法  話

HBCラジオ「曹洞宗の時間」(毎週土曜 午前6時15分〜6時19分)にて放送された、
北海道各地のご住職の法話を掲載しております。
また、実際にラジオで放送された音声データの配信も行っております。

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12月 2013/12/7
「縁について」

2013/12/14
「心の持ち方 How to have your mind」
2013/12/21
「太陽のように」
2013/12/28
「平成二十五年のトップニュース」
 
11月 2013/11/2
「親になるということ」
2013/11/9
「煩悩」
2013/11/16
「杓底の一残水、流れを汲む千億人」
2013/11/23
「和顔愛語」
2013/11/30
「後ろ姿から伝わる」
10月 2013/10/5
「愛語」
2013/10/12
「ありがとう」
2013/10/19
「金メダルより大切なこと」
2013/10/26
「漬物祭り」
 
9月 2013/9/7
「大切な命」
2013/9/14
「無常」
2013/9/21
「悔いのない人生」
2013/9/28
「無常の風」
 
8月 2013/8/3
「日々是好日」
2013/8/10
「あの頃は良かった…」
2013/8/17
「掌 たなごころ」
2013/8/24
「日々是好日」
2013/8/31
「ご先祖さま」
7月 2013/7/6
「供養」
2013/7/13
「想いを伝えましょう」
2013/7/20
「自然と共に」
2013/7/27
「心を調える」
 
6月 2013/6/1
「聖者とは?」
2013/6/8
「心のトレーニング」
2013/6/15
「本質を見極める」
2013/6/22
「活きながらにして」
2013/6/29
「思いやりの心」
5月 2013/5/4
「自然の姿」
2013/5/11
「西遊記」
2013/5/18
「時」
2013/5/25
「主人公」
 
4月 2013/4/6
「花まつり」
2013/4/13
「食」
2013/4/20
「合掌」
2013/4/27
「羽衣の松」
 
3月 2013/3/2 2013/3/9 2013/3/16 2013/3/23 2013/3/30
2月 2013/2/2 2013/2/9 2013/2/16 2013/2/23  
1月 2013/1/5 2013/1/12 2013/1/19 2013/1/26  

2013年12月28日放送「平成二十五年のトップニュース」

今年もあと四日となりました。今日が土曜日ですので、昨日ご用納め・仕事納めをした官庁・会社職場も多くあったことでしょう。 皆さんは今年一年間を振り返った時、どのようなことが印象に残っていますか?今月になって流行語大賞・十大ニュースの発表がありましたので、この点から振り返るのもひとつかと思います。

新聞の読者欄に、八十代の男性が「生きる力をくれた あまちゃん」と投書しました。『昨年末に五十七年連れ添った妻を亡くしました。涙を流す日々が続いていた時に、朝ドラ「あまちゃん」が始まりました。明るい海女たちの物語に励まされ、生きる力が蘇ってくる気がしました。妻の遺影を脇に置き、はらはらドキドキ、大笑い。主人公が「じぇじぇじぇ」というたびににこっとしていました。半年間楽しませてもらい、私も残りの人生、楽しく生きたいと思います。』おおよそこんな内容でした。ドラマの舞台となった岩手県には観光客が大勢訪れ、本やCDも大ヒットし、日本中にブームが広がったと言われています。

これが今年の十大ニュースのひとつでしょうか?いや、毎年隠れたトップニュースがあるのではないか。それを教えてくれたのが、男性の投書でした。私達は多くの方に支えられ、励まされ、また様々な影響を受けた中で今年も過ごしてきました。感謝を致しましょう。そして新しい年も正しく生きていくという誓いを立てましょう。年末のこの時に、「感謝と誓い」が出来ることを、私は「トップニュース」としたい。来年も出来ればそうしたいと願っています。  今年も「曹洞宗の時間」をお聞きいただきましたことに御礼を申し上げます。来年も土曜日のこの時間、ぜひお聞き下さい。


赤平市 全龍寺
吉田 建法さん


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2013年12月21日放送「太陽のように」

暦の上では明日は冬至、一年のうちで太陽が昇るのが最も短い日です。 日本の冬至では、カボチャを食べたりゆず湯に浸かったりして風邪などの悪い病気にかからないよう願うのが全国的な風習になっていますが、世界の冬至を調べてみますと、冬至の日を、太陽の力が最も弱まる重大な日とし、その日を無事に乗り越えた、ということで冬至から次の日にかけて夜通しでお祝いしたり、派手なお祭りを開いたりする地域が多くあるようです。太陽の有り難さをよく知っていた先人達が、感謝の気持ちを表した風習であると言えます。

 

電気の普及により、日が沈み真夜中になっても日中と同じ生活が出来るようになった現代でも、太陽がなければ作物は育たず、生きていくことができません。便利な世の中になっても、生きる上で必要不可欠な、自然がもたらしてくれるたくさんの恵みがあることを忘れてはなりません。

 

この太陽の恵みのような自然の摂理の中に人間が善い心持ちで生きていけるヒントがあります。それは、『ただただ善いことをする』ということです。太陽は、毎年同じ時期、ほぼ同じ時間に、必ず東の空から昇り、日の光を照らし、作物を育ててくれます。誰かに毎日東から昇って、と言われているわけでもなく、お礼をして欲しいからやっているわけでもなく、ただ無言で昇り続けます。自然の中に生かされている私達もまた、たとえ誰からも褒められなかったとしても、ただただ毎日黙って善い行いを実践していくのが、真の理に適った生き方なのではないでしょうか。当たり前のようにさえ思える存在の太陽ですけれども、実はとても身近で大事な、大事な存在であるように、多くの人がお互いにそう思い、思われるような人の世の中であって欲しいと切に願います。


南富良野町 金泉寺
児島 龍憲さん


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2013年12月14日放送「心の持ち方 How to have your mind」

みなさんは鉛筆の持ち方をいつ覚えたのでしょうか?いつのまにか、手習いをしているあいだに身についたことでしょう。しかし、三本の指で鉛筆を持つことはとても難しいことのように思えます。今では親指と他の指で挟むような持ち方が普通になっています。親指一本が我を通しているようなその持ち方は、自分にこだわる自己表現なのでしょうか。自分を主張しなければ生きる価値がなくなるという偽りの恐れから身を守るために無意識に抵抗の親指を立てているのでしょうか。

子どもたちはあまりにも早くから鉛筆やお箸を持たされます。すべては形から始まりますが、よい持ち方を身につける年齢になる前に、よい点数をとることや、口に食べ物を運ぶことに心を奪われているようです。もしその必要がないならば、彼らは鉛筆をもたずに指先でものを書き、手づかみでものを食べることでしょう。この先彼らが、満点や満腹という結果に心を囚われ、型の習得や日の当たらぬ訓練という原因に意識が及ばぬ人になるのは偶然ではないのです。

「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と申しますが、夕べに死すことにこだわっていては、朝の道もそぞろに聞いてしまうことでしょう。本日お話した鉛筆を持つ3本の指のこころとは、心を保つかたちです。一本では「指すこと」「なぞること」しかできない。二本では「摘むこと」「挟むこと」しかできない。三本でようやく「持つこと」「保つこと」ができるようになるのです。


南富良野町 全昌寺
大神 裕全さん


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2013年12月7日放送「縁について」

今日は縁について少しお話をさせていただきたいと思います。

縁というものは不思議なもので、一つには思いもよらない所で繋がっていたりするものです。
新しく知り合った方と共通の友人がいたり、もしくは知り合いの身内だった、というような経験はございませんでしょうか?

また逆にいつの間にか気づかぬうちに途絶えてしまうのも縁であります。
これも諸行無常の中の一つと言えるかもしれません。

沸かしたお湯をそのまま放おっておけば冷めていってしまうように、結ばれた縁も何もしなければ時とともに遠くなっていってしまうのでしょう。
せっかく結ばれた縁を途切れさせないためには、何がしかの努力が必要ではないでしょうか。

ですが特別に難しいことをする必要はないと私は思っています。
例えば年賀状や暑中見舞いのような季節毎のお手紙でもいいでしょう。
また今の時代多くの方がパソコンや携帯電話をお持ちと思いますので、電話をしたりメールを送ったりとちょっとした連絡がすぐにつくのではないでしょうか。
縁をつなぐ努力はそういったちょっとしたことでも十分だと思うのです。

少し話は変わりますが、縁という言葉が使われていることわざや四字熟語などを思い浮かべてみてください。
「袖振り合うも他生の縁」「合縁奇縁」など一つ二つはすぐに思いつくことと思います。
そうした言葉が昔から使われて幾つも残っているというのは日本人が縁というものを大事にしてきたからではないでしょうか?

