常に長い人生ドラマの主人公となって、毎日ドラマを見ている世の中の人々に、勇気や元気、明日の希望を与えられるように暮らせという事です。

ただし、主人公といえども、自分のわがままどおり、思いどおり生きる事ではいけません。 監督やプロデューサー、様々な役割を受け持っているスタッフ。 これをたとえるならば、お釈迦様や菩薩様方の教え。その他大勢の脇役、これをたとえるならば、親子、家族、地域の人々や仲間達でしょう。 皆と一緒に素晴らしい人生ドラマを創り上げていってほしいと思います。

私もラジオを聴いている皆様も、いつかはお別れしてしまう身でございます。 残された方々に思い出深く、手を合わせてもらえる様に、自分の身と心と口を慎み、清らかに気高く精進しておくらし下さい。 心よりお祈り申し上げます。


網走市 法龍寺
加藤 法海さん


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2011年2月26日放送

ひとは言葉によって、自分の考え、気持ちを相手に伝え、相手の言葉を受けて心のうちを理解することが出来ます。 「おかげさまで」「すみません」「ありがとうございます」など、殺伐とした世相であるほど、心を落ち着けて、言葉を考え直してみる必要があり、使い方によってはプラスにもマイナスにもなります。

道元禅師さまは「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり」つまり、限りない慈悲心に根ざすもので、その心から発する言葉の大切さを言っておられます。 たとえば赤ちゃんを可愛いと思う心での挨拶や、その人のことをおもいやった言葉掛けをすることで、ひとの心をやわらげ、癒すことが出来るのです。

このように考えますと、言葉はその人の心を写し出す鏡のようなもので、善い心の時は善い言葉になり、邪心の時は悪い言葉となり、簡単に人を傷つけたりします。言葉ひとつで人は一喜一憂するのであります。人を奮起させるのも、悲しませたり、落ち込ませたりするのも言葉であります。 愛語は、自らが仏や菩薩となって発する言葉でなければなりません。

さらに禅師さまは、そのところを「愛語能く廻天の力あることを学すべきなり」と示しており、愛語は天地世界をも動かす力があることを知る大切さを重ねて強くおさとしになっておられます。

「言葉は人なり、人は言葉なり」というように、その人の発する言葉でその人のこころが分かるのです。明るい人間関係は愛語からであり、常に愛語のキャッチボールを日々の生活の中で心がけるよう努力したいものです。


阿寒町 西来寺
廣瀬 明生さん


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2011年2月19日放送

最近のニュースの中で自殺や殺人といった報道を聞かない日はありません。特に親が子を殺し子が親を殺すといった血縁の中での殺人が増えた事には驚くばかりです。もし人生の中で命の尊さを感ずる場面に出会っていたらその状況も変わっていたかもしれません。

私の町では昨年関東の大学生を対象にした体験研修旅行の団体を迎えました。学生達が漁師さんや酪農家さん達と同じ仕事を共にしてもらう体験ツアーです。小さい頃から酪農を夢見ていた女子学生は、わずか2、3日世話をしただけの子牛が業者に売られて車に乗せられて行くのを直視する事が出来ませんでした。その学生にとってはただ生き物の世話をするだけだと思っていたのです。しかし、初めて命が売られていく現場を体験して命の尊さや命を頂いて生きている自分をあらためて考えたのではないでしょうか。受け入れ先の酪農家さんは「人間は動植物の命を頂いて生きている、生かされていることを伝えていきたいし体験してほしい」とおっしゃっていました。

「頂きます」、「ご馳走様」という言葉の意味をわかっていても、こういう経験をすることで本当の意味で心深く刻まれ、そこから「有難う」の感謝の気持ちも生まれてきます。学生さん達は命の体験という何物にも代え難い大きなお土産を持って帰っていきました。

このように命は自分だけのものではなく全てのものの命とつながって成り立っています。生かされている自分をはっきり認識して一瞬一瞬を大事にできるようにしたいものです。


浜頓別町 天祐寺
橋本 英晃さん


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2011年2月12日放送

私のお寺は、日本海沿岸の小平町の鬼鹿という集落にあります。昭和の三十年頃までニシン漁で栄えていましたが、今は、ニシン番屋のみが当時の栄華の名残を留めるだけです。その番屋から程近いところに小さな地蔵堂がひっそりと建っています。この地蔵堂にまつわる不思議な因縁が、地元で語られています。

明治の初め、津軽からヤン衆を乗せてきた船が、鬼鹿沖で遭難しました。船は沈没を防ぐために積荷を海中に投げ捨てましたが、その中に「かぐらさんぼうず」というものがあって、浜に流れ着きました。「かぐらさん」というのは、太い柱の軸にロープを巻きながら物を引くウインチのような道具のことで、その軸を「かぐらさんぼうず」といいます。当時ここでニシン漁をしていたヤン衆たちがこれを見つけ、何度、海中に捨てても、同じところに打ち寄せて来たそうです。

そうしたある晩、この「かぐらさんぼうず」がヤン衆の親方の奥さんの枕元に立って、自分を地蔵としてお祀りしてくれるように願ったということです。奥さんは早速お堂を建ててお祀りし、供養しました。それ以来、鬼鹿はニシン漁の千石場所として栄え、地蔵堂は多くの人が参詣するようになりました。お堂は幾度か火災に遭いましたが、お地蔵さんはそのたび無事であったといわれています。

そして今に至るまで地元の人の厚い信仰を集め、毎年、旧暦の地蔵盆にはお地蔵さんになった「かぐらさんぼうず」の供養祭が行われています。


小平町 興聖寺
仙石 景章さん


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2011年2月5日放送

私は、昨年8月上旬、まさにお寺にとってはお盆が近い多忙な時期でしたが、静岡県・朝霧高原で開催されたボーイスカウト日本ジャンボリー大会のお手伝いをして参りました。

この大会は中学生年代を中心とし、国内外より約2万人の子供たちが4年に一度集結する大規模なキャンプ大会です。このボーイスカウト活動は野外活動を通じて、幼稚園から大学生年齢まで、各年代に応じたプログラムで、社会奉仕や様々な習得訓練をしています。

そして、他の活動と違うことは、必ず宗教心をもって、「明確なる信仰をもつ」ことをすすめております。ですから多くの宗教関係者がこの大会に参加致しました。
普段から私共の仏教ばかりでなく「神道」「キリスト教」などのそれぞれが子供たちに「宗教・信仰心」を育てるお手伝いをしていますので、一週間の大会期間、広大な会場の中に信仰奨励のために各宗教宗派による「展示・祈りの場」を設けました。私達の曹洞宗はテントの中にご本尊を祀り、お話と参加者に椅子坐禅を体験してもらいました。日本の子供たちばかりでなく、海外の青少年にも大自然の中での椅子坐禅は良い経験になったようです。

昨今「宗教イコール高齢者」という流れがありますが、子供の頃からこそ、大人と共に宗教に親しみ、日常生活において「仏壇に手を合わせる」「法事、お寺詣り、お墓参りに出かける」などの宗教行事に積極的に関わりをもたせたいものです。
それが「感謝の心をもつ」と同時に「明確なる信仰」を持つことの一歩に繋がるのではないでしょうか。


美唄市 東禅寺
谷口 哲章さん


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2011年1月29日放送

以前、あるお檀家のおばあちゃんとお話をする機会がありました。
 「副住職さん、私は主人が亡くなってから長いことたつけど、毎日主人と私なりに会話しているんですよ」と言ってきたのです。
 私は「どういう事ですか?」と聞いてみますと、
 「私は毎日ご飯をお供えしてお参りをするんだけど、お参りをするときは、必ずお線香をお供えして静かに手を合わせるの。すると日によってお線香の煙の昇り方が違うんですよ。すーっと1本線のような煙は、主人が機嫌の良い日。煙がくねくね曲がる日は、主人が機嫌の悪い日と決めてるの。だから自分の息や仕草で煙が動かないように、気をつけて心静かに手を合わせるの。機嫌の悪い日は大変なんだよ。位牌に向かって機嫌が良くなるようにたくさん話しかけないといけないから。でもね、毎日の楽しみなんだよ。」と笑ってお話しされました。

私はこのお話を聞いてとても心が温かくなったのと同時に、曹洞宗の開祖 道元禅師様が幼少のころ、亡き母の葬儀でお香の煙を見て、無常の心を感じたという話を思い出し、そのことをおばあちゃんに伝えると、「道元禅師様と一緒にされては申し訳ないわ」と笑っておられました。

皆さんもお仏壇の前で、お線香をお供えして心静かに手を合わせてみましょう。 もしかすると、道元禅師様のように、普段気付かない何かに気付くかもしれません。 または、おばあちゃんのように、ご先祖様がより近いものとなり、より太い絆で結ばれるかもしれませんね。


深川市 大玄寺
横山 信光さん


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2011年1月22日放送

昨年の二月、定年直後のご主人を亡くされたお檀家様の奥様がおられます。
 中陰のお参りに伺った時、祭壇の横で呆然としていました。 「定年し、これから旅行に行こうと言っていたのに、悔しくて悔しくてどうにもならない」との事でした。毎週お参りに行くと、その都度、寂しくて、悔しくて何をする気にもなれないと嘆く奥様です。

ある日、ご本山 永平寺の修行僧のことをお話しました。「ご開山様をお守りしている霊廟では、お仕えしている雲水さんが今でも毎日お経を上げて、朝をお知らせします。今ここに居られるがごとくに、ご木像に洗顔し、お食事を差し上げる事を続けているのです。今のように毎日外にも出ないで、ご飯も作れない生活を続けていたらお父さんに怒られますよ。お父さんの好きだった料理を作ってあげたり、お水を替えたり、話しかけたり、今ここに居られるが如くにお世話をしてあげたらいいよ」と伝えました。

四十九日法要の日、奥様のお顔に表情が戻っていたのを見た時、ホッと安心いたしました。同居しているご長男も元気にもどってきたお母さんをみて喜んでおられました。

大切な方を亡くされた時、つらく悲しい気持ちになりますが、私たちは合掌の中で、ご先祖様、仏様と日々の生活の中で共に仲良く暮らして行きたいものです。


美唄市 大安寺
東松 弘敏さん


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2011年1月15日放送

あと一年の命と告知された男性が入院をしていました。

彼は医師の告知に愕然とし、「一体自分の人生は何だったのか」と嘆き、医師や看護師のみならず周囲の患者やあらゆる人に当たり散らし、恨み、病院で持て余され、孤独な入院生活を送っていました。病院の依頼を受けたカウンセラーは「今まで社会貢献や人に親切にしてきたのは何のため」と彼に尋ねました。彼は答えました。 「楽しい老後を過ごし、皆に愛され、感謝され、多くの人に看取られながら息をひきとることが夢だった」と。そこでカウンセラーは言いました。

「残念なことですが、あなたが描いていた老後の楽しみは実行出来ない状態です。どう生きてきたかではなく、どう生きたいのか考えてみませんか。残された一年を愛されて過ごし、あなたの望み通り感謝されながら息をひきとるか、今のまま周囲の人に当たり散らし、孤独で悲嘆にくれ、不運を恨みながら死んでゆくか、どちらの生き方を選択しますか、どの選択もあなたの自由、あなたの人生です」

その後、この男性はこれまでお世話になった人達を病院に招き感謝の気持ちを伝え、周囲の患者達を勇気づけ、愛され感謝され一年半後に多くの人に看取られ、惜しまれながら亡くなりました。

どんな不運に遭っても、あわてることもない、騒ぐこともない、あるがままに受け入れ、心乱すことのない仏心を修行し、二度とない人生を悔いなく生きたいものです。


例話は貯広委通信 ライフマネジメント研究所長 稲岡真理子さんの随想より

浜頓別町 天祐寺
橋本 俊弘さん


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2011年1月8日放送

新年も松の内が終わり、日々の生活に落ち着きを取り戻した頃でしょうか。
 新年を迎えて、新たな目標や決意をされた方も多いことでしょう。

私の今年の目標は「忙しくしない」です。 「忙しくしない」というのは、少し仕事を減らして遊びたいとか、自分の時間がもっとほしいとかそういうことではないんです。

「忙しい」という字は、りっしんべんに亡くすと書きますね。りっしんべんとは人の心を表します。ですから忙しいということは心を亡くすということを意味します。忙しくしないということは、どんな時もまごころを持っていどむということです。
 仕事にしても人との付き合いにしても、心を亡くしてしまってはうまくはいきませんね。そのひとつひとつのことに心を持って接すれば忙しくなくなる。ですから私は忙しいという言葉を使わないようにしてるんです。そういう時には「やることが多くて」と言うようにしてます。そうすればやることは相変わらず多くても忙しくはなくなる。物事ひとつひとつに対して真心を持って接することができると思っています。

心がまっすぐになれば行いもまっすぐになる。行いがまっすぐになれば言葉もまっすぐになる。忙しくしないという決意を胸に、今年一年精進してまいりたいと思っています。皆さんも忙しくない日々を心がけてみませんか。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰さん


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2011年1月1日放送

今年もまた「曹洞宗の時間」を宜しくお願い申し上げます。
 年頭に当たり、世界平和と人類の幸福を心からお祈りいたします。

さて、今回はウサギ歳。昔、道内にはたくさんの野うさぎがいましたが、最近はめっきり見かけなくなりました。ウサギが減った理由は、棲家となる野原の減少であるとか、北キツネの増加、あるいは外来種のアライグマの繁殖などがあげられていますが、本当の理由はよくわからないそうです。