このお話を聞いていただいているのもきっと何かのご縁と思って、今までに結ばれた縁を大事にして、少しでも長く続くよう心掛けていただけたら幸いと存じます。


愛別町 柏林寺
森川 昭雄さん


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2013年11月30日放送「後ろ姿から伝わる」

私の住む道北・士別市は、真冬の冷え込むときにはマイナス三十度になります。そんな中、今年の年始参りのお勤めに檀信徒の方のお宅にお邪魔しましたら、小学生のお嬢ちゃんがとっても温かい座蒲団を出してくれました。御經の吐く息の真っ白な中、ストーブの前でずっと温められてきた座蒲団から私の全身に伝わる温かさは、何とも言えないものでした。

実はこのご家庭、お盆のお参りに伺うといつもお婆ちゃんが、御經を擧げる私の後ろからうちわで扇いでくれていたのです。その風が何とも柔らかく爽やかで心地が良いこと…でも真夏の暑いときですから扇いでくれているお婆ちゃんは汗だくです。「うちの御先祖様を護ってくれる方丈様ですから、このぐらいのことはさせて戴きますよ〜」と言って、盆参りはうちわ、年始参りには温か座蒲団で、お坊さんである私をとても大切にしてくれました。

昨年の夏、そんなお婆ちゃんがたまたま居られないところにお盆のお参りに伺いましたら、お嫁さんがうちわで扇いでくれたのです。そして今年の年始参りには、孫に当たるお嬢ちゃんが温められた座蒲団を出してくれたのでした。お婆ちゃんが居なくても以前と何ら変わらず、お花もお供物も線香立ても、いつもお佛壇はきれいに整えられ、お参りしている私の後ろでは、ご家族がちゃんと手を合わせて座ってらっしゃる姿には感動致しました。お婆ちゃんの姿を通じて、行いだけでなく信仰心や志まで、しっかりと受け継がれて実行されていることを私はとても嬉しく思いました。

命が軽んじられ信仰心が薄らいできている今の世の中、ご家庭で後ろ姿から代々伝わることの大切さを感じさせられました。


士別市 弘濟寺
藤村 克宗さん


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2013年11月23日放送「和顔愛語」

「爽やかなあいさつうれしく」という見出しで、札幌の男性の投稿記事が北海道新聞に掲載されておりました。それはバスの運転手さんが、降りるお客さん一人一人の顔を見ながら、優しい声で「いってらっしゃい」と爽やかにあいさつしたそうです。運転手さんは見るからに優しそうな方で、朝から応援されているような気分になり、すごくうれしくなったと記載されておりました。

「心から出た言葉は心に達す」とよく言われますが、この記事はまさしくこの事を言っているのではないでしょうか。

今の世の中は、物が満ち溢れていますからよけいそう思えるかもしれません。最近、心のまずしさ、言葉の乱れなどが大変強く感じられてなりません。このような時代、一番必要で、しかも誰にでも実行できる行い、それは「和顔(わげん)愛語」ではないでしょうか。

お釈迦様は、財産のない人でも出来るという「無財七施(むざいしちせ)」を説いておられます。その中の一つに「和顔施(わげんせ)」と言って、やわらかな笑顔を絶やすことなく人に接する事が大切であると説いております。

又、私たち曹洞宗の「修証義(しゅしょうぎ)」というお経の中にも「愛語」について、優しい心をはたらかせ、顧みるような愛をさしあげ、慈しみの心で、赤ちゃんを見るような気持ちで接する時に使う言葉が「愛語」と説いております。

「和顔愛語」この心をもって言葉を交わし合えるようになりますと、どんなにか社会が住みやすくなり、明るくなるに違いありません。


松前町 龍雲院
保坂 一広さん


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2013年11月16日放送「杓底の一残水 流れを汲む千億人」

私の住んでいる八雲町には、昔から水のきれいなことで有名なユーラップ川という川があります。長さ30kmほどの本流にはダムなどの川をせき止めるものがなく、自然のままの流れが残されており、毎年秋には10万匹のサケが産卵の為に帰ってくる姿を見ることができる数少ない川の一つでございます。

小学生の頃、帰ってくるサケを見によく川へ遊びに行ったものです。産卵を終えたサケは力尽き、我が子の誕生を見ることもなく一生を終える。しかし春先には、小さなサケの子ども達が川に泳ぎ出します。親がいなくても育つのです。では誰が育てているのだろうか?それはきれいな川と自然が育てているのです。

曹洞宗大本山永平寺の入り口の石柱には「杓底の一残水 流れを汲む千億人」という言葉が刻まれています。道元禅師様はいつも柄杓で汲み取った水を半分だけ谷川に戻されていました。何もそんなことはしなくても、谷川の水は豊富で枯れる心配はありません。しかしどんなに水があっても一滴の水をも粗末にしないという禅の教えです。さらに柄杓の水を残して川に返せば、その水を下流の人々も受け止めることができ、千億もの命につながっていくという教えでもございます。 禅師様は同じ川の水を飲んで共に生きるだけでなく、同じ喜びや悲しみを分かち合えるようにとも諭されております。

今年もサケがユーラップに帰ってきます。そのためにも私たちが普段の生活の中で水を大切にし、自然を守り後世につなげていくことがユーラップで生きる全ての命につながっていくのではないでしょうか。


八雲町 遊国寺
河西 大眞さん


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2013年11月9日放送「煩悩」

皆様は「煩悩」はお持ちでしょうか?煩悩とは三つの毒、三毒と申しまして「貪(とん)」「瞋(じん)」「癡(ち)」すなわち、むさぼりの心、怒りの心、無知の心からなるものです。人間誰しも持っているものですから一切、煩悩は持っていないという方はいらっしゃらないかと思います。

我々僧侶は頭を剃ります。剃るに髪と書いて「剃髪」と申します。剃髪の時には

剃除鬚髪(ていじょしゅほつ)、当願衆生(とうがんしゅじょう)、永離煩悩(ようりぼんのう)、 究竟寂滅(くぎょうじゃくめつ)

髪を剃り落とし、願わくは衆生とともに、永く煩悩を離れ、ついには寂滅すべしと、お唱えします。 髪には煩悩があると言われていて、剃っても剃っても生えてくる髪は湧き上がってくる煩悩に似ているのではないでしょうか?

ある時、鏡の前で髪型を直している方がいらっしゃいました。それほど乱れているようには見えませんでしたが、長いこと髪を整えていました。身だしなみの一つでもありますし私も僧侶になる前は同じようなことをしていたと思います。しかし剃髪している今、それは必要なくなり、必要以上に髪を気にするというむさぼりの心から離れていると思いました。このようにとらわれることが髪には煩悩があると言われる所以なのではないかと実感したところでした。

私たちは誘惑の多い世の中に生きておりますので煩悩から離れるというのは簡単なことではございませんが、煩悩の炎を鎮め振り回されないよう静かな心で日々を一生懸命生きていくことが大切なのではないでしょうか。


函館市 大貫寺
長澤 尚光さん


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2013年11月2日放送「親になるということ」

先日、私の子供が一歳を迎えました。一年前、この世に生命を受けた時を思いますと、まさにおさるさんみたいに泣きわめく、小さな赤ちゃんでした。この小さな生命も親族はもとより、檀家の皆さまの心あたたまる慈愛の心のお陰で、成長していることは、誠にありがたいことと感謝しています。

子供の誕生日というと、どこの家庭でも、またどの親御さんもその誕生日をお祝いすると思います。このように言われた方がいます。

「子供が生まれた時は、子供はもちろん、両親も0歳だ。子供が十歳になれば両親もおのずから十歳となる。ですから、子供の誕生日は両親の誕生日となる。」なるほどそのとおり、非常に大切なことだと、子を持つ親としてつくづく考えさせられます。

世の中では、父の日、母の日には子供や孫が両親やおじいちゃん、おばあちゃんに贈り物をしたり、祝福します。 その子供や孫たちは、現在の色々と複雑な社会の中で、一歩ずつ立派に、また確実に成長しています。現代社会において、子供に関するさまざまな事件、問題等に対して、「社会が悪い」「やれ学校が…」と聞きます。一理はあるでしょうが、むしろ多くは家庭にあるのではないでしょうか?お釈迦様の教えにしたがって、正しく生きる道を教示するのは家庭だと思うのです。私は今、子供を育てる生活を通して、正しく教え、そしてまた子供に教えられ、親として子供とともに学び、大きく成長してほしい、成長していきたいと思います。


七飯町 法雲寺
本間 俊季さん


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2013年10月26日放送「漬物祭り」

本日はうちのお寺で開催している檀信徒皆さんが参加できて、楽しんでいただけるイベント『漬物祭り』についてお話致します。

その漬物祭りに出品される方の話です。

ある女性は「漬物材料の値段が高い・安いではなく、その年に合う材料を求めるのよ。その年の野菜の大きさ、気温、天候を身体で感じ取って味付けしてあげないとね!」と、話してくれました。

次になぜ漬物作りにそれほどの熱意を注いでいるのか尋ねました。 すると「人は美味しいものを食べられていると、生きていて良かったぁって幸せな気分になるでしょ?軽に野菜の栄養を摂ることができて、尚かつ身体に良いなら最高じゃない!」と話してくれました。食べる相手のことを考えるのは勿論、相手の身体と心を健康に調える努力が漬物作りの熱意に変わっているとは気付きませんでした。

美味しい漬物を作るためには、身体が健康で丈夫でなくてはいけません。また、自然の風土を感じるためには心が健康で充実していないといけません。即ち身体と心が調っていなければ美味しい漬物が出来ないのです。漬物を美味しくするための調味料は厳選された材料ではなく、自分次第だということです。そこで、どのように心と身体を調えるかを考えましょう。

私達僧侶が坐禅をする時に気をつけていることがあります。それは姿勢を調え、呼吸を調えることです。そうすることにより、真っ直ぐ自分と向き合い、ありのままを受け入れることができます。ですから皆さんも忙しい毎日をお過ごしでしょうが、姿勢・呼吸を調える時間を心掛けて下さい。自分の心に正直に生きる教えを調味料として人生を味付け致しましょう。


北斗市 光明寺
冨田 大輔さん


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2013年10月19日放送「金メダルより大切なこと」

先月2020年・夏のオリンピック・パラリンピックの開催地が東京に決まりました。

私自身楽しみで、嬉しいニュースですが、一つ気になることがあります。
それは毎回のごとくマスコミが、大会直前になると金メダルの話題に集中することです。
有力選手には毎日のように取材があり、「絶対金メダルとります」の言葉を言わされている気さえします。実際に金メダルを取った人は英雄となり、取れなかった人は急に手のひらを返すような報道さえ見受けられます。

確かに世界一になることは素晴らしいことですし、金メダルは出場選手の誰もが目指すものです。しかしその結果以上に大切なことがあります。
それは4年に1度の大会に目標を立て、ひたすら毎日、懸命に練習を積み重ねてきたことです。華やかな舞台の裏にある地道でひたむきな努力の姿こそ、素晴らしく尊いのです。

私達が信仰する仏教は仏になることを目標とした悟りの宗教です。その為に様々な教えがあり、修行法も様々です。中でも永平寺を開かれた道元禅師様は、ひたすら坐禅をする「只管打坐(しかんたざ)」を進めております。
しかしそれも同じように、仏になることよりも「坐禅」を続けること自体が重要で、坐禅そのままが悟りの姿であって、悟りと修行は別のものではないことを示しております。

「人生一生修行」の気持ちで、毎日少しずつでも坐禅を続けて心を安らかにし、大きな慈しみの心で、世の中の困っている人々を助けて、みんなの幸せを願い、共に悲しみ、共に喜ぶ、支えあい助け合いの社会にしていきましょう。


函館市 永全寺
齊藤 隆明さん


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2013年10月12日放送「ありがとう」

私事ですが、今年私の祖母が亡くなりました。とても優しいおばあちゃんでした。体調を崩してから亡くなるまで、しきりに「ありがとう。ありがとう」と言っていたそうです。看護師さんにも「あんなに最後に感謝でいっぱいな人は滅多にいません。」と言われたそうです。本当にすごいなと思いました。

私たちは、生まれてから死ぬまで常に何らかの助けを借りて生きています。体があるのは動植物の命を頂いているからこそです。呼吸ができるのは空気を作ってくれるものがあるからです。ご先祖様や友人、様々な人達がいなかったら人は生きられません。みんなが「お互い様」「お陰様」で「生かし、生かされている」のです。

お釈迦様の言葉に
「あたかも、母が子を命をかけて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころをおこすべし。
また全世界に対しても無量の慈しみをおこすべし。
上に、下にまた横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみをおこすべし。」とあります。

祖母は去年から函館に住んでいたのでなかなか会えなかったのですが、体調を崩したと聞き、亡くなる二週間程前になんとか会いに行けました。別れ際の「元気でね…。仲良くね…。」という言葉が鮮明に残っています。

供養のためにも元気で仲良く、そしてお婆ちゃんの様に、最後に感謝と慈しみの心で

「ありがとう」

と言えるように生きていきたいと思います。


帯広市 瑞祥院
織田 尚徳さん


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2013年10月5日放送「愛語」

こんなお話を伺いました、ある方がお仏壇の前で手を合わせていると、小学生の娘さんがこう話しかけてきたそうです。

「お父さんお仏壇の中にあるのは何?」

「これはお位牌だよ。」

「お位牌って何?」

「お父さんのお爺ちゃんやお婆ちゃん、ご先祖さんだよ。」

「お父さんのご先祖は何人いるの?」

こう聞かれて初めて、一体自分の先祖は何人いるのだろうと思ったそうです。自分から見てお父さんお母さんがいる。そのお父さんお母さんにもお父さんお母さん、つまりお爺ちゃんお婆ちゃんがいる。そうやってざっと計算しただけでも数百年の間で60億人以上になります。この数字は、今の世界の人口と同じくらいになるのです。

過去、戦争や災害等、どんな困難な出来事があっても脈々と命が絶えること無く続き、そして今の自分が存在しているという奇跡に驚きます。

よく友達と喧嘩して心を痛めるような言葉を耳にしたりする事がありますが、その言葉のどんなに罪深く恐いことでしょう。

道元禅師様は「愛語」をお示しです。あなたが話す言葉に慈しみの心が込められた時、そこにはつまり、数十億もの命の重さが込められているのです。

今日もまた新しい一日が始まります。愛ある言葉を話されるよう心掛けていきましょう。


鹿追町 向岳寺
小原 輝昭さん


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2013年9月28日放送「無常の風」

こんな詩がございます。
「若いとて 末を はるかに 思うなよ 無常の風は 時を 嫌わず」と。

私事で恐縮ですが、当年とって四十五歳になります。いわゆる、日本人の平均寿命に照らし合わせてみると、半分以上を生かされてきた事になります。おかげさまにて健康で今日に至りますが、そんな私も、四十歳を迎える頃より、健康体であるにも関らず、時折、今までには無かった体調の変化を覚えることがあります。

お檀家様のお宅に目を向けますと、時には、同世代のお方、或いは、それ以下のお方のご葬儀を、お勤めすることもあります。若くても病を得ることもあれば、事故に遭うこともあります。若くても無常の風に吹かれるお互いであります。たとえ百年のいのちを頂いたとしても、日数にすると、たった三万余日しか無いのです。限られた中の今日という日は、誠に有難い一日であり、大変尊い我が身なのです。

俺はまだまだ若いから、私はまだまだこんなに元気だから。いえいえ、決して安穏に明日を迎える保証はありません。
「目が覚めて みれば うれしや 今日も また 此の 世の中に 在るを 思えば」
感謝に生きる、今日の一日でありたいものです。


帯広市 良興寺
半澤 良継さん


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2013年9月21日放送「悔いのない人生」

「人間」という漢字は、人と間からできています。人の字は互いにもたれかかり、左右から支えあって、人間の間の字はあいだです。人間はお互いを支えあいながら、そのあいだで生きているのです。今生かされている御恩やお陰様に報いる為、仕事を通して善い行いを一生懸命に実践すべきなのです。