ことわざに「ウサギ死すれば、キツネこれを悲しむ」とあります。同類の不幸を縁者が悲しむ例えです。これは、同類の死は、やがて我が身にもふりかかる、ということをいみしています。食物連鎖をみても、この世にあるすべての動植物は互いに持ちつ持たれつの生活をしていることがわかります。仏教ではこれを「因縁」あるいは「縁起」といいます。現在では、因縁をつける、とか縁起がいいというふうに使われますが、正しくは存在の真理を示している言葉であります。

私は、あなたがこのラジオを聴いてくださっているからこそ、今ここで話をすることができるのです。
 そして私には、家族があり、近所の方々があり、共に仏道を歩む友があります。それだけではなく、数限りない多くの人々に支えられて、今があるのです。
 生きとし生けるもの全てが、共に生きる喜びを分かち合えるような世界を実現したいものであります。


曹洞宗北海道教化センター
統監  藤原 重孝


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2010年12月25日放送

今年も残り少なくなってきました。皆さんは来年はどんな一年を過ごしていきたいでしょうか。 お釈迦さまの教えにそって生活していく四つの方法が、修証義というお経の中に書いてあります。「布施」「愛語」「利行」「同事」今日はその中の布施についてお話ししたいと思います。

この布施というのは、あまねく与えるという行為です。お経をお唱えしたり、ご詠歌をお唱えする法施(ほうせ)。骨身を惜しまず人に尽くす身施(しんせ)。経済的に援助をする財施(ざいせ)。そしてお金に換算したり、物で代換できない絶対的な布施の行いを無財施(むざいせ)といいます。これは、やさしい笑顔であったり、心くだいた言葉であったり、座席を譲ることであったり。すべてがかけがえのない布施の行いなんです。
 人のために時間を使うというのは立派な布施なんですね。

わたしは年をとっているので、何もしてあげられない、自分のことで精一杯で何もしてあげられないっていう人もいるかもしれませんが、何でもいいんです。声をかけてあげることも立派な時間の使い方だと思うんです。
「ありがとう。ごくろうさま。すみません。」
それすらなかなかはずかしいという人は、靴をそろえてあげることだって立派な時間の使い方だと思います。

そして、後に続く若い人たちに、「あんなふうに年をとりたい」「ああいう年のとり方っていいな」って思ってくれるような生き方ができればすばらしいですよね。
 時間とは、人のために用いれば、豊かな喜びが与えられるものだと思います。そんなことを私は来年の目標にしていきたいと思います。
  皆さん、どうか良いお年をお迎え下さい。


遠軽町 祥巌寺
中村 祥嗣さん


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2010年12月18日放送

福井県の永平寺をお開きになりました道元禅師さまがお書きになった「正法眼蔵」という書物のなかにこのようなお言葉がでてまいります。

「生を明きらめ、死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり」

「明きらめる」というのは物事をはっきりさせるという意味です。ですからこの言葉は「生」生まれてくることはどういうことかはっきりさせる。「死」死ぬということはどういうことかはっきりさせる。

ここには実は2つの文字が省略されています。「老」と「病」です。「老」年をとるということはどういうことかはっきりさせる。「病」病気になるということはどういうことかはっきりさせる。
 それが「仏家」。「仏家」とはお釈迦さまの教えを聞くもの。そのお釈迦さまの教えを聞くものにとって一番「大事」なことなのだ。という意味になります。

「生老病死」という言葉をお聞きになったことがあると思います。この「生老病死」をお釈迦さまは「四苦」と申しました。四つの苦しみと書きます。「苦」という漢字から私たちは、肉体的にも精神的にも痛い、苦痛だというイメージが思いうかぶでしょう。ではお釈迦さまはこの「生老病死」を苦痛であるとおっしゃったのか。

お釈迦さまがおっしゃった「苦」というのは、「自分の力ではどうにもならないもの」という意味です。ですから「生まれることも、年をとることも、病になることも、そして死んでゆくことも、自分の力ではどうにもならないもの」である。そのことに気づき、そのことを真正面から受け止めることが、私たちには大事なことなのだ」というのが冒頭の道元禅師さまのお言葉の本当の意味です。


増毛町 海音寺
谷 寛龍さん


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2010年12月11日放送

人を思いやり温かい言葉をかけることを「愛語」と言います。悲しんでいる人に声をかけてはげますとその人は元気になります。すると不思議にも自分自身も嬉しく幸せになります。でも、言葉をかけなくても他人に幸せを与えることが出来ます。

私は時折、飛行機を利用して出張、また旅をすることがあります。飛行機に乗る時、その日担当のスチュワーデスがお客を迎えてくれます。飛行機に乗って空高く舞い上がり気候変化も有り不安な心で乗る方もおられる中で、非常にやさしいまなざしで人々を迎えてくれるその姿は言葉を発しなくても、そのまなざしを見れば親切な心が伝わってきます。
 これを「眼施(がんせ)」目のほどこしと言い、これもやさしい言葉です。

朝、学校・幼稚園に登校の折、私達は父母の立場で交通安全実施の為にと交通指導を行うことがあります。
 指導の折に子供さんに「おはよう」と声をかけて、「おはようございます」と明るい声が返ってきます。特に年少の児童の声は明るく「今日一日もがんばるよ」と聞こえます。

「和顔愛語」穏やかな、やさしいまなざしとともに、心の底から人を思いやり、また言葉をかけることは、私達が毎日毎日出来ることです。ご家庭でも朝のあいさつから一日が始まります。

愛語の実践をおこないましょう。人に語りかけ明るい顔、ほほえみをもって共に生きる生活は私達の幸せだと思います。


訓子府町 常照寺
中條 寛道さん


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2010年12月4日放送

12月は、お釈迦様が長い修行の末、菩提樹の下に座り、七日間座り続けてお悟りを開かれたことから、曹洞宗の多くのお寺で、一日中、坐禅をする、摂心(せっしん)という坐禅会が行われています。
曹洞宗では、「身を正しくして、ただ、ひたすら坐る」という教えを大切にしています。そこで今日は、皆様に坐禅を体験していただきます。

まず、座布団をご用意ください。
座布団を二つに折り、お尻の下にひきます。
次に、右の足を左の股(もも)の上に深くのせ、左の足を右の股の上にのせます。
背筋をまっすぐにのばします。顎を引き、頭で天をつきあげるようにすると、背筋がまっすぐになります。
右の手のひらを上に向け、組んだ足の上に置き、その上に左の手のひらを、同じように上向きにして置いて下さい。両手の親指の先を、かすかに合わせます。
視線は、およそ1メートル前方、ななめ約45度の角度におとして、よそ見をしてはいけません。
きれいに姿勢が整いました。

次に呼吸を整えます。
深々と息を鼻から吸い込み、これを徐々に口から吐き出します。
この深呼吸を数回行った後は、自然と鼻からの呼吸にまかせます。
舌の先を、上の歯の内側の付け根にあて、口を閉じます。
足を組むのが苦手な方は、椅子に浅く腰掛け、背筋を伸ばし、呼吸を整えてください。
このように体を整えることで、心を整えることができます。

坐禅をすることで、身も心も安定し、正しい自分の姿を形作ることができるのです。正しい自分の姿とは、仏様のお姿です。
毎日の生活でも、坐禅をしていたときの静かな心で、仏様の心で過ごすことが大切なのです。

12月8日はお釈迦様がお悟りを開かれた、成道の日です。
お釈迦様に思いを馳せ、坐禅をしてみてはいかがでしょうか。


松前町 法幢寺
木村 清憲さん


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2010年11月27日放送

私達は、いつも幸せでありたいと願い、幸せを求めて生きています。 また、自分は幸福ではないと思い、幸福をどこまでも追い求め、他の人と比べていまだに不幸だと思って生きているのも私達の姿であると思います。 今、「断・捨・離」といって「断つ、捨てる、離れる」という物質的な幸せを見つめ直すことが静かなブームとなっております。

お釈迦様は『吉祥経』というお経の中で私達に幸せの道を説いておられます。その中で

深い学識があり技術を学び身につけ、身をつつしむことを学んで、正しく話をすること
父と母によく仕え、妻と子を愛し護り、仕事を毎日狂いなく行うこと
他人に、物であれ精神的なものであれ何かを与え、教えに従い正しく行い親族を愛し護り、人から非難を受けるようなことをしないこと
悪しきことを離れ、悪しきことから遠ざかり、飲酒を慎み、徳を積むことを怠らないこと
尊敬と謙遜と、不満を抱くことなく恩を知り、時に応じて教えを聞くこと

などの教えが示され、これらのことを行い実践すれば幸福を得ることができると結んでおられます。

道元禅師様は、「陰徳を積み仏法僧の三宝に対し、心の内に信仰心をもって礼拝すれば、必ず目に見えた幸せをいただくのである」と示されました。 今、私達にとって本当の幸福の道はどこにあるのか、静かに考えてみたいと思います。


愛別町 金剛寺
篁 文雄さん


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2010年11月20日放送

この春、京都の清水寺にふすま絵の大作を収めた画家、中島きよしさんは、幼い頃父親に捨てられ、母親の手一つで育てられました。しかし、その母親とも18才の時に死別します。天涯孤独となった彼は高校卒業と同時にいろんな仕事をしながら独学で絵の勉強をしました。

ある時、父親が病に臥せていることを風の便りに聞くのですが、自分は父の死を聞かされても、きっと絵筆は離さないだろうと予想しておりました。それ程、母と自分を捨てて、自分勝手に生きてきた父親には強い憎しみを抱いていたといいます。

ところが、それからしばらくして父親の訃報に接するや、絵筆を持つ手が震え、心は動揺し、まったく仕事が手につかなくなってしまいました。意を決して父親の下に向かい、遺体の置かれた部屋に入って驚きます。いたる所に自分の絵が貼ってあったのです。それを見て初めて父親の想いを知り、涙がとめどなく流れてきました。そして父親に対する見方も変わったといいます。

今では、父親への「いかり」や「憎しみ」がエネルギーとなって自分に絵を書かせてくれていたのだ、と思えるようになり、感謝の念すら湧くようになった、と語っております。 「生命は死んでもなお、輝いているものですね」と静かに語る姿が私の心に焼きついております。 憎しみの情が創作活動のエネルギーに昇華されていたことに自ら気づいた中島さんには、大切な何かを教えていただきました。


蘭越町 玉峰寺
田澤 豊彦さん


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2010年11月13日放送

皆さんは、履物をきちんと揃えていますか?
先日、お寺の法要でトイレに行きますと、スリッパが脱ぎ散らかされていました。 揃えておりますと、年配の方が急いで用を足したい様子でしたが、スリッパが散らかっているのを見て、「この急いでいる時に」とかなり怒り気味にスリッパを互い違いに履いて、用を足して出て行く時は「あーすっきりした」とスリッパをバラバラに脱いで行かれました。

人は、他人に厳しく自分に甘いという自分勝手なところが多々あるのではないでしょうか。 これも一つに忙(せわ)しない現代社会だからでしょうか。

仏教の言葉に「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」があります。脚下を照らし顧みると言う意味です。 服装は足元からとよく言いますね。脚下が汚れていたりグラグラしていると、身も心も落ちつきませんよね。 この現代社会だからこそ、脚下をしっかりさせて心にゆとりを持ち、トイレなどでは、次の人の事を考えてスリッパを揃える優しさを持ちたいものですね。 一人一人が心にゆとりと真心を持つならば優しい明るい社会をつくれるのではないでしょうか。

あなたの今脱いだ履物、大丈夫ですか?