お釈迦様の教えは色々とありますが、簡単に言いますと、「もろもろの悪いことをせず、全ての善い事を行い、自らの心を清めよ、これが諸仏の教えである」という教えです。皆さんは「そんなことを言われなくても、子どもだって知っているよ」と思われるでしょうが、しかしながら実際には、八十歳にもなろうとしているお年寄りでさえ、頭では理解はできていても実行することはなかなかできないものです。

仏教の教え、禅の教え、曹洞宗の教えは、頭で理解するのではなく、体で実践し行いすることをといています。善悪の判断を自分自身で行い、善い行いに対して、自分のやっている仕事に対して、全身全霊を注いでいきたいと思っています。瑩山禅師は、「喫茶喫飯」といって、「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」といっています。お茶をいただく時は、お茶のことだけを考えありがたくいただく。食事をいただく時は、食事のことだけを考え感謝していただく、という意味で、なにか物事をする時はその事だけを考え一生懸命にするという事です。

今一度、自分自身の歩む道をしっかりと見定めて、悔いのない人生を歩んでいきたいと思っています。


利尻富士町 大法寺
廣澤 一徳さん


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2013年9月14日放送「無常」

夏の暑さもようやく静まり、少し朝晩に涼しさを感じられる季節となりました。本当に今年の夏は暑かった気がいたします。しかし、それももう終わり、町のあちらこちらに秋の気配を感じます。これからはひと雨ごとに寒くなり、やがて雪の季節がやってくるでしょう。これからは人と顔をあわせるごとに、「寒いですね」「冷え込んできましたね」という挨拶を交わすことが多くなるでしょう。しかしそんな挨拶を何度も交わすうちに、やがて花がさく春へと季節は変わっていきます。そしてまた夏、秋へと。日本は、とくにこの北の地、北海道は季節の変化がはっきりしていて私はとても好きです。

無常という言葉があります。常では無い。と書きます。この世には何一つ常であるものは無い、つまり変わらないものは無いということです。それは春・夏・秋・冬と季節が流れてゆくように、小さな子どもが大きくなっていくように、そしてこの世に命をえて産まれてきたすべてのものが、歳を取って最後を迎えていくように。この世にある全てのものは時間とともに変化をしていきます。季節の移り変わりの中で、無常の世の中で私もそして皆さんも生きています。

昨日を皆さんはどのように過ごされましたか。そして今日一日をどのように過ごされるのでしょう。「今日も昨日と同じだよ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし今日という日は2度ときませんし、もちろん昨日は決して戻ってきません。私たちに同じ時間はないのです。ただ時間が流れ、私たちは移り変わってゆくだけです。それが無常ということ、そんな世の中で私たちは生きています。だから今の、この一瞬、一瞬を大切にしなければいけません。

今日の一瞬の大切さをどうぞ感じて今日一日をお送りください。


北見市 白麟寺
副島 豊道さん


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2013年9月7日放送「大切な命」

私の住んでいる道東では、近年エゾ鹿が増え続け、森の木々や植物、農作物等に被害をあたえています。エゾ鹿が増加したのには、いくつかの要因がありますが、その一つにエゾ鹿の天敵エゾオオカミの絶滅が挙げられます。開拓使が皮などの売買のためにエゾ鹿を乱獲し、その結果エゾ鹿を餌にしていたエゾオオカミは餌不足になり、放牧された馬等を襲い始めました。懸賞金をかけてまでエゾオオカミを駆除したことで、エゾオオカミは減少し、いくつかの要因も重なり絶滅してしまいました。そして今では天敵のいなくなったエゾ鹿が個数を増やし続けているのです。

人間の都合で自然界の生態系を壊してしまったことにより、人間が苦しい思いをしているのです。自分達には必要のないもの、邪魔なものはなくしてしまえばいい等という自分勝手な考えのために取り返しのつかない結果を招いてしまいました。ハエや蚊等の虫に悩まされる方も多いと思います。ですが、その様な虫がいなくなると私たちの生活はどうなってしまうのでしょう。例えば、このような虫を餌にしているカエル等の生き物は食べるものを失い、絶滅の危機となるでしょう。そして当然、カエル等を餌にしている生き物もまた、死んでしまい同じようなことになるのです。この地球上にはなくなってもいい命はひとつもありません。どんな命にもその命の持つ大切な役割があるのです。一つ一つの命が大切な命なのです。

私たち人間は素晴らしい力、知識や智慧を持っています。使い方を誤ると取り返しのつかない事をしてしまう力でもあります。知識と智慧を正しく使い、正しく見究め、正しい判断、正しい行いをすることでより良い環境にしていきたいですね。


斜里町 泰平寺
菅生 匡倫さん


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2013年8月31日放送「ご先祖さま」

八月も今日で終わり、明日からは九月です。うちのお寺でも秋のお彼岸に向けての準備をしております。以前に法事でお伺いしたお宅で、「うちは分家だから、ご先祖様はみんな本家でみてくれているから楽だよ」とお話している声が聞こえてきました。ご先祖様はみな本家にいるのだから、自分の所の仏様だけをご供養して守っていけばいいという認識なのでしょう。ご先祖様がいなければ今の自分はこの世に存在しないという意識が薄れてしまっているのは悲しいことです。

私たちが法事でお経をお唱えするときに、最後に回向をお唱えいたします。回向とは今お唱えしたお経の功徳を他に回らし向けるということです。その回向の中で戒名を読んだあとに必ず何々家先祖代々とお唱えして、年回を迎えた方だけではなく、その家のご先祖様に対してもお経の功徳を回らし向けるのであります。ですから、分家であったとしてもご先祖様がいない家というのはあり得ないのです。今あるのはご先祖様のお蔭です。感謝の気持ちを忘れずに日ごろから大切にご供養していただき、次の代へ受け継いでいく事が今日まで家系を存続させてこられたご先祖様への報恩の行いにもつながっていくのです。

自分よりも他の人の為に行う行為のことを利他行と申します。利他行を通じて積まれた徳というのはいずれ巡り巡ってご自分のもとへ返ってまいります。お盆にお墓詣りに行けなかった方もお時間を作っていただき、ご先祖様をお参りに行かれてはいかがでしょうか。


遠軽町 陽済寺
佐藤 寿光さん


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2013年8月24日放送「日々是好日」

みなさん、いかがお過ごしでしょうか?毎日のくらしの中でたのしいこと、うれしいこと、つらいこと、なやみなどたくさんのおもいや出来事で生きていることでしょう。禅の言葉で日々是好日(にちにちこれこうにち)という言葉があります。日々のたくさんの物事にはかならずすばらしい意味がある、そう私はこの禅の言葉から感じています。つらいことやくるしいことの中にも大切な、すばらしい意味がかならずひめられていて、その意味をみつけたときに毎日の物事はいつでも良いことになり、毎日がすばらしいとおもえてくることができるのではないでしょうか。日々のくらしがすばらしい、と。

そして、ありがとうと素直に人や物事におもい、伝えることができるのではないでしょうか。ありがとうは今有り難し(いまありがたし)です。いつのときもみ仏に、ご先祖様にありがとうと手と手を合わせて生きていけたら、そうただただねがいいのるばかりです。

めぐる季節の中で日々のくらしにふと、ああ良き日だなあとおもえる時間をすごし、そしてありがとうとしずかに手と手を合わせ、日々是好日と感じることができますよう、御祈願いたします。どうぞお体に気をつけて。


釧路市 潮音寺
田村 龍識さん


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2013年8月17日放送「掌 たなごころ」

ご先祖様をお迎えし、生かされているいのちといただいたご縁に感謝の心をあらわすお盆の行事も終わりました。お墓や精霊棚、仏壇に向かって手を合わせてお参りされた方も多いことと思います。

手のひらと手のひらを合わせるのが合掌です。「合掌」の「掌」という文字は、「手のひら」を一文字で表した漢字で、別に「たなごころ」とも読まれます。「たなごころ」とは「手の心」という意味です。すなわち、「手の心」と「手の心」を合わせた姿が合掌、ということになります。「手の心」を合わせた中には、「まごころ」があると思います。お盆に限らずお寺では、様々な場面で合掌の姿を拝見します。表情は優しく、穏やかで、まごころが現れている合掌のそのお姿は、まさにほとけさまのようです。

なにかと忙しい日常においても、ほとけさまのように穏やかで優しい気持ちでいたいものです。どうぞ、朝夕に仏壇に向かい、合掌しましょう。それだけで心が落ち着くことでしょう。家に仏壇がないかたも、毎度の食事の前後に「いただきます」「ごちそうさまでした」と手を合わせましょう。私たちのからだを支えるのに必要な食事は、動物や植物の尊いいのちをいただいています。さらに、食卓に並ぶまでには多くの人の努力と愛情がかけられているのです。そうした、いのちとご縁に感謝するまごころを合掌の姿に表わしたとき、皆さんの心におられるほとけさまが現れていることでしょう。いつでも手を合わせたとき、目の前にほとけさまが現れる、そんな日常を心がけたいものです。


浜中町 祥雲寺
加藤 謹也さん


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2013年8月10日放送「あの頃は良かった…」

「ああ、あの頃は良かった...」皆さんにもつい口にした事、思った事が一度ならず二度三度とあるのではないでしょうか?このつぶやきを耳にした時、私には思い出す言葉があります。

『大学生の時には小学生・中学生・高校生の頃を良かったと思い、社会人になると大学生の頃を良かったと思う。30代・40代になると20代の頃は良かったと思い、定年を迎えると働いていた頃は良かったと思う。その時その時には気が付いていないだけで、ずっと「良かった」と思える人生を過ごしてきているんだ。そうやって生きていけば亡くなる間際には「私の人生、全て良かった」と思えるはずだ』という言葉です。

「あの頃は良かった」と思えるのは、思い出した「あの頃」に良い記憶…言い換えれば「想い出」があるからでしょう。想い出を持つ、想い出を大切にするというのは犬や猫など他の動物には真似が出来ません。それが出来るのは私たち人間だけです。もしかすると「人生」というのは、想い出を作り続けることなのかもしれません。もちろん、想い出は無理に作ろうとして出来るものではありません。「あの時、気の合う友達同士、他愛もない事で笑い合った」、「あの頃は苦しかったけど無我夢中でがんばった」、このように一日一日をあるがままに受け入れ、そして大切にしていく・・・そんな生き方が自然と「想い出」になっていくのです。5年後、10年後、あるいはもっと先に「ああ、あの頃は良かった!!」と胸を張って言えるよう、今日一日を大切にして生きていきましょう。


厚岸町 吉祥寺
斎藤 章道さん


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2013年8月3日放送「日々是好日」

私達日本人の生活には占いが深く根付いています。朝テレビを点けると星座占いをどの局も放送していますし血液型占いや風水など色々な占いによって恋愛から会社経営まで人生全てが占いに依存し一喜一憂しているのが日本人の特徴ではないでしょうか。カレンダーにも大安、友引、仏滅、先勝、先負、赤口の六曜と呼ばれる占いが記されています。実はこの六曜は古代中国の古い占いで鎌倉時代に日本に伝わり江戸時代に定着したものであります。現在、中国でも根拠の無いものとして使用されていませんし1872年日本政府もこの六曜を迷信として使用する事を禁止しています。江戸時代、友引は午前午後共に引き分けるという意味での共引でしたし仏滅は仏ではなく物が滅っすると書いて物滅でありました。私達は占いや迷信によって日々の吉凶を決めそして人生まで決められていたのではないでしょうか。

日々是好日(にちにちこれこうにち)という禅語があります。この言葉は中国唐の時代に活躍された雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師の言葉です。ただ単に今日が良い日であったという簡単な意味では無く自分の努力によって一瞬一瞬を輝かせ一日一日を大事に過ごす事でたとえ悪い日であっても好き日に変えて行こうという教えであります。

私達も迷信や占いに踊らされることなく自分達の精進努力によって日々の生活を輝かせ一日一日を好き日に変えて行こうではありませんか。


稚内市 禅徳寺
竹田 教峰さん


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2013年7月27日放送「心を調える」

昨今では忙しさに追われて生活されている人がたくさんいるように思われます。現代の社会自体のスピード化に拍車がかかっています。私自身もそうですがそのような状況ではなかなか心落ち着く暇がありません。

先日、一周忌のご法事に伺った時のことです。娘さんがふと遺影を見つめながら「今日のお母さんの顔が穏やかで笑っているように見える、お葬式の時には小さい頃怒られた時のような顔に見えたんだけどね」とつぶやかれました。私はそれを聞いて「遺影のお顔がよく見えるのは今日のあなたの心が穏やかで落ち着いてご供養できているからではないでしょうか」と申し上げると「そうかもしれませんね」と笑って納得されていました。

写真でさえも心持ちひとつで見え方が違います。そればかりではなく心の動きが安定していないとなかなか正しく行動することが出来なくなります。最近ではオリンピックに出るようなスポーツ選手もメンタルトレーニングを重要視しています。どんな状況に陥っても普段通りの力を発揮するためです。座禅の仕方のひとつに調息(ちょうそく)といって呼吸を調えることを教えています。朝のちょっとした時間で結構ですので静かに呼吸を落ち着かせて心を調える事をおすすめします。そうすれば一日の生活のスタートがゆったりと切れ、仕事にせよ家事にせよ余裕を持って行動できると思います。

まもなくお盆の時期がやってきます。穏やかな心持ちでご先祖様をお迎えしたいものです。


浜頓別町 天祐寺
橋本 英晃さん


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2013年7月20日放送「自然と共に」

七月も後半となりそろそろ故郷に帰省計画の方もあると思います。私の住む町、増毛町は山と海の自然に恵まれた豊かな町です。人間は、豊かな環境の恩恵に育まれて今日に至りました。山の恵みに手を合わせ、海の恵みに手を合わせて偉大なる自然の力の存在を信じ、私たちは目に見えないものに今日も支えられています。

近年、情報化社会となり人間は頭で理解できないものには価値をおかない傾向にあります。しかし実は頭で理解できないものが私たち一人一人の人生を支えている。そのことを時折、意識して見直す必要があります。『歩歩是道場(ほほこれどうじょう)』という禅の言葉があります。生活の全てが修行である。毎日の生活の中に教えがあるという意味のことばです。

大自然のなかで自然の流れを見つけ、学び、自分のものにしていく。物事の移り変わりを納得していく。人間は自然の中から生まれてきました。個々別々の姿、形をしていても元を正すと大自然の一部です。山から流れ出した水がいくつかの川となるが、やがて海に帰って一つになるように。私を生み育ててくれた空気、水、大地に感謝し、想いをよせる時、そこに仏法があります。仏の教え、それは厳しかった父、優しかった母との思い出なのでしょう。

ふるさとの大地自然と一体となるとき、こころが開放されて楽になるでしょう。悩み多き心の病の時代です。故郷に帰って心を休ませてあげませんか。


増毛町 龍渕寺
野村 宣英さん


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2013年7月13日放送「想いを伝えましょう」

私は六年前の平成十九年に様々なご縁をいただきそれまで生まれ育った三重県伊賀市より奥尻に参りました。思い返せば本当にアッという間の六年間でしたが最初の頃は慣れない土地での生活・言葉・習慣に戸惑う事ばかりでした。今でこそ島の方たちとのお話で「おっさん、島に慣れたかい?」と聞かれると「奥尻来てすぐの頃は方言と早口で意味は分からへんかったけどみんなが笑ってるから笑わなあかんと思って笑ってたよ」と笑い話をします。よくよく思えば大変失礼な事でしたが。それでも、家族に、お檀家さんに、たくさんの方々に支えていただき今日に至っております。おかげさまで本当にありがたい事でございます。

さて、私たちは本当にありがたい事にたくさんの「いのち」に支えられ日々の生活を送っております。御先祖様より紡がれてきた「いのち」生きる糧としていただく「いのち」このたくさんの「いのち」にありがとうという想いを表す時私たちは手を合わせます。手を合わすという姿は儀礼的な作法の要素も含まれると思いますが対照となる方やものへの感謝の想いを伝える素晴らしい姿であると思います。誰かを何かを想い感謝する「想いという字は相手を心で支えてるんやよ。想いには言葉を添えて言葉には想いを添えて」と以前いたお寺の方丈様より教えていただきました。