福島町 諦玄寺
大津 大雄さん


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2010年11月6日放送

外国を旅行して食事をする時に、高級レストランや一流の料理店に入ると、テーブルに灰皿が置かれておりません。日本人がタバコを吸おうと思い、灰皿がないので店員に頼む。すると店員は「喫煙はできません、食事がすんでから、どうか他の所でなさってください。」と言われます。これはなにも嫌煙権運動やエチケットの為ではありません。なぜ喫煙してはいけないのか。その理由は料理がまずくなるからです。

料理人は最高の条件で料理を味わってもらおうと、一所懸命に腕をふるって料理を作ります。それをタバコで舌や喉を変に刺激するとせっかくの料理が台無しになります。食事の時の喫煙は本来してはならないのです。

大本山総持寺の御開山、螢山禅師様のお言葉に「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」とあります。「お茶を飲む時はひたすらお茶を飲みなさい。ご飯を食べる時はただご飯だけ食べなさい」という意味です。お茶やご飯が出されたら、おいしくいただく。なんだ、あたり前のことではないかと言われそうですが、螢山禅師様はそのあたり前のことが大切であると教えておられます。

でも私達はそのあたり前のことがなかなか出来ません。ご飯を食べながら、あれこれくだらない事を考えたり、新聞を読みながら、テレビを見ながら食事をしています。あたり前の事、平凡な事をちゃんとやる事がとても大切なのです。まずテレビを消して新聞を読まずに食事をする事から始めましょう。


函館市 道了寺
武山 昌孝さん


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2010年10月30日放送

釧路は、天然記念物の丹頂鶴の生息地で、その美しい姿は、地元のみならず多くの観光客の目を楽しませてくれます。昔から、亀と共に長寿の動物としておめでたいものとされてきましたが、とても夫婦仲がよく、一度一緒になりますと生涯を添い遂げるそうでございます。

私は、婚礼の席で挨拶を頼まれますと、「めぐりあいの不思議さに重い責任を感じていただきたい」とお話します。生まれや育った環境や性格も体質も夫々(それぞれ)違う二人がめぐりあい、お互いにこの人を生涯の伴侶と認めて夫婦となり、やがて子供が出来、家庭というものが確立され、ある時は楽しい大きな笑い声が、泣き声が、怒鳴り声が聞こえ。誰か一人でもいない時は寂しくて、いる時は喧騒の中に安らぎがあり、いつの間にか年をとって・・・・・・とても楽しい幸せそうな家庭ですね。

そして子供達にとってなにより安心出来ることは、いつもお父さんとお母さんの仲がよいということでしょう。 永年一緒に過ごす慣れによって、お互いの我を抑えることをしなくなり、些細なことで諍いとなり、果ては離婚にまで発展してしまう。 このようにお互いの我がぶつかり合った勝手な始末だけは子供に見せたくないものですね。

人間の持つ自己中心の考え方、つまり我を捨て去った心を「慈悲心」と言い、相手をおもいやる心のことです。めぐりあいの時、縁というものがあって現在の家庭があるのだということと、認め合い、慈悲の心を使い合って、お互いの持つ素晴らしさ、そして、めぐりあいの不思議さを再確認してみませんか。


釧路市 佛心寺
山辺 文彰さん


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2010年10月23日放送

庭の手入れをお願いした庭師さんが、庭木の手入れを聞いた私に、
「根の広さほど葉は広がるという言葉があります。」
「樹木は枝が伸びている通り根が張っているものですよ。」
「だから肥料は幹の近くにやってもあまり効果が無いもんです。」
「春の雪どけのころに、よく育ってくれよと願いを込めて、寒さを迎える秋には、ありがとうと感謝を込めて、根の先に少しずつ肥やしをやると良い樹木になりますよ」
「何といっても樹木は根が命でございますから」
「見えない土の中を大切にしてやってください」
と丁寧に教えてくれました。
枝が広がっているだけちゃんと根も土の中で広がっている。木は根が命だといういかにも年輪を重ねた職人さんに、根の本(もと)と書く根本の大切さを教えられました。

私たちは、ややもすれば人生の目標を急ぐあまりに兎角、何事も根本・基本をおろそかにして器用に目先を繕うものです。 芸能界やスポーツの世界で、スターと呼ばれた人たちや、いろいろな世界で突然時代の波に乗って光を与えられた人たちが、根本の大切さを忘れたばかりに、いつの間にか次々とその世界から消えていく姿や、それに似た例を自分たちの周囲で見聞きするとき、つい日常生活で根本の大切さを忘れがちな自分の心に気づいてうろたえるのはわたくし一人ではないと思うのです。

誰もが願うのは、豊かな人生、幸せな人生でありましょう。本当に貴方が幸せを願うなら、己の足元に目を配り、生かされて生きている、人生の根本を大切に致しましょう。そんなあなたの生き方がきっとあなたの人生を豊かに、そして幸せにしてくれることと思います。


厚岸町 吉祥寺
斉藤 章彦さん


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2010年10月16日放送

私達人間は人という文字の形が示しているように、多くの存在に支えられながら生きているのではないでしょうか。その一番身近なものが食事というものに表れていると思います。私達は日々、命を維持する、永らえるために食事を致しますが、その私共の食事の材料となるものも同じ命を持った生き物達であり、他の生き物の命を頂いて生きているのです。

中国のある書物の中に、「生を護る。すべからく是れ殺たるべし」という言葉がありますが、生きる上では仕方なく他の命を食べざるをえない、そういう存在が私達人間なのです。

食事を頂く前の、「いただきます」という言葉には、他の生命を頂く事によって、生かさせて頂いていることに対しての、感謝の気持ちが表れているのではないでしょうか。又、ごちそうさまの「馳走」という言葉の意味は馬や馬車を使って走り、そして、人をもてなすという意味があるようです。現代の世の中ではコンビニ等に行けば、二十四時間、食事を取ることができますが、料理となって、私達の口に入るまでには様々な方のご苦労があり、手が加えられている、忙しさに追われていると、そういった大事なことも見失いがちになります。お食事を作って頂いた方に対しての感謝の気持ちを表す言葉が「ごちそうさま」だと思います。

飽食の時代と呼ばれる、現代社会ですが、折角の料理を食べ残し、残飯として大量に捨てるという事だけは避けたいものだと思います。


夕張市 錦楓寺
磯西 道由さん


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2010年10月9日放送

「私たちは頭で考えるのではなく、手で考えるのである。」九十八才で亡くなった小説家宇野千代さんの言葉です。さらに宇野さんは、「人間の考えることは、その人の行動によって引き出されることが多い。」とおっしゃっています。「考えること」と「行動」の関係を宇野さんはこのように表現されています。

永平寺の道元禅師は、「心と身体の関係」を「心」と「身体」は、分けて考えることのできない一つのものと言われ、行動することが心を育むとお考えになりました。例えば、「あの人は優しい心の持ち主だ」と言われる人がいるとします。その人が優しいと言われるのはその人が優しい“ふるまい”をするからです。「心とは行動」でありこのことを「心身一如(しんじんいちにょ)」と申します。

禅寺の修行は厳しいと言われますが、「立ち居振る舞い」や「作法」が細かく教え込まれるのはこの考え方に基づいています。三度の食事は手を合わせお唱えをして感謝を表していただきます。廊下ですれ違う時は先輩も後輩もなく手を合わせ深々と頭を下げて挨拶をします。このように立ち居振る舞いや作法に他の人のことに思いをいたす仏の慈しみの心が込められています。

宇野さんは「行動することが生きることである」という本の中で、「人生は行動である」と言われています。電車の中で席を譲ること、譲られたら素直に「有り難う」と座ること、笑顔で挨拶をすること、私たちの他の人への思いやりの振る舞いの中にこそ、心が生き生きと現れることを忘れたくないものです。


苫前町 晃徳寺
坂川 資樹さん


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2010年10月2日放送

暑かった今年の夏もとっくに終わりを告げ、すっかり涼しくなりました。 いよいよ食欲の秋ですね。美味しいものが沢山食卓に並ぶ季節です。えりも町でも、秋鮭漁の最盛期を迎えていますが、採りたての魚や、旬の野菜、甘く熟した果物は、私たちの味覚を刺激し、食欲を増進させてくれます。しかし、私たちは、お腹一杯食べる事の出来る幸福を自覚し、感謝して食事を戴いているでしょうか?

世界中には、未だに飢えと戦う人々が溢れています。WFP=国連世界食料計画によると、世界では飢餓やそれに関する病気のため、毎日二万五千人が命を落としています。その内五歳以下の子供は、一万四千人を占めます。時間に直すと、実に六秒に一人、子供が生命を失う計算になるのですね。子供の飢餓は、身体や知能の発達の遅れに繋がり、さらにその国の経済に大きな損失をもたらします。現在世界の飢餓人口は十億人近くまで上り、さらに増え続けると、予想されています。

私たちは、飢えで苦しむ人々がいるこの世界の現実から目を逸らさず、自分たちにできる援助を行っていきたいものです。そして、一食一食の重みをもっと噛み締めて、食事を残さず、大切に戴くべきではないでしょうか!

永平寺をお開きになった道元禅師さまは「生きることと食べることは同じである。だから、生きることが自然の摂理に即していれば、食生活もまたそのようになる。生き方が真実そのままであれば、食もまた、真実そのままである」【赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)】とお示しになっています。無駄のない食生活を工夫して、生命の糧を味わいながら戴き、お互いの生命を尊ぶ心を養ってまいりましょう。


えりも町 法光寺
佐野 俊也さん


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2010年9月25日放送

刑務所で俳句の指導をしている師匠が、「あいつはもう大丈夫だ」と興奮気味に帰ってきました。「方丈さんどうしました」と尋ねますと、「若い収容者が詠んだ句に、すばらしいものがあった」

その句というのは「この手もて、犯せし罪の愚かさや」という句でした。師匠は大いに感激をして、どんな気持ちでこの句を詠んだのか、聞いてみたところ「寝苦しい舎房の中で、子供の頃の母親の記憶がよみがえってきました。楽しかったことやつらい思いをさせた事。
そして、自分が何をしてきたのかを考えているうちに、とめどなく涙が溢れてきました。
それからというものは、農作業をしていても、周りの木々の緑も、小鳥のさえずりも、風の音さえも、みんな私に何かを語りかけてくれるような気がして、晴れ晴れとした気持ちになれるようになりました。そして今日、先生の教誨を受けて、この句が浮かびました。」とのことです。

大本山永平寺をお開きになりました、ご開山道元禅師は「峰の色 渓(たに)の響きも みなながら、わが釈迦牟尼の声と姿と」このようにお示しでございます。 私たちの周りにある天地自然、すべてのものが語りかけてくれるのです。 それは、お釈迦さまの心であり、徳であり、教えです。 つまり、私たちの心が素直であればこの事をしっかり受け止める事が出来るのです。 自然を大切に、互いに心を磨きあいながら、生きていきたいものです。


北斗市 七宝寺
油井 清量さん


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2010年9月18日放送

今日も元気にあいさつを交わされたことと思います。

さて、私たちの日常生活の中には沢山仏教から派生した言葉があります。 その一つが「あいさつ」です。あいさつは仏教語でも特に禅語といわれるものです。 広辞苑で調べてみると、門下の僧が互いに問答をかけ合い、その悟道・知見の深さ、浅さを試してみるとあります。お互いに問題を出し合い、どれくらい理解し、実践しているかを試しあうことを「あいさつ」といいます。

挨拶はお互いのコミュニケーションへの潤滑油です。例えば、昨日の朝、私に気持ちよく挨拶してくれた向かいのアパートの奥様、今日の朝はしてくれませんでした。昨夜、何かあったのかな?と私は心配になります。

あいさつの「あ」は挨拶をするときは相手の目線でする、相手の「あ」です。例えば、子供には子供の目の高さで、病気のお見舞いに行った時には、寝ている人のベッドの目の高さで声をかけるのです。
次のあいさつの「い」はいつもすることの「い」です。今日はするけど明日はしないというのではないのです。今日の朝の向かいの奥様のようにです。
さて、次のあいさつの「さ」は人よりも先に声をかける先の「さ」です。自分の知っている人から通りすがりに先にあいさつをされると、大変とまどうことがあります。ですから人よりも先にするのです。
次のあいさつの「つ」はあいさつの後には付けたしをする、付けたしの「つ」です。おはようございます。次に今日は暑いですね。と付け加えることによって、次の会話へと進みます。

言葉はコトダマ・心の霊(たましい)として人の心の中のあり様や思いを伝えます。日常生活の中で何気なく使っている「ことば」や朝夕の挨拶には他を思いやる心、やさしさや心を働かせる思いやりが形として見えてくるものです。渇かない心、渇かない人間関係のためにも心して挨拶をしたいものです。


江差町 正覚院
松村 俊昭さん


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2010年9月11日放送

お寺に部活動の子供達が坐禅を体験しに来ます。座り方の指導をし、坐禅をする。坐禅が終わり、私から「今、どの位坐ったか分かりますか?」と声を掛ける。

例えば、10分間の坐禅に対し、多くの子供達は時間を長く感じる、15分、20分位と。少数の子供達が、5分、8分と短く感じる。

ここでお考えを頂きたいこと、それは“時は不変”です。我々自身の心の持ち方一つで、早くもなり遅くもなる。

例えば、何かに夢中になっている時、好きなことをしている時、楽しんでいる時、時間は「あっ」と言うまに過ぎさってしまいます。又、逆に苦痛を感じる時、嫌だと思う時、まだ終わらないのだろうかと時間を長く感じてしまう。しかしながら“時は不変”です。

我々自身の心の持ち方一つで早くもなり、遅くもなる。言いかえれば、良くもなり、悪くもなる。その様な心を我々は持っております。 この心を常に真ん中に、正常に保つ努力を行わなければなりません。

宮崎禅師様は、常に「人より5分早く起き、坐禅をくみなさい」とお話しになられておりました。ご家庭に御仏壇のある方であれば、1分でもいいから仏壇の前に座って頂くこと。それを毎日続けていって頂くことが、我々自身の心の安寧につながるのではないでしょうか。

あなたは、どの位座ることが出来ますか?


苫小牧市 中央院
荒澤 道範さん


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2010年9月4日放送

本日は私の日常生活をお話させていただきます。 午前四時三十分起床、洗面等を済ませ、四時五十分お寺に到着。
五時から六時迄朝の坐禅勤行(ざぜんごんぎょう)、終わって朝参(ちょうさん)と申します朝の会議が行われます。 六時三十分頃終了、帰宅し朝食を頂き、その日のお檀家さんへお参りの準備をします。
七時三十分頃、園長をつとめさせていただいている、龍徳保育園に向かい、八時十分頃お参りに出発します。

毎日、十から二十軒のお宅にお伺いいたします。全て終了するのは十二時から十四時の間です。 その後、お寺に戻り、報告を済ませ、住職に挨拶後帰宅し昼食を頂きます。 その後、保育園の仕事をしたり子供達と遊んだりし、十九時頃終業となります。

一ヶ月に三日間、お寺の受付当番がまわってきます。その日は午前三時四十五分起床、お寺に到着し、開門解錠し、御本尊様や歴代住職、さまざまな仏像にお茶をお供えし、五時に朝の鐘を鳴らします。その日は終日お寺にいて、電話や来客者の応対、納骨堂での御供養等を致します。

因みに、第二、第四土曜日午前六時から坐禅会、第二、第四水曜日十四時、写経会、第三水曜日十四時御詠歌、二十八日、十四時報恩会と言う読経会が御座います。参加希望の方は小樽市龍徳寺迄お問い合せ下さい。


小樽市 龍徳寺
有田 弘宗さん


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2010年8月28日放送

「常に笑みを含み、顔をのべ、平視して、顰蹙(ひんしゅく)を遠離す」

これは、観音さまの表情を示した一文です。 「常に笑みを含み、顔をのべ」とは、いつも微笑みを忘れず、顔をしかめずということです。
「平視して、顰蹙を遠離す」とは、すべてのものを平等に見て、眉間に皺をよせるようなことはしないということを示した一文です。
観音さまは、心の修行を完成して、それでお終いではなく、その後に、美しい微笑みの修行があり、はればれとした顔の修行をされているのです。 なるほど、観音さまのお顔に癒され、心温かくなるわけです。 内面が整うと姿・形も整ってくることでしょう。しかしまた、内面が整わなくても、姿・形を努力して整えることで、内面が自ずから整うこともあります。 微笑むことで、心も温かくなるということです。 眉間のシワに幸せなし、微笑む顔のシワにこそ幸来たる。 どうぞ一緒に微笑み合わせて往きましょう。

最後に皆様、1つご注意を。 この原稿を見た妻が私にひとことこう言ったのです。
「他所様だけに微笑みまかず、我が家の中にも忘れずに」
妻の言葉で反省しました。 外ではニコニコするのは良いけれど、それで疲れて家では無表情。 そんなことでは意味がありません。 先ずは大切な人の傍で、眉間のシワをピンと伸ばし微笑み保つことが、幸せへの第一歩かもしれません。 身と心を整えて、顔も心も柔らかくありたいものです。


札幌市 含笑寺
神谷 俊英さん


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2010年8月21日放送

亡きご先祖様に守られながら、私達が今、生きている幸せと感謝の気持ちをあらわす、お盆の行事も終わりました。

よく、人は一人では生きていけないと言いますが、文明の発展と共に、仲間意識とか、近所付き合いとか、助け合いという思いやりの心がうすくなり、俺が、私が、俺さえよければ、私さえよければ、という人がとても多くなっているような気が致します。

テレビをみていると若い女性のレポーターがアマゾンの集落を訪ねるという番組が放映されていました。彼女は村の長にこうインタビューをした。 「あなたは幸せですか?」すると長は「あなたは日本人なのにどうしてヨーロッパ的な質問をするのかね。」と言った。 彼女にはその意味が全くわからず少々困っていると「いいかね。ここでは幸せかと聞くときには必ず、みんなは幸せか?みんなは健康か?みんなは困っていないか?って聞くんだよ。なぜかって?それは私一人が幸せでは、一緒に生きていることにならないからだ。私一人だけ幸せで健康であったら、それは私達にとって一番不幸なことなんだよ。みんな一つの心で助け合って生きているんだよ。」

この言葉を聞いて彼女はポロリと涙を流した。彼女は心の中で何かを感じとったに違いありません。 “人は一人では生きていけない”


安平町 見龍寺
守屋 敬道さん


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2010年8月14日放送

今年もお盆になりました。

あるアメリカ人の留学生が「亡くなった人の魂をまつるお祭りや行事は世界中にありますが、日本のお盆は姿は見えなくても、声が聞こえなくても帰ってこられるご先祖様や亡くなった人を心からお迎えして、ごちそうでおもてなしをし来年もまた帰ってきて下さいとお送りする。とても温かいやさしい日本人の心を感じます」と言っておりました。 このお盆の行事は全国的な風物詩であり、日本独自の先祖供養といってもよいでしょう。

心臓が止まる事を「おとまり」と表現する地方があるようです。私達の体は、心臓から押し出された血液が肺に行き酸素を取り入れ、その酸素と栄養を体の隅々まで円滑に循環されております。その心臓の鼓動がとまり謙譲の気持ちを添えて「おとまり」。とても優雅で味わい深い言葉だと感銘を得ました。人間の寿命は何を持って決まるのでしょうか。普通15億から20億の心拍数で命が終わるとも言われております。

限られたこの命が昼夜を問わず、「おとまり」となるまで一時たりとも休む事のない心臓の搏動、心拍によって今生かされております。 この命は先祖様から脈々と受け継がれたものであり、今「自分が、私達が」ここに生かされている事に気づき、そしてその憶いを新たにする行事がお盆です。ご先祖様との命の交流をはかり、生命の尊さを自覚し慈悲の心を育てたいものであります。


深川市 大玄寺
横山 信雄さん


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2010年8月7日放送

数年前お檀家のKさんの奥様がガンでお亡くなりになった時の事です。 Kさんは行商から一代で大きな洋品店を築かれた方ですが、四七日のお参りに伺った折、お経が終わりお茶をご馳走になっていると「お寺さん、合掌っていうのはするもんじゃないんだね、させられるもんだね」そう云って「自分は今まで商売に忙しくて合掌の事なんか考えたことがなかった。葬式や法事に行っても格好だけは手を合わせても心から合掌した事なんかなかった。だけど家内が死んでから、ここへ来るともう自然に手が合わさってしまう。あぁ、合掌っていうのはするもんじゃないんだ、させられるものなんだなーって初めて気がついたよ」としみじみおっしゃいました。

私も修行時代に師匠から「合掌は仏様をむこうに置いて拝んでもだめだ。自分の処に引っ張ってきて、仏様と一体にならないと本当の合掌ではないぞ」とよく云われました。

仏様と一体となる。そうです、Kさんも奥様と一体となり心の中の奥様に対して合掌をしていたのです。つまり自分自身に対して合掌をしていた。合掌とは自分自身を拝む姿だったのです。

今年も御盆の季節を迎えました。御盆には多くの人が故人を偲んでお墓やお寺参りを致します。仏様や亡き人と一体となれる様な、そして自分自身を拝む様な合掌を心がけたいものであります。


留辺蘂町 大泉寺
黒澤 均英さん


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2010年7月31日放送

今日で七月も終わりですが、八月になりますとお盆の季節がやってきます。お盆にはご先祖様が一年に一度家に帰ってきます。そのご先祖様を迎え供養する期間がお盆です。

ご先祖様を迎えるためにお仏壇やお墓を綺麗に掃除をして、季節の花やお供物などを供えて感謝の気持ちを忘れず迎えてあげましょう。 お仏壇やお墓の前で手を合わせ、今いる自分を再確認する、手を合わせるということは亡くなられた方やご先祖様のご縁によって導かれているのです。 そのご縁に感謝をしましょう。感謝することによって心が清らかに澄んでいきます。感謝するということは心が豊かになり温かくなる方法なのです。

近年ではファーストフードが流行っていますが、食事をする時みなさんは何を思って食べているでしょう。

ご存じの通り食べ物が食卓に並ぶまで何人もの人によって作られ、また野菜や動物の命をいただいて食事をしています。愛情を込めて料理をしてくれた人達や自然の恵み、命に対して感謝をし、食べる前には「いただきます」、食べた後には「ごちそうさま」を手を合わせて言いましょう。自分を反省し、好き嫌いを言わず、感謝の気持ちを忘れず食事をして下さい。

私たちは多くの命によって支えられ生かされています。その感謝するという気持ちを忘れずに生活していけば心に何か変化があるのではないでしょうか。


札幌市 禅福寺
菊地 大元さん


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2010年7月24日放送

私が修行中、当時102才の永平寺宮崎奕保禅師様に教えていただいた話です。

「お前達は、『南無釋迦牟尼仏』と唱えているが、意味を理解しているか? 釋迦牟尼佛というのはお釈迦様のことだ。では『南無』とはなんだ?」と問われました。

誰に質問されているのかもわからず黙っていると、少し困った顔をされながら、「日本語の『好き』と言う言葉の意味は?」と先頭の者を、指差しました。さすがにその者は答えなければならず「好き、好ましいという意味だと思います。」と答えました。

禅師様はニッコリと笑われ、「そうだな、その通りだ。では英語の『アイラブユー』の言葉の意味は?」と横の者を指差しました。その者は、困りながらも「同じ意味だと思います。」と答えると、「違うぞ。『アイラブユー』の言葉の中には、相手を好き、好ましいというだけではなく、相手を敬い、尊敬する、そして委ねる、まかせるという意味も入る。『南無』というのは、アイラブユーということ。『南無釋迦牟尼仏』とは『アイラブお釈迦様』と唱えている。これはお釈迦様を好きだと言っているのではない。僧侶が『南無釋迦牟尼仏』と唱える時、これは日々の修行、生活、行いをお釈迦様に委ねますという意味で唱えている、お檀家の皆さんが唱える、『南無釋迦牟尼仏』。誰かを思って唱える時。お釈迦様どうぞその方をお願いしますね。導いてあげて下さいね。という意味になる。」

これが禅師様に最初に教えていただいたこと。皆様もお盆の近いこの時期にどうぞ『南無釋迦牟尼仏』とお唱え下さい。其のお心があの方に届きますように。


札幌市 薬王寺
田中 基裕さん


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2010年7月17日放送

渾身口に以て虚空に掛る
東西南北の風を問わず
ただひたすらに他がために般若を談ず
滴丁東了滴丁東(チンテントンリンチンテントン)

道元禅師の師匠、中国天童寺の如浄禅師が示された風鈴という歌です。

例年になく蒸し暑い日々が続いていますが、いかがおすごしでしょうか?

今年も、風鈴が似合う季節となりました。暑い日に一服の清涼感をもたらしてくれる風鈴。軒先にブラリと下がり、風が吹けばその全身全霊で、チリリンチリリンと涼しげな音を聞かせてくれます。

私たちは、生きてゆく上で、自分の利益を考え、あっちについたり、こっちの顔色を窺ったりという偏った生き方をしてしまいがちです。風鈴が音を出すことができるのは、偏らず、ただ、まっすぐにぶら下がっているからです。さらに、吹いてくる風をより好みせず、それこそ風任せで、ただひたすらに音を奏でます。勿論、いい音色の時もあれば、少々やかましくなることもあります。しかし、その音を聞くことで、私たちは風を耳で観ることができるのです。

人間の世界には様々な風が吹きます。順風・逆風・そよ風もあれば、心が折れてしまうほどの突風が吹くこともあります。

しかし、どんな風に吹かれようとも、ただひたすらに、自分のなすべきことを淡々と確実に行ってゆきたいものであります。


札幌市 眞龍寺
飯田 整治さん


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2010年7月10日放送

七月、八月はお盆の季節です。

明治時代に、日本に帰化した、ラフカディオハーン、小泉八雲は、

「亡き人の、御霊(みたま)の前に、夜毎(よごと)にともされる、小さな灯明(ともしび)。食べ物やお茶などをあげる、ささやかな供えもの。仏迎えのお盆の迎え火。亡き御霊を、再び安らぎの、黄泉(よみ)の国へ送り返すために、用意される精霊船(しょうりょうぶね)よ。こういう古い家庭宗教に、無信仰な人間にも、何という詩的な情緒が感じられることだろう。」

と書き残しています。

あたかも亡き人々がそこに存在し、生きている私達と交流している姿を、感動をもって讃(たた)えている文章です。

「まざまざと、いますがごとし、魂(たま)まつり」

亡き人々がわずか数日の間、この世に戻り、いろいろなおもてなしをうけて、再びあの世に帰ってゆくという、お盆の行事は、送り火や迎え火、お盆の「お墓まいり」や「お寺の法要」、「灯篭流し」や「精霊流し」、「大文字」や「盆踊り」など、いろいろな形で全国各地で続けられています。

このお盆の季節に、私達の身体の中に「はるかなる過去」から脈々とうけつがれている「大切な命」。「その命の尊さ」と「大切さ」をあらためて、深く感じてほしいのです。

人の命が軽く扱われている、昨今。「お盆の行事」の奥にある深い意味をさらによく味わってみて下さい。


松前町 法幢寺
木村 清韶さん


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2010年7月3日放送

早いもので七月に入り、地域によってはお盆を迎える所もございます。

さて突然ですが、皆さんはどの様な時に宗教を考えることがありますか? 多くの方は葬儀や法事等のときではないでしょうか。もちろんご先祖を敬い、供養をすると言う事は、我々仏教を信ずる者にとっては大事な報恩行であります。

しかし仏教の教えというのは、今生きている我々にも素晴らしい事を教えてくれています。 私共の曹洞宗には修証義と言うお経があります。これは曹洞宗をお開きになった道元禅師が書かれた、正法眼蔵と言う著書を要約し、一般の皆さんに分かりやすく説いたものであります。 その中に四摂法と言う、我々が普段から心がけて行わなければ成らないことが書かれています。その四つの事とは布施・愛語・利行・同事であります。

最初の「布施」は施し与えると言う事です。物でも心でも人に与える事です。そして見返りを求める心を持たないことです。 次に「愛語」は慈しみの声をかける事です。慈しみの心とは、赤ん坊を見る時のその気持ちで皆に優しい声を掛ける事です。 三つ目の「利行」は自分の利益ばかりを求めず、他人の利益になる様な事をしようと言う事です。 最後の「同事」は相手と同じ目線で、お互い協力しながら事をなしましょうと言うことです。

今日からこの四つの菩薩行を、まずはご両親や子供さんや身近な人に対して行い、生活をしては如何でしょうか。


函館市 興禅寺
太田 広康さん


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2010年6月26日放送

今日、6月26日は、私の誕生日です。 そして、誕生日になると必ず淀川長治さんの話を思い出します。淀川長治さんとは、長年、日曜洋画劇場にて解説を勤められ、特に番組の最後「それでは、次週をご期待下さい。さよなら、さよなら、さよなら」の名台詞を残された方であります。

その淀川さんがこんな事を言っておりました。
「誕生日は、母が陣痛の痛みに耐えて私を産んでくれた日です。私を産んでくれた母に感謝する日なので、母と一緒に過ごす事にしているんです」

私は、誕生日と言うと両親を始め、周囲の方からお祝いをされるのだと思っておりました。 しかし、誕生日は、母が陣痛を耐え抜いてくれた日であり、十月十日お腹の中で守り抜いてくれた日であります。 その事を考えたならば、誕生日には、一言でも良い。「ありがとう」と感謝の言葉を口にしたい。態度で示したい。 母と父がいなければ、私は、今この世にいないのだから。 例え一時、反発をすることがあっても、親孝行が人間文化の始まりなのだから。 人間として生きる心の源とこの体を頂いたのだから、改めて「ありがとう」と伝えたい。


黒松内町 洞参寺
小林 正胤さん


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2010年6月19日放送

皆さんはお仏壇に向かってお参りされるとき、両手はどうしていますか?大体の方は、両手を合わせて合掌の形になっていると思います。
では、なぜ、お参りをするときに手を合わせるのでしょうか?