お仏壇の前、お墓の前、お寺にお参りいただいた際、ご飯をいただく際、様々手を合わせていただく機会はたくさんあるかと思いますが感謝の想いがいっぱいいっぱい詰まった合掌を皆様にお勧めいたします。


奥尻町 乾清寺
木村 徹志さん


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2013年7月6日放送「供養」

先日、私が「M」さんのお宅にお参りに伺うと御仏壇にその日の朝刊、新聞が置いてありました。私はなぜ、新聞が置いてあるのか?不思議に思い、「M」さんにたずねてみました。すると「M」さんは、「ウチの人、朝起きたら必らず一番に新聞を読む人だったからね...。お茶飲みながらさ...。だから私、まず朝起きたらウチの人に新聞供えて、それから熱いお茶供えるんだ。」と、教えてくれました。「M」さんは、御主人を亡くされてからずっとそのように供養をされてきたそうです。私はその「M」さんの亡くなった御主人への思いを込めた、まるで御主人が生きているかのようなその供養の姿に、本当の供養のあり方について教えて頂きました。

今はもうその姿を見ることもできないし、何も言ってはくれないけれども、亡き人を忘れずにまるで生きているかのように、亡き人が喜ぶように自分のできることを精一杯にする。それが、本当の供養のあり方なんだと教えて頂きました。皆さんの大切なそして大好きな今はもう亡き人へ、思いを込めて、亡き人が喜ぶような生き方をする。今の自分を見て、亡き人が悲しむような生き方をしない。その皆さん一人一人の良い生き方、その良い行いを続けて幸せに生きる姿こそが本当に亡き人が喜んでくれる、最高の供養であり、最高の恩返しなのではないでしょうか?

私達一人一人が、亡き人を忘れずに思いを込めて自分ができることを精一杯にする。そして、亡き人が今の自分を見て悲しむような生き方ではなく、喜ぶような生き方をし続ける。それが、今を生きる私達と亡き人が共に支え合うことができる、心と心が通じ合う供養なのではないでしょうか?


江差町 観音寺
松村 直俊さん


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2013年6月29日放送「思いやりの心」

あと数日で7月、早いもので今年も折り返し地点に入ろうとしております。皆様はいかがお過ごしでございましょうか。

私達の日本は、治安の良い国として世界の中で5本の指にはいるそうでございますが、なにか足りないものがあるような気がいたします。確かに他国に比べれば治安の良い国かもしれません。しかしそんな日本でさえ毎日のように殺人、虐待などの暗いニュースばかりが耳に入ってまいります。そこに足りないもの。それは温かいこころではないでしょうか?私達はこのこころを忘れている気がいたします。

以前、家族で電車に乗る機会がありました。週末ということもあり、大変混雑しており満席でした。3歳の息子と手を繋ぎながら座れるところはないかと席を探しておりますと、ある男性が「僕、ここに座っていいよ」と息子に声を掛けてくださいました。その男性は大きなスーツケースを持っていて自分も座っていたいはずなのに席を譲ってくださったんです。これは思いやりが無ければ出来ることではございません。私達は男性から温かい思いやりのこころをいただきました。

この経験から、私自身もこういう機会があれば席を譲ってさしあげようと思いましたし、この男性の行いを見ていた方々の中にもきっと「今度は自分も」と思った人がいると思います。そのように私も私もと思いやりの連鎖が起こり、それが実践されれば私達が生きる世の中を良い方向に導いてくれる力となるのではないでしょうか?

是非、思いやりという温かい心で繋がっていきたいものですね。


島牧村 千走寺
村上 大玄さん


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2013年6月22日放送「活きながらにして」

「五十四年、第一天を照らす。箇の跳(ぼっちょう)を打して、大千を触破(しょくは)す。(いい)、渾身覓(もとむ)ることなく、活きながら黄泉に陥つ」

この言葉は、曹洞宗の開祖、道元禅師様の遺偈(ゆいげ)です。遺偈とは、禅僧が死ぬまぎわに、仏教の真理を詩や歌の形で述べたものです。道元禅師様は晩年、福井県の永平寺で厳しい修行の日々を過ごしました。五十三歳で病に冒され、良い医師のいる京都にのぼり、療養しますが、その甲斐もなく亡くなりました。意訳すると、「五十四年間の生涯にわたって仏の世界を照らしてきた。もう何も追い求めたり、執着するところはない。こうして生きてきたように、あの世に行く」となります。「活きながら黄泉に陥つ」の解釈は定まっていないようですが、私は、道元禅師様は「あの世に行っても悟りを求めます」「あの世から悟りを説きます」とおっしゃられているのだと思います。

子供の頃、お仏壇の前で「ご先祖様はちゃんと見ているんだから、悪いことをしてはいけませんよ」と言われた方も多いことでしょう。亡きご家族はあの世から私たちのことをずっと見守りつづけてくれているわけです。つまり、あの世の亡き家族とこの世の私たちは照らし合っているということです。お仏壇の灯明やお花を見ればそのことがよくわかります。灯明やお花は、お仏壇のお位牌や仏様を美しく明るく飾ります。その美しさ明るさには「亡きご家族や仏様が、私たちを見守っていますよ、照らしてくれていますよ」という意味が込められているのです。ですから、この世に生きている私たちはご先祖さまに顔向けできるような生活を送ってゆけるように、努力しなければ、なりませんね。


神恵内村 天龍寺
平井 一寛さん


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2013年6月15日放送「本質を見極める」

情報氾濫社会と言われて久しい現在ですが、昨今、それに拍車掛かって止めどない感慨が有ると思いませんか?

新聞、ラジオ、テレビと言った旧来の媒体に加え、携帯などのあらゆる端末からアクセス出来るインターネットにより更に増幅され、日々大量の情報が、物事の本質も置き去りになっております。単語を見聞しただけでは概念の把握すら困難なカタカナ新語、または旧来語でも本来の意味からかけ離れた用途で使われる物まで、イメージ先行で、言葉の定義も曖昧なまま、瞬時に我々の暮らす現実社会を行き交っております。

論語の一節に、「もし名、名前の秩序が正しくなければ、言葉の意味が混乱する。言葉の意味が混乱すれば、何事も出来なくなってしまう。何事も出来なければ、礼儀や音楽といった文化が盛んになる事も無い。文化が盛んでなければ、刑罰をもって公正に人を裁く事が出来なくなる。刑罰が公正でなければ、人々は安心して体を休める事も出来なくなってしまうだろう。だから人格者は、正しい名をもって正しく話すのだ。一度話をしたら必ず実行せねばならない。慎重に言葉を選び、軽々しい口を利いてはならんのだ。」とあります。

人、何とも耳の痛いお示しです。殊に我が国は言霊の国であります。本質を見極めると言う事は、なかなか出来る事ではないと思います。皆さんも慌ただしい日送りをされていると察しますが、時に歩みを止め、心落ち着けてみましょう。それが禅、と言う事でもあります。「禅」元来の意味は落ち着く、リラックスする事です。これに"座る"と言う手法が加われば、即ち坐禅です。

日常の中に禅"落ち着く"と言う事を胸に、情報に惑わされぬよう、「共に」精進して参りたいものです。


泊村 大雄寺
小林 永季さん


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2013年6月8日放送「心のトレーニング」

物事をプラス思考で考える事を楽観主義、反対に、物事をマイナス思考で考える事を悲観主義と言いますが、皆様方は日頃、どちらの考え方をされていらっしゃるでしょうか。

あるアメリカの大学での最近の研究によれば、何事にも悲観的な考え方をする人よりも、楽観的な考え方をする人の方が、免疫機能が高く、心臓疾患や脳卒中のリスクも低い事が分かりました。つまり、楽観的な考え方をする人の方が健康の維持により積極的で、食事や運動等にも気を遣うといった事から、より健康的で長生きができるという事です。

さて、生まれながらに楽観的な考え方をする人、悲観的な考え方をする人は当然いない訳で、私達は生きていく中で、様々な経験や体験等を通して、無意識のうちに、人それぞれ固有の見方や考え方の癖というものを身につけて参ります。一度身についた考え方の癖を変える事は容易な事ではないでしょうが、少しずつでも、毎日の生活の中で、御自身の物の見方や考え方等を変えていく、心のトレーニングをされる事を、お勧めを致します。これが又、私達の日々の過ごし方、修行に繋がっていくのかもしれません。御先祖様始め、御両親様から頂いた、大切な命を生かさせて頂いている私共。この命も無限に存在する訳ではありません。私達は限りある命を生きております。嫌な思いをしながら過ごす一日も、楽しい気分で過ごす一日も、同じ私達の大切な一日です。毎日の生活を楽しい気持ちで過ごしたいものです。