人間の歴史は手の歴史だと言っても過言ではありません。犬や猫のような動物が、人間の手のようになっていたら、その動物の歴史は変わっていたでしょう。 人間は後ろの二本の足で立ち上がって、前の二本の足を、歩くという仕事から解放しました。そして手にしてしまったのです。 人間はその二つの手で、木を切り、山を開き、田畑を耕し、文化を創りあげてきたのです。また一方で、二つの手で、自然を破壊し、相手を傷つけ、戦争をしてきました。

その二つの手を合わせるということは、その両手でやってきたことの意味を深く考えるということです。手のひらを合わせてしまえば、ケンカはできません。だから、手を合わせるということは、祈りの姿なのです。そして、その祈りは平和の祈りです。

仏教をお開きになったお釈迦様は、ヒマラヤのふもとにお生まれになりました。そこの人たちは、朝晩、道で人に会うと合掌して、相手を敬い、相手の幸せをお互いに祈る習慣があって、今でもインドやネパールでは、みんな『ナマステ』と言いながら合掌をして、あいさつを交わします。とても心のこもったあいさつですね。

そしてその習慣が、日本に伝わって、ほとけさまやご先祖さまに合掌してごあいさつするようになりました。 皆さんも手を合わせるときは、その意味をよく考えて合掌なさってください。 その姿こそがほとけさまの姿なのですよ。


札幌市 高正寺
早川 孝雄さん


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2010年6月12日放送

この時期になりますと、必ず本州にいる親友から電話がかかってまいります。内容は毎年一緒で、「北海道は梅雨がなくていいな、北海道に住みたいよ」との声。北海道民で良かったと思う瞬間です。

みなさんキンモクセイという木をご存知ですか?秋になるととても良い香りのする花を咲かせます。私が本山で落ち葉掃きをしている時、何ともいえぬいい香りがしてきました。今まで嗅いだことのない匂いでしたので、仲間に聞いてみたところ、それがキンモクセイの香りでした。当時の感動が忘れられず、この木の北限は青森といわれていますが、庭に苗木を植えました。梅雨の無い札幌に根づくのかが心配です。この木にとって、梅雨はとても大事なのです。梅雨によって葉がキレイになり、それが秋に良い香りのする花へとつながってくるそうです。我々人間にとって梅雨はジメジメとした長雨でやっかいなものでしかありませんが、キンモクセイにとってはこの梅雨こそが最も重要なのです。

お釈迦様は法句経の中で「自分が嫌いな人がいたら、離れて遠くから見てみなさい。いい所が沢山見えるはずですよ」と言っておられます。物事を色々な角度から見てみれば違った見え方があるというお釈迦様の教えを自然の植物からあらためて教えられた気がしました。本州の人が最も嫌がる梅雨も、今の私にとっては少しうらやましく思い、毎日キンモクセイの葉に水をかけています。


札幌市 禅福寺
前田 昌鑑さん


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2010年6月5日放送

緑豊かな、良い季節になりました。 子供達は、学年やクラスが変わって二ヶ月経ち、新しい生活に慣れてきたことでしょう。ランドセルを背負った一年生も板についてきたように見えます。

私は、子供の頃勉強が嫌いで、よく怒られました。「なんで勉強をしなければいけないのか?」と考えました。 偉くなるため?いい学校に入るため?お金持ちになるため?答えはいろいろあると思いますが、今になってもっと勉強していればと反省しています。そして親の愛情がわかってきました。

私たちが、この世に生まれて最初の勉強は、お母さんの話を聞くことから始まりますね。お乳を吸いながら、楽しそうに笑ったり、泣いたり…。表情を変えて話しかけてくれる優しいお母さんの顔をじっと見つめ、感情を身につけ、言葉を覚え、人の話がわかるようになってきます。

悲しい話や、愉快な話、おもしろい話などいろいろありますが、私たちはそれを聞くとき、話をしてくれる人と心を通わせ、喜んだり悲しんだりします。心は、そうすることによって段々と深く豊かになっていくのです。相手の話を思いやりを持って聞ける人が、優しい気持ちを持った人なのです。

私たちは、勉強することによって、このやさしい気持ちを身につけるだけではなく、「努力」というものを、学ぶことができます。「努力」とは、なまけることの反対です。

毎日勉強することは、大変で面倒くさい。けれども、勉強していて一番苦しいときに、少しだけ我慢をして努力を続けると、あとは思ったよりらくに進んでいくことができます。

「継続は力なり」この、ほんの少しの我慢を大切にしてほしいと思います。
あなたの幸せを願っている人がいるのだから。


札幌市 薬王寺
田中 清元さん


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2010年5月29日放送

このところ巷では、「エコ エコ」とよく耳にいたします。エコバッグ、エコ減税、エコポイント、これだけ毎日毎日耳にしていると、一体エコとは何ぞや?という疑問がわいてきたりします。「環境を表すエコロジーと経済を表すエコノミー」を合わせた接頭辞なのだそうですが、まず頭に浮かぶのは、あふれるほどの物を造りながら、一方で節約ブームと謳っている矛盾点に疑問が湧いてきます。自分の周りをよ〜く見渡してみて下さい。案外必要の無いものに囲まれて生活している事に気が付いたりもします。 確かに地球の環境を守り、無駄を無くすのは素晴らしい考え方です。個人で出来ることは限られていますが一人一人が意識を持つことで世の中はゆっくりと変化を遂げていきます。

仏教の教えに「少欲」と「知足」という言葉があります。お釈迦様は「欲望というものは、満たせば必ず次の欲望を生む」これが人間の迷いの根幹であるとご指摘されました。しかし一方では欲望を満たすのがいけないとは申されてはいません。 欲望というものは、絶えず危険性を伴うものであることを知り、その制御を学びなさいということを教えられています。何かに付けて闇雲にエコを唱える前にまず日常からこの欲をおさえて足りていることに気付くという「少欲」と「知足」の教えを意識して生活することこそ本当のエコに繋がるのではないでしょうか。今一度考えてみてはいかがでしょう。


札幌市 瑞現寺
斉藤 徳光さん


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2010年5月22日放送

若い時には早く大人になりたいと思い、時の早さを感じる事など無く、今この年になって振りかえると、あっという間であるという事は誰しもが思い、一年一年さらにその早さは増してくる。まさに光陰矢の如し、との意味を身をもって感じています。普段お檀家さんと接していますと、年配者が多い訳で、年の話になりますと、一年早いですねぇ、こないだ正月来たと思っていたら、もう春になって、もう半年がたち、もう盆の季節がめぐり、盆も終わればすぐに寒くなり、日も短くなり、やがて冬がくる。本当、年とったら早いんだよねぇ。いや私もそうですよと答えると、お寺さんなんかまだ若いよ、年をとると一日何もしないで過ごせば、一日が長いものと思いきや、ぼけっとしててもすぐに一日が終わってしまう。いや本当に年はとりたくないねとおっしゃっていました。

それは、素直な気持ちであると思います。車でたとえるならブレーキはきかず、スピードはゆるむ事なく、むしろどんどん加速していき、とどまる事なく、いつ故障するかも分からず、いつ大破するかも分からない。そう、我々の人間の命は、そんなものである。そう考えたら、ぼやぼやしてられない。今日この命が尊く、かけがえのないものであり、過去は捨てられたもの。未来ばかり追い求めず、今この時、この瞬間が、一番大事である。日々、一日一日を、充実したものにするには、明日というのは無いものと思い、あす死んでも悔いはないという生き方こそが、もっとも大事であると思います。


札幌市 祥龍寺
長谷 泰広さん


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2010年5月15日放送

皆さま、思いやりのある心づかいで親切にしていただくと、うれしくて、感謝の気持ちで心温まりますよね。 思いやり、心づかいとは、感謝をされたい、お礼を言われたいから、とすることではございませんよね。 ドアが閉まらないように支えてあげたり、道をゆずってあげたり、食事の時にお正油を取ってあげたりおかわりをよそってあげたり、そこに、見返りを求めてしまえば、せっかくの思いやりや、心づかいがだいなしになってしまいます。また、心のこもった贈り物、心のこもったおもてなし、心のこもった言葉、まごころのある行いは、やさしく、うれしく、心に届きますよね。

うそいつわりのない誠の心、まごころは、人の心に響き伝わります。

人と人とは、心と心。
ひとりでいると心細い、だれかといると心強い。清い心をもてば清く、心、汚れれば汚れてしまう。強くなるのも、弱くなるのも、良い事も、悪い事も、良い行いも、悪い行いも、その人の心によるものです。

人と人とは、心と心。
人は心で生きるのです。まごころを大切に致して、いきたいですね。


古平町 禅源寺
秋田 修孝さん


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2010年5月8日放送

北海道もようやく桜の季節ですね。
私のお寺の境内には、八重桜の木が十数本植えられています。毎年五月の中頃から、終わりにかけて、満開を迎えます。もう何十年も満開の桜が咲き誇り、やがて風に吹かれて大地に舞い落ち、境内をきれいなピンク色に染め上げてきました。私は、物心ついたときから眺めてきたこの風景が大好きです。人の心には、いつも桜が咲いています。

毎年同じ様に咲く桜ですが、咲く時期も、咲き方も、散り方も、違った表情をみせてくれます。まさに一期一会、その瞬間に美しさを感じます。咲いていく花、散りゆく花、同じ風景はおそらく二度と見ることは出来ないでしょう。 今咲いている桜は、いつまでも永遠に咲き続けることはできません。たとえ同じ風景だとしても、その時の心の在り方によって見え方は違ってきます。人が、心奪われる事柄は、常に形を変え、変化していく様子です。 変化している様子を感じることで、発見し、感動するのです。

代わり映えのない日常などありません。あらゆることは常に形を変え、変化しています。昨日までなかった花が咲き、今日まで咲いていた花が明日には枯れてしまうかもしれません。移りゆくこの世界に目を向ければいろんな発見や感動があふれています。何気ない日常の中に、いままで気づかなかった、見つけることが出来なかった答えがあるかもしれません。それが心の桜です。

思うようにならないときこそ、自分に閉じこもることなく、目的に囚われず、まわりを見渡して下さい。心を満開の桜で一杯にするために気づかぬうちに発見や感動が、心に種を蒔いています。人知れず心に桜が咲いていることでしょう。あなたの心にも必ず桜は咲いています。


美国町 観音寺
的場 敬貴さん


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2010年5月1日放送

「この目で見た、この耳で聞いた、間違えない」と言い聞かせ、自分の都合勝手な独り善がりの世界を広げていませんか。 ある方は「世の中の活動は、見えない糸の繋がりだ」という。私達が、実際に見なかったり聞かなかったりするところに「生きる支えとなっている大切なものが、見え隠れしている」ことを忘れてはならないのです。私達が「お蔭さま」と手を合わせるのは、生きるものの深い認識から生まれた姿勢だと思います。

私達が生きるために、体内の臓器は日夜休むことなく働いています。私達の意識に関わらず、一年間に9,460,800回の呼吸が行われています。私達は、自然とも深い関係があり、四季折々の季節感によって生活のリズムを維持しています。その自然は、気取ることもなければ隠そうともせずに、いつも精一杯「もちつもたれつ」で生きるご縁の喜びを演出しています。

私達が、恵まれ感謝すべき状況にあるのに、どれだけ受け止めた態度かと思うと寂しく感じるのは、私だけでしょうか。道元さまは「この世は、諸縁の関わり深く、苦労を惜しまない努力があってこそ噛み合うものだ」と説かれています。私達の生きる世界は、不思議な浅からぬ因縁が展開していることを踏まえて「縁に随って行じ、縁に随って去る」の心情で、今此処でやるべきことをやるだけです。

この世は「無常」で、すべて変化し生まれ変わっていて、決して自分の思うようにならないのです。私達は、自分独りの力で生きているのではなく、多くの人や物に支えられて生きている自分に気づき、お蔭さまとご縁を受け止めさせていただく心の輪を広げたいものです。


三笠市 唱和寺
加瀬 道男さん


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2010年4月24日放送

ちょうどこの時期、福井県の曹洞宗大本山永平寺では、たくさんの檀信徒の皆様と、僧侶が集い、仏さまとのご縁を結ぶ、年に一度の大法要が営まれております。 その永平寺で私が修業時代に、開祖道元禅師様がご生誕800年を迎えられ、お寺の中にこのような言葉が提示されていました。

はきものをそろえると心もそろう
心がそろうとはきものもそろう
脱ぐときにそろえておくと
はくときに心が乱れない
誰かが乱していたら
黙ってそろえてあげよう
そうすれば 世界の人の心もそろうでしょう

私がとても好きな言葉です。

今度、自分の履物を確認してみてください。乱れてないでしょうか?もし乱れていたら直しておきましょう。まずは自分の心をそろえる。 そして「だまってそろえてあげよう」。

そろえてあげたんだから…と胸を張るのではなく、何も求めることなくただそろえてあげる。これがとても大事なことです。

こんな些細なことですが、それを積み重ねていけば世界の人々の心がそろう。なにげないひとつの行動で自分の心がそろい、自分以外のひとの心もそろい、そしてそのことによって世界の人の心もそろう。

自分のなにげない行動が世界を変える力となる。

そのなにげない行いが仏道なのです。仏様の道なのです。

今日からでも遅くはありません。ご一緒に実践してまいりましょう。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰さん


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2010年4月17日放送

今月八日は仏教の開祖、お釈迦さまの誕生日でした。

お釈迦さまのおかあさんは、お釈迦さまをお産みになられた後、産後の肥立が悪く、七日後に亡くなってしまいました。今も昔も、女性にとって出産というのは大変なことであります。

現代の私たちは、自分や家族又は友人の誕生日を賑やかにお祝いすることが多いものです。自分自身の誕生日を幸せで楽しい気持ちで迎えることは大切なことです。 しかし、最も心しなければならないのは、自分を生み育ててくれた親に感謝することです。

「諸人よ 思いしれかし おのが身の 誕生の日は 母受難の日」

父母が生きているうちに、親孝行の大切さに気付いた人は幸いです。しかし、人格的に完成し、生活にゆとりができるころには、既に親が他界していることが多いものです。 「親孝行、したいときには親はなし」とはよくいったものです。

自分の誕生日には、おのれの命の源に思いを馳せましょう。 そして、生み育ててくれた労苦に、「ありがとう」と心から感謝できる人間になりたいものであります。

ちなみに、きたる五月九日は母の日です。私自身、常日頃、つい忘れがちな母へ感謝を込めて、「ありがとう」という気持ちを届けたいものであります。


札幌市 真龍寺
飯田 整治さん


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2010年4月10日放送

この四月から新しい職場に就職の決まった方は、大きな期待と少しの不安を抱えて仕事に励んでいることでしょう。就職、それは自分が社会に尽くすプロとしての第一歩です。どんな場所でもどんな仕事でも、その場その場で当たり前のことを当たり前にやる。与えられた仕事に自分を活かし、前向きの姿勢で全力を打ち込んで働く事によって、自分の持ち味が発揮されるはずです。

しかし人生には、様々な困難、色々な悪条件が巡って来ます。如何なる困難、悪条件が起こっても「やり遂げよう」「やり通そう」と、一心に念じて努力すれば必ず困難、悪条件も克服できます。

禅の言葉に、「切に思うことは必ずとぐるなり」とあります。「切なる思い」というのは、「どうしてもこのことはやり遂げよう」と思う一心からくるものです。ものに一心になれば、そこにしぜんと方法・工夫も出きて、そしていつの間にかうまく行きます。うまく行かないのは、一心が足らないか、工夫、努力が足りないからです。

また四月は、新しい出会いの季節、縁あって人は様々な出会いをします。

考えてみると私たちは、絶対に独りでは暮らせません。必ず誰かと関わり合いが無ければ生きて行かれません。「みんなに生かされて、またみんなを生かしている」のだと気付いた時、「ありがたいなあ おかげさまで」という、感謝の心がわいてきます。そこに私たちの探し求めている今日(こんにち)の幸せがあるのです。ふれあいが生活を支え、命さえも支えているのです。これなくしては、一日も一時も暮らせません。

『その日その日を悔いの無い一日を』 この言葉を、限られた人生を送る私たちの合い言葉にしたいものです。


札幌市 禅林寺
日比 健士さん


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2010年4月3日放送

長かった冬もおわり、雪どけのすきまからふきのとうが顔を出す季節になりました。 私のお寺の庭にも、ふきのとうや、福寿草が芽を出し始めようとしています。 むかしの歌に

「踏まれても 根強く忍べ 福寿草 やがて花咲く 春はくるなり」

とあります。 福寿草やふきのとうは、冷たい雪の下で、永い間、ジーッと芽をだす時を待っているのです。そしてそれは、ただ漫然と時を待つのではなく、花芽をじっくりと育て熟成させて、春の到来に備えているのです。

おおよそ、春の花々にとって、冬の寒さは単に厳しいのではなく、その厳しい寒さがあってこそ、花を咲かせることができるのです。

永平寺の道元禅師様は「春になって爛漫と咲き誇る花々のすべてが、この寒い雪の中にあって花をつける梅の花に凝縮されている」と言われました。 北海道の場合、桜も梅もほぼ同時に咲きますが、これは冬の厳しい寒さが一転して春暖に変化することをあらわしています。 冬の寒さの厳しさゆえに、春の喜びがより大きいということなのです。

当番組をお聞き取りの皆さん方の中には、今、この時を雪の下の福寿草のような思いで苦しみ・悲しみに耐えていらっしゃるかたもあろうかと思われます。 そんな時こそ、春に咲く花に思いを致し、耐えるべきときはじっと時を待ち、今の苦しみがそのまま、大きな喜びになると信じて、精進いたしましょう。

もうじき野山が花々で覆われる季節がやってきます。春の喜びを、ともに味わおうではありませんか。


新篠津村 光明寺
藤原 重孝さん


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2010年3月27日放送

この季節を迎えると不思議に、かってローカル線の汽車の中での、幾度か転勤を繰り返し、定年退職を迎えたに見える御夫婦の姿と会話を思い出します。

「かぁさんやっぱりあのタンス投げたのか…」「投げたよ…あんたなんべん言えば分かるの…形見だ形見だ…なんぼ転勤するたびにあのタンスに悩まされたの…ようやく自分たちの家だもの…あずましく暮らそ…あんたの言うようにしていたら家の中、整理整頓できないしょ…」「うん、そうだな…分かってるけどいたわしかったナ」

急に後ろの御夫婦の会話が閉じたのです。 何となく後ろの席が気になってちらっと御二人を見て座りなおしました。ご主人は言わなければ良かった…心なしか項垂れている様子、奥さんは「つい言い過ぎた…」という様子でした。

私は車窓の流れ去って行く風景を眺めながらフト考えました。 お釈迦様さまは、人間は如何に生きるべきかと六年間のご修行の末に【身を整え・息を整え・こころ整え】【己を見つめる】坐禅によって、ついに悟りの人「仏」となられました。人は一人では生きてゆくことは出来ない・多くの人やものに支えられ・生かされることによって生きている…【心の整理整頓のありかた】を御示し下さいました。

今の時代、一番求められているのが【ぬくもりの心】一番忘れているものが【思いやりの心】だと言われます。 次々と胸痛めるニュースを見聞きするたびに【本当だナー】とうなずいている方も多いのではないのでしょうか。

春は【出会いと別れの季節】です。どうか御互いに心の整理整頓を心がけたいものであります。


厚岸町 吉祥寺
斎藤 章彦さん


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2010年3月20日放送

今日は春のお彼岸の三日目になりました。冬の長かった北海道のこの地も、ようやく春になって雪解け水が沢を満たし、木々に大地に潤いをもたらすようになりました。そんな好時節の春のお彼岸は、まさに心のオアシスと言ってもいいのではないのでしょうか。

私は団塊世代まっただ中の一人です。ITやインターネット等なかなかついていけません。特に現代社会はあわただしく、時の流れをとても早く感じています。そんな世相の荒波に飲み込まれないためにも、一週間心を落ち着けてご先祖様をしのび、手を合わせることによって自分の気持ちを今一度しっかりしたところにおきたいものです。

お彼岸は日本独自の仏教文化としてとても大切な行事です。 このお彼岸に、亡き父母を想い、亡きご先祖さまに感謝の気持ちで、ご供養するということは、自分の命の根源に手を合わせるということです。父母を愛し、ご先祖さまを愛するということは、自分の命の根源を愛するということです。 ご先祖さまのおかげで人間としての命をいただいている私たちがいます。そう考えると手を合わさずにはいられません。手を合わせるということは、心を合わせることであり、心を合わせるということは命を合わせることでもあります。

ご先祖さまと強い絆で結ばれている私たちです。これからも感謝の気持ちを忘れることなく、心をこめてご供養をしていくことが、私たちの幸せへとつながってゆくのです。


安平町 見龍寺
守屋 敬道さん


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2010年3月13日放送

道元さまは、人にものを言う時には、その言葉が御仏の教えであるか?その人の幸せとなるか?今言うべきなのか?と三度考えた後相手の幸せを願って言いなさい、と説かれました。相手の立場に自分を置き換えて考えることをしなければ時として、人の心を傷つけたり、諍(いさか)いの元ともなります。又、自分では良いことをしてあげたと満足していても相手にとっては「迷惑」と思われる事もあります。

数年前の正月でした。Aさんの家で年始のお経のあと、私が「今年は孫さん達は来ないのですか?」と尋ねると「何が不満なのか嫁が連れてきてくれないのです。方丈さんから正月くらい顔を見せてやりなさい、と言ってくれませんか?家の人が淋しがっていますので」とお母さんから頼まれました。私はお嫁さんと同級生です。心配になり電話をしました。

すると彼女はこのように話してくれたのです。「お父さんもお母さんも、とても良い人です。でも子供達を連れて行くと、甘やかして夜も遅くまで起こしています。毎月小遣いを決めて、高価な物は誕生日まで我慢させているのですが、一万円もする物もすぐ買って呉れるのです。この頃は、欲しい物があるとお爺ちゃんに電話して買ってもらうと反抗したりします。ですから子供の教育の為にも連れて行けないんです。方丈さんから、うまくお母さんに伝えて下さい。」と言われました。

納得した私は、数日後、注意深く、相手を傷つけないように、おばあちゃんにお嫁さんの気持を伝えました。すると、おばあちゃんは「私も子育ての時、同じ事で悩んだ事があったのに、すっかり忘れていました。本当に良く分かりました。」とお礼まで言ってくれたのです。

そして次の正月には賑やかな孫達に囲まれた幸せ一杯のAさん御夫婦とお嫁さんの笑顔が私を迎えてくれたのでした。


枝幸町 長林寺
島崎 敬三さん


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2010年3月6日放送

昨年の十一月のことです。ブラジルのサンパウロ、曹洞宗大本山別院、佛心寺、開教五十周年のお祝いの法要に参加して、その帰りにニューヨークに寄りました。なんとあの有名な五人組「スマップ」がブロードウェイに全員集合したのと、ちょうど同じ時期でした。マンハッタンで摩天楼を仰ぎ、世界同時多発テロの被害にあった、ツインタワービルの跡地で慰霊をした翌日、特急列車で私はワシントンに向かいました。アーリントン墓地でケネディ大統領のお墓参りのついでに、オバマ大統領は不在でしたがホワイトハウスの前で、私はもの凄い人に出会ったのです。

彼女ピシオットさんは、当時勤めていた領事館や国連を辞めて、一切の家財を投げ打ち核兵器廃絶の為に、三十年近くも路上生活をしながら平和運動を続けているのです。立て看板の広島・長崎の大きな被爆写真に目がとまります。それは幼い子供を抱いた悲惨な姿でした。「ベットの感触なんて私覚えていないわ。」真っ黒く日焼けた顔のシワが長い歳月を表していました。先月、ワシントンは大寒波が襲い、大雪被害のニュースが流れていました。どうしているのでしょう。「ここで死んでもいいの!地球から核爆弾がなくなるまで私座り続けるわ!」握手した手の温もりが熱く伝わってきたのを思い出します。この反核おばさんのド根性と明るい笑顔に感動と勇気を貰いました。私はこの人にこそノーベル平和賞をあげたいなと思いました。

私達はノーベル博士がダイナマイトを開発した事を悔やんで、この賞を遺言した事を決して忘れてはいけません!戦争のない世界が一日も早く訪れることを、お祈り致しましょう。