夕張市 錦楓寺
磯西 道由さん


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2013年6月1日放送「聖者とは?」

今日も夜があけ、お日様が暖かい光を届けてくれます。

ある日私は、「聖者とは?」と疑問をもちました。仏教でいうところのブッタ、悟りを開いた方はどんなかたなんだろう。私はそこでインドへ赴きました。生きる力がみなぎるインド。

そこには必死に生きる人々がおります。貧しくとも、お金持ちであろうとも。若くとも、年老いていようとも。健康であろうとも、病気であろうとも。。。それぞれの人生を生きる。

人、自然、もの、全てに命があります。私はインドで、大昔ここに生きたブッタを、仏様を感じました。ブッタとは真っすぐに生きること。

インドの詩人タゴールのベンガル語の詩をご紹介致します。jol pore,pata nore 雨がふる。木の葉がゆれる。

雨がふって、しずくが木の葉に落ち、木の葉がゆれる。詩人タゴールがあたりまえのことに美しさを感じ、記した詩です。

今日も夜が明け、朝がきました。あたりまえのように目覚め、お日様の温もりを頂いている、今に感謝。今日も生きる美しさ。今日も生かされている、ありがたさ。

仏様は私たちのこころの中におります。

南無釈迦牟尼仏


室蘭市 大安寺
岡部 良道さん


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2013年5月25日放送「主人公」

昨今、インターネットの急速な発展に伴い、パソコンやタブレット端末或いはスマートフォン等を使って調べものをしたり、フェイスブックに代表されるソーシャルネットワークサービスを日常的に利用する方が増えています。私もそれらを利用している一人ですが、とても便利で使っているとあたかも自分の知識と経験が増したかのように感じられたり、実際にそこに行かずとも画像を見て現地にいるかのような感覚を得る事ができ、ある種の万能感を抱くことさえあります。

最近、自分の事を含めて全ての事を他人事のように感じて、自分が生きているという実感が持てない方が増えているようです。これはインターネットの普及が一因であると考えられます。さしたる努力もせず様々な情報に触れる事ができたり、仮想現実の世界で友人と付き合い、直接人と向き合う事なく生活することのできる中で、いつしか自己の存在までもが仮想の世界のものであると錯覚してしまっているのではないでしょうか。

皆さんは『主人公』という言葉を聞いたことがあるかと思います。一般的には物語や小説の主役の事を指して使われていますが、元々は禅の言葉で、その人それぞれの自己本来の姿・いのちの事を指す言葉です。

インターネットに代表される現代の技術は非常に便利なものですが、現実に生きている我々はそれに囚われすぎず、日常の生活の一挙手一投足にもっと意識を向け大切にすべきです。そうすることによって見えてくる世界、得る事の出来る実感が必ずあります。

皆さんの主人公はどんな姿でしょう? 今日一日、どうか大切にお過ごしください。


室蘭市 皓聖寺
東海林 穣山さん


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2013年5月18日放送「時」

北海道内の山々の木々も、ようやく新芽を出しはじめる季節になりました。ついこの間まで、雪に埋もれていたとは思えないような景色です。

さて、来る六月十日は時の記念日です。時の長さを表すことばには年・月・日・時・分・秒などがあります。が、仏教では、那由多(なゆた)・アソウギ却など、まさに天文学的な、気が遠くなるほどの永い時間を表す言葉や、逆に、弾指(たんじ)・刹那(せつな)など、ごくごく短い時間を表すことばもあります。

因みに弾指とは、人差し指を弾いた時に出る音の長さ。これであります。この弾指のさらに六十五分の一というごくごく短い時間の長さを刹那といいます。つまり、私たちは今、こうしている間にも、刹那刹那に時は、どんどん過ぎていってしまっているわけです。

昔の人の歌に、「今いまと、今と言う間に今ぞ無く、今と言う間に、今ぞ過ぎ行く」。とあります。今、やらなければならないことを、しっかりとやっておかなければ、後で、残念なことになってしまいますよ、という戒めが込められた歌です。

さて、今日も新しい一日が始まりました。今、自分がすべきこと・自分ができることをしっかりと行なって、時を無駄に過ごさないようにしてゆきたいものだと思う今日このごろであります。


札幌市 真龍寺
飯田 整治さん


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2013年5月11日放送「西遊記」

今日は西遊記についてお話致します。

西遊記のお話には三蔵法師、孫悟空、猪八戒、沙悟浄がでてきます。三蔵法師は実在したお坊さんですが、孫悟空、猪八戒、沙悟浄は架空の登場人物です。この三人が登場したのには理由がございます。

仏教には三つの毒と書いて三毒という、人間が必ず持っている三つの心がございます。

一つ目は貪【トン】と言って貪りの心で、これは食べ物に卑しい猪八戒を表わしています。

二つ目は瞋【ジン】と言って怒りの心で、短気で怒りやすい孫悟空を表しています。ちなみに孫悟空の頭の輪は怒ると締まり罰を与えるものでしたね。

三つ目は痴【チ】と言って愚かな心で、すぐに愚痴を言ったり悪巧みをする沙悟浄を表しています。

貪【トン】は貪りの心、瞋【ジン】は怒りの心、痴【チ】は愚かな心です。この貪瞋痴を三毒と申しまして人が上手にコントロールしなければならない三つの心として戒めております。つまり、西遊記では孫悟空、猪八戒、沙悟浄を登場させて三蔵法師自身の心に起こる三毒をわかりやすく描いているんですね。

皆さんも頭に血が上った時には孫悟空の顔を思い出して戒めて頂ければ幸いです。ご清澄ありがとうございました。


安平町 瑞雲寺
増坂 泰俊さん


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2013年5月4日放送「自然の姿」

皆さんは、ふと気づく自然の姿に心動かされたことはないでしょうか。

境内の掃除をしていた時のことです。参道を片づけ終わり、建物の裏手の掃除を始めました。

そこは、敷石や刈り込まれた木々が並ぶ前庭とは対照的に、自然の地形がそのままの雑木林になっています。折れた枝や落ち葉を集めながら進んでいくと、一本のツツジがありました。単調な色味の景色の中にあって、ひと際鮮やかに満開の白い花を咲かせていました。辺りを見回してみてもツツジはこの一本だけですが、人の背丈よりも大きく、立派な枝ぶりのその姿は、実に堂々としています。私は思わず歩み寄り、しばらくの間見とれてしまいました。

もし私がこのツツジだったとしたら、多くの人の目にとまり、愛でられる前庭の木々たちを羨ましく思ってしまうかもしれません。春芽吹き、花を咲かす。そして、その蕾や葉を落とし、次の春を待つ。自然は己が成すべきことをよく知っているようです。たとえだれの目に触れずとも、近くに仲間がいなくとも、ただ力強く咲くその姿に感動致しました。

私たちは周りの視線を気にするあまり、こうありたい、と思う本心とはかけ離れた振る舞いをしてしまうことがあるかと思います。様々な関わり合いなくして生きてはいけない社会生活に於いて、大事な感覚であることは言うまでもありません。しかし、それを気にしてばかりいては、心は疲れてしまいますし、知らず知らずの内に誰かを傷つけてしまうこともあるのではないでしょうか。たまには目を閉じて、静かに自身の内面と向き合うことが大切だと思います。

私はあのツツジのように、そこに在って真っ直ぐに生きていきたいと、日々念じております。


浦河町 光照寺
蔵野 嗣雲さん


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2013年4月27日放送「羽衣の松」

愛知県豊川市に「羽衣(うい)の松」と言う木が在ります。 この木にまつわるお話で、昔、若者が川淵を歩いていると、松に綺麗な布が掛かっていました。若者は綺麗な布なので大切に仕舞い込んでしまいました。川で体を洗っていた天女は、羽衣が無いので帰る事が出来ず、仕方なく若者の妻となり、やがて一人の子供が生まれました。ある日、天女は引き出しの奥にある羽衣を見つけそれを身にまとうと「私はこの子を残して天に帰ります。子供が病気になった時にはこれを使って下さい。ここに病気の治るお茶と人形を置いていきます」と言って天に昇って行きました。