札幌市 薬王寺
田中 清元さん


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2010年2月27日放送

厳しかった寒さの季節も、ようやく峠をこえようとしています。凍てついた北海道の冬の夜、私はたびたび澄み切ったえりもの空を眺め、星の輝きに魅せられました。

「真砂(まさご)なす 数なき星のその中に われに向かひて 光る星あり」

明治の歌人、正岡子規がよんだ歌ですが、こぼれるような星空の中で、自分だけに語りかけてくる、たった一つの星に出会うことができたらすてきですね。

私たちが星の輝きに美しさを感じるのは、それが微妙に変化しながら、またたき続けるからです。宇宙物理学者の佐治晴夫(さじ はるお)先生は、星がまたたくときの光の強さの変化を“ゆらぎ”と呼び、大気がゆらめくせいで、光の道筋が変わり、光の量が増えたり減ったりするように見えると説明しています。佐治先生によると、星のまたたきの“ゆらぎ”と私たちがとても安らかな気分でいるときに出てくる脳波の強さの“ゆらぎ”に共通性があるそうです。そんな話を聞くと、ますますあの無数の星の一つが、私を呼んでいるような気がします。

夜空の星は、私たち人間に宇宙の存在を教え、同時に私たち自身も宇宙の一部であることを教えてくれます。私たちは地球という小さな天体の住人として生まれましたが、この地球も広大な宇宙の中の存在です。そして、その小さな天体に住む私たち一人ひとりは、とても小さな生命ですが、宇宙の長い歴史のなかにあって、たった一人の、今という瞬間にしか存在しない、かけがえのない生命(いのち)なのです。
もし宇宙に意志(こころ)があるとすれば、宇宙でたった一人しかいない、この自分を大切にするよう望んでいるのだと、思わずにはいられません。


えりも町 法光寺
  佐野 俊也さん


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2010年2月20日放送

昨年の12月、インドを訪れ、お釈迦様に関係深い地をお参りしてまいりました。
お釈迦様は今から2600年前に80歳でお亡くなりになられました。 80歳を迎え、自分の最後もそう遠くはない、そう感じられたのでしょう。自分の生まれ育った地にて最後を迎えたいと、当時住まわれていたラージギルという場所から、お生まれになったルンビニーへ約400kmにも及ぶ最後の旅を始められました。
しかし、その思いは届かず、途中クシナガラという地にてお亡くなりになりました。 私たちの旅の3日目は、お亡くなりになったクシナガラより、出発点ラージギルへの道のりでした。

途中、ヴァイシャーリーという町を通ります。この町は生前お釈迦様が大変好まれた町と言い伝えられています。長い距離の移動でしたので、その町へ到着したときはもう夕方でした。緑の芝生の中にたたずむ赤茶色の煉瓦の遺跡、それを囲むように茂るマンゴーの木々。少しほこりっぽい空気の中で、夕日が真っ赤に大きく浮かび上がります。そんな美しい景色をみていると、2600年前にお釈迦様がここに立ち、弟子たちに説法しているご様子が目の前に浮かぶようです。

お釈迦様はこの地にてこうおっしゃったと言われています。

「この世界は美しいものだし、人間のいのちはすばらしいものだ」

それは、2600年前から続いている私たち人間へのやさしく、力強いメッセージです。今のような時代だからこそ、もう一度いのちのすばらしさを感じ、感謝することが必要なのではないでしょうか。このメッセージをしっかり受け止めていかなければいけない。ヴァイシャーリーの景色を見ながら、そう私は感じました。


北見市 白麟寺
副島 豊道さん


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2010年2月13日放送

あなたは、「心の平穏」をどんな時に感じるでしょうか?
家族団らんのひととき、ひとり趣味に没頭するとき、旅に出て美しい景色を見ながらたたずむとき、気が置けない友達と時間を過ごすとき、あるいはお仏壇に向かって静かに拝むとき、いろんな場面がありますが、家族団らんの時間がない、趣味にさく時間がない、もう何年も旅に出たことがない、気が置けない友達はそれぞれ忙しい、うちには仏壇がないなど、心に平穏を感じることが今は難しい時代と言えるのかも知れません。

お釈迦様は、「心の平穏」のことを「ネハン」と言われ、その心の平穏を乱す原因を三つ示されています。
一つは、「自分の心にかなうものをむさぼり求める心」です。小さな子どもが買い物をしているときに欲しいものを買ってもらえるまでおねだりし、親を困らせる光景が思い浮かびます。
二つめは、「いかりを抱き人を憎む心」。
三つめは、「道理をわきまえる智慧のない愚かさ」です。
お釈迦様は私たち人間の内なる苦しみの原因をこの三つに集約し示されましたが、この三つに苦しめられることなく生きることは容易ならざることです。

時に心の平穏は、ささやかな「幸せ」を感じることができれば得られるものです。 「幸せは得るものでなく、感じるもの」です。宝くじがあたったとか、試験に合格したということではなく、今日も朝目が覚めた、ご飯を食べることができた、そんな当たり前のことに平穏を感じることのできる心を見つめる時間をもちたいものです。


苫前町 晃徳寺
坂川 資樹さん


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2010年2月6日放送

ヒトとヒトとの絆。我々は一人で生きている訳ではありません。様々な人間関係、人間同士の絆によって、生かされているのです。

それでは、その『人間同士の絆』をより高め、より深める方法とは何か?
その方法の一つに『言葉を大事にする』というものがあります。
相手を思いやる心から生まれた言葉。 相手のことを考えた、温かい言葉。
ですが、このような言葉づかいを、最初から完璧に行うというのは難しいかもしれません。

まずは第一歩として、挨拶から。 本当の気持ちが込もっていれば、『おはようございます』『こんにちは』『ありがとう』という、日常の挨拶だって、『相手を思いやる温かい言葉』になるのです。
ですが、あなたが普段口にしている挨拶、もしかしたら、台本に書かれた台詞(せりふ)、棒読みの挨拶になっていたりはしませんか?

先日のことです。おそらく、『このような時にはこう応対しなさい』と、従業員用の接客マニュアルが存在するのでしょう。 たまたま不慣れな従業員だと思うのですが、『マニュアル通りの台詞』『棒読みの挨拶』に違和感を受けたのを、今でも覚えています。

『決められた台詞を、決められた通りにただ言う』そこには、『相手を思いやる心』があるとは、言えないでしょう。 周りを見渡せば、世の中には『棒読みの言葉』が氾濫している事に気付かされます。
だからこそ、もう一度、問いたいのです。 あなたが普段、口にする挨拶…棒読みの台詞になっていたりはしませんか?
心の込もった『ありがとう』。心の込もった『おはようございます』これらを普段から当たり前に言える…そんな自分自身をめざしてはみませんか?


厚岸町 吉祥寺
斉藤 章道さん


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2010年1月30日放送

私たちが、お仏壇にお供物や食べ物をお供えするということは、大切な供養の一つです。

二年ほど前のことですが、家の仏壇にヨーグルトが供えてありました。聞くとお客さんから子供達への頂き物、とのこと。
人様から何か頂いたら先ず仏壇にお供えするというのは昔の話なのだろうか。いや、今もそうである。そうであってほしい。
当時四才の三人兄弟の末の子が仏壇に上げたらしいそのヨーグルトの上に、お店でもらったと思われるプラスチックのスプーンも一緒に添えられていました。そのスプーンを見た時、私は『ヨーグルトを食べる時スプーンが必要だよな』と素直に思ったものです。

御飯を食べる時には箸が必要です。御霊供膳にも箸をそえてお供えします。ただ、ものを上げれば良い。少ないと見映えが悪いから「それなりに」という見栄を張ってしまいがちです。それは体裁をつくろっているに過ぎないことでもあります。

しかし、子供が添えたスプーンには「どうぞ召し上がれ」という気持が込められていました。その素直な気持、心がうれしく感じられました。ふだん私が忘れがちな心を思い出させてくれました。

「どうぞ召し上がれ。そして私達もいただきます」 その心があって、お仏壇にお供えした、お供物や食べ物が本物の供養になります。亡き人と私が一つになります。 子供の素直な行いから、大切な供養の心を頂いた出来事でした。


北見市 高雲寺
佐伯 正純さん


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2010年1月23日放送

「一生懸命尽くしているのに裏切られてばかりです」と、よく耳にします。
人は人に期待をし、その期待があるがために尽くしたりします。 しかし、結果として自分が思うようにならなかった場合、それが裏切りに見えたり、更には失望へと繋がっていきます。
実はこの「期待」に問題があるのではないでしょうか?

「期待」という言葉の中には相手に対して「〜をして欲しい」という欲望が少なからず見え隠れします。ましてや人が自分の思うようになるはずがないのに、期待を膨らませてしまいがちです。期待よりも結果のほうが小さいとき、裏切りとか、失望を感じたりします。
しかしこれは相手に問題があるのではなく、期待をよせた自分に問題があるのではないでしょうか?

もし、これが期待ではなく「希望」であったならば如何でしょうか?
希望はなかなか叶えられないものです。もし叶えられたら些細なことであっても、とても嬉しいものです。 期待を持つと裏切りや失望を感じる反面、これが希望であったならば喜びになっていたのでは、という経験はありませんか?

絶対とまでは言えませんが、多くの場合、期待から希望へと切り替えると苦しみから脱却できます。 もし、今、何かに「〜して欲しい」と期待しているのならば、「〜だったら良いのに」という希望へと切り替えてみて下さい。 失望することが少なくなり心が楽になります。 このことは、何事につけても言えることなので、是非、試して頂きたいとおもいます。


札幌市 瑞現寺
斉藤 正憲さん


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2010年1月16日放送

お檀家のお父様が癌を患い、入退院を繰り返していました。ある時、ご自宅にご先祖様のお命日でお伺いをした時、たまたま外泊でお帰りになっておられました。

御回向が終わりお茶をいただきながら世間話をしていると突然こんな話を切り出しました。
「方丈さん、俺こんな病気にかかってしまって生きてきた意味があるんだろうか」と。
その時私はドキッとしながらもこう答えました。

「私はお父さんと出会い、様々なことを学びました。それが恐らく私の力となり、これから出会うであろう苦しんだり悲しんだり、或いは病んだりしている人の心に寄り添う力になるかもしれません。目には見えませんがお父さんは家族を含めた多くの人にそうやって力を与えてきたはずです。そこにお父さんが生きてきた意味があると思います。」
そう言うと大きくうなずき大粒の涙を流しながら私の手を強く握りました。

オーストリアの精神科医でエミール・フランクルはアメリカで驚異的ベストセラーとなった「夜と霧」という本の中で「あなたを必要としている何かがどこかにあり、あなたを必要とする誰かがどこかにいるはずです。そしてその何かや誰かはあなたに発見されるのを待っている。」とナチスの強制収容所での体験を通して書いています。
人生で起こる総ての事はどんなことにも意味があります。だから私達が生きている事には当然のことながら大きな意味を持っています。
そのことを常に信じて力強く生きていきましょう。生きている事で誰かがどこかで大きな励みとなり力となっている事を信じて今日も明日も精一杯、生き抜きましょう。


当別町 全久寺
白井 應隆さん


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2010年1月9日放送

殺伐としたこの時代、親切な言葉を掛けられても相手の心の裏側に何か有るのではと素直に受けとめられないという難しく淋しい世の中になってしまった様な気が致します。
「人と接して仏となる」これは私の本師が示してくれた言葉の一つです。
自分と気持ちが合う人でも合わない人でも、様々な人と接する事が人生の糧になる。
しかしストレスの多い今の社会では人と接する事で逆に心の病にかかる方も増えたようです。

よく人から元気をもらうという事を聞きます。これは相手からの励ましの言葉に元気をもらう事は勿論ですが、それ以上に元気づけようとする相手の気持ちがその場に温かい雰囲気をつくり、その優しい空気が自分の心を穏やかにし元気を取り戻す事が出来たのではないでしょうか。
人と接している時のその場の空気は自分達が発しています。勿論これは酸素や二酸化炭素等の科学的な成分の事を言っているのではありません。
優しい会話の時には優しい空気、厳しい会話の時には厳しい空気、真剣な時には真剣な空気がその場に生まれます。知らず知らず生み出されている気、雰囲気の事であります。そしてその空気を生み出しているのが私達の心です。

供養の養は「養う」という字です。これは私達が誰しもが持っている「仏心」つまりは人間らしい優しい心を養う事、育てる事であります。そしてその心を養う場がお寺での行事であり、皆様方が営まれる法事等の先祖供養です。一心に手を合わされるその場には真剣に亡き人を思う篤き空気が満ち溢れます。この空気をいっぱい吸う事で疲れた心を洗い流し、優しい心という栄養を与えてくれます。

殺伐とした世の中は誰のせいでもなく一人一人の疲れた心のその結集です。
自分達で心を養う努力し明るい世の中にしたいものであります。


南幌町 菩提寺
岩井 淳一さん


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2010年1月2日放送

みなさん、明けましておめでとうございます。曹洞宗北海道管区教化センター統監 藤原重孝です。
今年もまた「曹洞宗の時間」を宜しく御聞き取りくださいますようお願い申し上げます。

さて、数年前のある雑誌の調査によると、札幌市の成人男女の約60%が「人生、やりなおしたい派」なのだそうです。
人生は一日一日・一時一時の積み重ねの結果です。「失敗した」「やりなおししたい」という反省や後悔が、より良い人生をつくりあげる力にもなります。
映画作家の大林宣彦さんのお父さんは「他人のようにウマくやるよりも、自分らしく失敗しなさい」と、失敗を恐れない生き方を示されたそうです。

昔、中国の雲門禅師という方が、集まった大勢の修行僧に問いかけました。
「今までのことは問わない。今日、たった今から以降のおまえたちの生き方をひとことでいってみよ」と。
なみいる修行僧に即答するものがいないのをみて、禅師はみずから「日々これ好日」とこたえられたそうです。

私たちはだれしも、さまざまな人間関係・社会との関係などがびっしりと絡み合って、この世で生きて、生かされています。ですから人生をリセットすることはできないのです。
しかし、たとえ失敗しようがつまずこうがいまのこの日を「好日だ」と感じることができるはずです。

人生やりなおしたい派の方も、あるいは、そうでない皆さんも、一日一日・一時一時を、よりよく生きることを心がけて、「日々これ好日」で過ごされることを、心からお祈り申し上げるものであります。


※参考文献 札幌人大調査(平成二年刊)


曹洞宗北海道教化センター
統監  藤原 重孝


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2009年12月26日放送

今年も、はや年の瀬となり、気ぜわしい季節を迎えました。
道内各地のスキー場もオープンして、それなりの賑わいをみせているようですが、以前ほどではないようです。最近はスノーボードが若者の間では流行していますが、スキーの楽しさと素晴らしさはまた格別です。

わたしは、三〜四年前までアルペンの競技スキーに出場するジュニア選手の世話をすることがありました。
スキー競技で良い成績をおさめるためには、選手個々の能力や技術を向上させることは勿論ですが、同時に雪のコンディションとワックスの相性をよく考えなければなりません。どんなにスキー競技の能力が高くても、スキーの板に塗るワックスの判断を誤ると台無しです。

これは私たちの人生にも言えることです。近頃、適応障害で苦しんでいる方が多いと聞きます。これは、社会環境や人間関係に自分をなじませることができないということですが、スキーのワックスと雪の関係と同じことであるといえます。どんなに高い能力と立派なスキー板を持っていても、雪質とそれに合うワックスを選択できなければ、実力を発揮できません。人間関係などで悩んでいる人は、このワックスを忘れていることが多いものです。

私たちにとってスキーのワックス、つまり環境に適合するために必要なものとは一体なんなのでしょう。
その一つに、他人に対する和やかな顔と、暖かい愛情のあることばがあります。
この一年をしめくくるにあたり、「終わり良ければ全てよし」のことばどおり、年末の時季は笑顔とやさしい言葉を心がけて、好い歳をむかえたいものであります。


由仁町 常福寺
山川 章順さん


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2009年12月19日放送

皆さんはこの一年どんな一年だったでしょうか。何か新しい出来事はあったでしょうか。
良い事の多い一年でしたでしょうか。それとも逆に辛い事の多い一年でしたでしょうか。
人によって様々であった事と思います。

人生は楽しく幸せで、わくわくする事ばかりではありません。また逆に辛い事だらけでもないというのが現実でしょう。ですから自分には、これといった事もなく、無事に一年が過ぎお正月を迎えられるのが一番幸せである。と言う人もいます。これはこれで一面の真理を含んでいるのかも知れません。

この言葉に似た禅の有名な言葉に「無事是貴人(ブジコレキニン)」という言葉があります。
ことなしと書いて無事、貴い人と書いて貴人と読むのですが、これは「無事に日々を過ごす事がめでたく、その様に出来る人が貴い人」という意味に思われがちですが、真の意味は若干違います。

ここで言う「無事」とは、幸せだとか不幸せだとか善だとか悪だとか計らない、求めない事を言うのです。また、「貴人」も貴族や名士といった人達の事ではなく、貴い境地、禅語で言う所の「安心(アンジン)」これはアンシンと書くのですが、不安が無く揺るぎない所を得た人の事ですから、本当の意味は「外に幸せや安心を求めるのではなく、それらを止めて自己に向う所に真の安心がある」という様な意味になるのです。

「無事是貴人」の真の意味をかみしめながら、自分は今年、アンジンに少しでも近づけたのであろうか。来年は更に近づけるのであろうか。そんな事を思いながら、年の瀬を過ごす今日このごろであります。


札幌市 龍松寺
池田 賢一さん


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2009年12月12日放送

先日、とある講習会にお招きをいただき、その会場となった温泉に伺ってまいりました。
その温泉大浴場の脱衣所にかかっていた、一枚の水墨画に大変感銘を受けました。
その絵には、墨染めの衣を着たお坊さん二人が、それぞれ茶碗を片手にお酒でしょうか、お茶でしょうか、酌み交わしながらニコニコと話し込んでいる様子が描かれておりました。
そして特徴のある字体でこんな言葉が書かれていたのです。

「人間は泣きながら生まれてきたんだよ。長い人生だもの、泣く時もあるさ。その度に生まれ変わるんだな、きっと」

確かに産声をあげなければ私たちの今の命はありませんでしたから、泣きながら生まれて来たに違いありません。
またいくら大人になったとはいえ、肉親との悲しいお別れに涙された方も沢山おられる事と思います。
辛くて苦しい時、悔しくて悲しい時、様々な人生の場面場面で、泣きたい時も沢山沢山あった事でしょう。
その時に流す涙を、生まれ変わるための涙だと受け止めるのは、決して簡単で容易い事ではないと思います。けれど「今泣いたこの後生まれ変わるんだ」と思えたら、気持ちの上では随分と救われるに違いない、そう思っています。

涙の後に「さぁー、生まれ変わって新たに人生を歩んで行こう」と決意する事を発心と言います。また、菩提心を発こすとも言います。
曹洞宗をお開きいただいた道元さまは「菩提心を発こす事を何万回でもしていきなさい」とお示しされております。
人生泣いたり笑ったり、辛い時こそ前向きな気持ちで過ごしていきたいものと存じます。


夕張市 禅峯寺
安藤 英明さん


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2009年12月5日放送

来たる12月8日は仏教を開かれたお釈迦さまが悟りを開かれた成道(ジョウドウ)の日であります。
ジョウドウとは道が成ると書きます。道を得て仏と成ること、仏の悟りを完成することです。
曹洞宗ではこの日を記念して、法要を営んだり、坐禅修行を行います。
お釈迦さまは長い修行を経て、最後には菩提樹の下で坐禅の行に入られ、12月8日の朝、明けの明星を見て悟られたと言われております。
お釈迦さまにとってこの日の朝は、悟りを開かれ仏陀と成った自分との最初の出会いであり、仏陀としての人生の始まりでありました。

さて、みなさんは今朝どのような目覚めをされましたか?
「今日は何と気持ちのよい朝だろう」でしょうか?「眠たくてなかなか目が開かないなぁ」でしょうか?
朝は一日の始まり、今日という人生の始まりです。今日の自分との最初の出会いになります。
わたしたちも朝目を覚ましたなら、新たな自分に生まれ変わった心持ちで、今日一日の勤めに精進する自分自身に向かって「おはよう」と挨拶をし、
ご先祖さま仏さま、そして全ての人々に心を込めて「おはようございます」と挨拶をしたいものです。

『言葉は心の足音』と申します。朝の挨拶から感謝の足音を響かせましょう。感謝の心は「おはようございます」の挨拶から始まります。
言葉にしなければ思いは何も伝わりません。どのような一日を過ごそうとも、もう今日という日は始まっております。

さぁ、精一杯の思いを込めて、全道のみなさん「おはようございます」。


北見市 高台寺
佐伯 至純さん


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2009年11月28日放送

私のお寺では年に一度、小学校高学年の子供達二十人前後が日曜から金曜日まで五泊六日をお寺で寝泊まりし、班分けをして食事の支度や片付け、掃除など日常生活の全てを高校生ボランティアの力を借りながら自分達の手で行う「寺子屋通学塾」というものを行っています。
その中で、毎朝、班ごとに三十分程坐禅をします。
日程終了後、子供達のこんな感想文がありました。
「毎朝の坐禅は足も痛いし、時間がとても長く感じられて最初は大変だった。でも慣れてくると心が落ちついて気持ち良く思えた。時々は静かな時間も必要だと思った。」
この感想文には、坐禅によって心が調えられてゆく様子がうまく表されています。

さて、坐禅をする時は、なるべく静かな場所を選び、仕事の事や家庭の事情を一休みし、損得や善悪を考えず、ただひたすら坐る。
腰骨を立て背筋を真っすぐにして姿勢を調え、吐く息、吸う息をゆっくり深く丁寧にして息を調える。そして、それによって心が調えられていきます。
夜寝る前に行うと安眠が訪れ、朝に坐ると一日が清々しく始まります。足を組めない方は正座でも椅子でも構いません。
道元禅師さまは、坐禅は悟ることを目的にするのではなく、安らかな修行としての坐禅ですよとおっしゃっています。
まずは一日の中で少しの時間でも静かに坐る習慣を身に付けたいものですね。


浜頓別町 永生寺
加藤 智裕さん


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2009年11月21日放送

先日、新聞に「価格安定へ。ふぞろいの野菜達が出荷」という記事がありました。
「ふぞろいの野菜」とは大きかったり小さかったり、形や色が悪い、曲がっている、傷があるなど普段は市場に出荷されず処分される規格外の野菜のことです。
しかし、規格品と同じように手塩に掛けて育てられた事には変わりなく新鮮で味・安全面には全く問題はありません。

この「ふぞろいな野菜」が取り上げられた理由は他でもありません。今年は七月の長雨、低温、日照不足で全国的に農作物は大変な被害を受けました。
先っぽが真っ黒に染まり倒された秋撒き小麦、雨に流された玉葱、花が枯れたジャガイモなど例年に無い「異変」を身近な所で目の当たりにしました。
少しずつ野菜の高騰、品不足がテレビ、新聞などで報道され始め、「ふぞろいな野菜」が注目されたのが八月中頃でした。

そんな時、私達は野菜を手に取り「高いなぁ」と不満を抱く前に生産者の方々を想ったでしょうか。
いびつな野菜を避ける前に生産者の方々の手間、苦労を想ったでしょうか。
振り返ると「苦労を強いられているのは消費する側」だとする身勝手で自己中心的な自分にふと気付かされたのです。

「功の多少を計り彼の来処を量る」この言葉は自分の口に食物が入るまでにどれだけの人々の手を経て此処に到るのであろうか。その人々の想いも一緒に頂こうとする『感謝の心』を教えてくれます。
食事の時は心から唱えたいものです。「いただきます」「ごちそうさまでした」


由仁町 由仁寺
高山 和成さん


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2009年11月14日放送

今、ラジオを聞いておられる人の中で動物が好き、という方は沢山いると思います。
多くの人が、癒しを求めて犬・猫などのペットを飼っている。

旭川の旭山動物園で一年の入場者数が日本で一位に成って数年がたち、TVでも動物の番組が視聴率を取っています。
TV・CM・映画などでは、困った時には子供と動物というのがあるそうです。
可愛い子供・動物を出演させて高視聴率にするんだそうです。
私も、ごたぶんにもれず犬が大好きです。
本・雑誌の表紙に可愛い犬が出ていると、つい目がいき手に取ってしまいます。
よく動物好きに悪い人は居ないなどと根拠の無い話を聞きますが、確かにイッケン恐そうな人がペットの犬に赤ちゃん言葉で話している姿を見ると悪い人など居ないんだろうなぁ〜と、犬好きの私は確かに思ってしまいます。

動物は、人の言葉で会話する事が出来ません。
だから飼い主は、ペットの気持ちを思いやって優しく接します。
多くの人がペットに対する様に、他人にももっと優しく思いやる気持ちを持って接する事が必ず人には出来るんだと思います。
ラジオを聞いてる皆様、よければ今日一日優しい思いやりの心を持って人と接してみて下さい。


日高町 閑山寺
菊池 慈海さん


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2009年11月7日放送

私は、週に5〜6日、町の小・中学生にサッカーを指導しております。
その指導の中でいつも私は、「なぜ失敗したのか、なぜ上手くいかなかったのかを考えなさい。そして、改善できるように努力しなさい。改善するということは、今よりも、もっとよりよい自分になるように、自分を変えていくことだよ。」と伝えています。
そして、自分の失敗を自覚し、反省し、改善しようと努力する、その毎日の積み重ね、一日一日の日送りが、よりよい自分、よりよい人間を作りあげることになると伝えています。

子供達が、毎日毎日、自覚し、反省し、改善しようと努力して、練習に取り組む姿勢には、輝きに満ちあふれた美しささえ感じることがあります。
私は、このすばらしい子供達にサッカーを通して、「よりよい生き方をする。」ということの大事さを逆に教えてもらった気がしてなりません。

それに対して、我々大人は、どうなのでしょうか?
毎日の日送りの中で、自分の在り方、自分の生き方をを自覚し、時に反省もし、よりよい生き方、よりよい毎日を積み重ねているだろうか?我々、大人が実践していないのに、この先の未来を背負っていく子供達に、何を伝えることができるのだろうか?
今、私の目の前には、明るい笑顔で、懸命にボールを追いかけ、日々努力を重ねている子供達がいます。我々、大人も負けてはいられません。今日の自分よりも、もっとよりよい明日の自分を求め、日々改善して、よりよい生き方を実践していかなければならないのではないでしょうか?
少しずつでも、改善をして、よりよい生き方をする、そんな志はいつも心に持っていたいものです。


江差町 観音寺
松村 直俊さん


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