この話から良く考えると、人との出会いと、結婚はよく考え、軽はずみな事はしない、また無理なことに対しての戒めを物語として伝えていると思います。

子供を置いて後ろ髪を引かれる思いの天女。空に昇っていく天女の姿。自分ではどうする事もできない人の運命の非常さ。愛する妻との別れ。愛しい我が子との別れ。そのどれもこれもがこの話に私は含まれていると思います。

「羽衣の松」それは世の中の無常を悟らせ教えている、全世界に通じる教えだと思います。


札幌市 玉宝寺
牧野 良章さん


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2013年4月20日放送「合掌」

皆さんは、普段、合掌はいつされてますか?皆さんが思い浮かぶのは、お寺や神社、お墓に行った時だと思います。

でも、この合掌というものは私たちの日常生活の中でも自然とされているという事に気付いているでしょうか?食事の時を思い出して下さい。食べる前と食べ終わった後にしてないでしょうか?子供の頃に親などに教わったと思います。その他にも、自分や人が助けられた時、仲間などの応援をしている時などいろんな時にされていると思います。

皆さんは、その時何故手を合わせるのでしょうか?それは自分や相手に対し感謝や守って欲しいという気持ちを表現しているからだと思います。それは即ち、仏様やご先祖様に対し救いや感謝を求めている行動でもあるわけです。

日頃、生活しているの中で仏様やご先祖様を思う方は少ないと思います。しかし、私たちは自然と手を合わす事で仏様やご先祖様に対して救いや感謝をお願いしているのです。こうして私たちは手を合わす事により、自分が落ち着きや和らぐ気持ちになれるのです。

私はこの手を合わせる合掌の姿とは、自分の心の姿だと思います。皆さんも合掌される時は、日頃の無事と感謝を仏様やご先祖様により一層思ってされてはいかがでしょう。


札幌市 清泉寺
田村 文英さん


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2013年4月13日放送「食」

禅には喫茶喫飯という言葉があります。お茶を頂く時には、お茶を飲む事だけに集中し、ご飯を頂く時には、ご飯を食べる事だけに集中する事を言います。昨今の食生活はどうでしょうか。慌ただしく朝食をとり、仕事の合間に昼食をとり、夕食はテレビを観ながら食べる・・・という様に、食事を頂くという行為が疎かになっていないでしょうか。

私の修行した禅寺の台所には『不殺生とは、物の生命を活かす事』と書かれた紙が貼ってありました。昔からどんな食事でも、百人の人の手を経て、自分の口に入ると言います。多くの人々の手間暇と、私達と同じく、この世に生を受けた植物や動物の生命のおかげで、私たちは今日という一日を、生かさせて頂いているのです。目の前の食事に感謝をして頂き、世の為、人の為になる善行を実践していく事が不殺生と言えるのではないのでしょうか。今朝の朝食から、合掌をして「いただきます」と感謝の気持ちを込めて頂けば、きっといつもと違う一日が始まる事でしょう。

開祖、道元禅師は調理する心得や、食事の作法がいかに大切なのかを説いておられます。禅の食育は鎌倉時代から続いていたのです。食事は、ただ空腹を満たす行為ではなく、他の命に感謝をする大切な禅修行の時間なのです。


札幌市 大昌寺
佐藤 文尊さん


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2013年4月6日放送「花まつり」

4月8日は、仏教を開かれたお釈迦さまの誕生日です。お釈迦さまは、今から約2500年前、インド北部のルンビニーの花園でお生まれになられました。伝説によりますと、お釈迦様は生後すぐに独り立ちして七歩歩き、右手の人差し指を天に向け、左手の人差し指を地に向け「天上天下唯我独尊」と宣言されたといわれています。このお言葉は「人は誰もが、かけがえのない命を生きている」という、仏教のもつ人間尊重の精神を端的にあらわしたお言葉です。

今日の日本ではお釈迦様の誕生を祝し、全国各地の寺院などで「花まつり」の行事が行われます。「花まつり」は、お釈迦様がルンビニーの花園でご誕生された様子を表し、花御堂という小さなお堂を飾ります。花御堂の周りには色とりどりの草花を飾り、灌仏桶の中に甘茶を満たします。その中央には天地を指差した誕生仏を安置し、甘露の雨を模した甘茶をかけ、華やかにお祝いを致します。誕生仏に甘茶をかけることは、お釈迦さまがご誕生のとき、雨の神の竜王が甘露の雨を降らせてお釈迦さまのおからだを浄めたという言い伝えによるものであります。また、お釈迦さまのお母さまでありますマーヤ婦人は白い象が体内に入る夢をみてご懐妊されたという言い伝えがあるため、花まつりでは白い象もそばに安置されていることもあります。

花まつりはお釈迦さまのご誕生をお祝いするとともに、私たち一人一人がこの世に生まれてきた命の尊さに目ざめ、正しく生きることをお誓いする日にしたいものです。


札幌市 瑞現寺
齋藤 秀光さん


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2013年3月30日放送

今月もあと一日で終りです。この時期は、学生さんにとっても大切な「卒業式」の季節でもあり、私の娘もこの三月、高校を卒業しました。

一般に「卒業」とは「学校を終わること」とされていますが、改めてその言葉を分解してみると「卒」とは「何かが終わる・完了する」という意味を持ち「業」とは「人間の行為・動作・行い」を意味します。つまり「卒業」は学校ばかりのことではなく、一つの仕事を終える全てに含まれており、毎日が「卒業式」なのです。

仏教的に解釈するならば、私たちが一生を終えるのも「人生の卒業」なのです。その間、皆様は色々な悩み・苦しみ・絶望するときもあり、一瞬一瞬それらを乗り越えようと頑張りますが、時には人の助けも借りましょう。自分の苦しい思いを受け止めてくれる人は必ずおります。けして「一人で耐えない・背負わない・無理しない・頑張らない」。人に相談することは、甘えでも我が儘でもありません。

日々の暮らしを「マイナス」にせずに「プラス」にして下さい。だとしても、私達の命は、日々生きてゆくということは、同時に一日一日寿命を縮めている、つまり一日一日「死」へ近づいていることなのです。たとえお金持ちであろうが、どんな「力」を持っていても変えることの出来ない真実なのです。生命を大切にすることが日々への「卒業」へと繋がるのです。

曹洞宗をお開きになられた道元禅師様は「この一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり」すなわち「今日のこの一日、生きている今、ここにある生命はかけがえのない生命であり、変えることの出来ない身体である」

どうか、今ラジオを聞いている皆様、今この時この一瞬を大切に「卒業」していく毎日を送ってみてはどうでしょうか。


北広島市 来広寺
落合 広明さん


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2013年3月23日放送

私は五年前の正月に不注意で大火傷を負い札幌医大へ運ばれました。そして、計四回の手術をしましたが、その中三回は手術の後、一週間俯(うつぶ)せのまま過ごさなければなりませんでした。顔を洗うのも食事をするのも全て俯せのままでした。その時私は正岡子規の『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』という本の中で『悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。』と述べているのを思い出しました。

又、病院のベッドで聞いたラジオに島津亜矢さんの『波』という歌が流れていました。

雄たけびあげて 逆巻く波に
呑まれ叩かれ はいあがりゃ
板子一枚 天国・地獄
明日の行方は 知らないけれど
風に向って 舟を漕ぐ

これは二番の歌詞です。とてもいい歌です。

私たちは「生死」という海の中にいるようなものです。いつも順風満帆という訳にはいきません。むしろ逆風や嵐の方が多いでしょう。それでも生きて行かなければなりません。

「生死事大 無常迅速」生きるとか死ぬとかそんな大事な事はありません。それでもあっという間に過ぎていきます。今こうしている間にも時は刻まれています。「今」の「イ」と言っている間は「マ」は来ていません。「マ」と言った時には「イ」はもう通り過ぎています。一日一日を、いや一瞬一瞬を大切に過ごしたいものです。


札幌市 大慈寺
佐々木 知生さん


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2013年3月16日放送

春が遅い北海道で、まだ風が冷たくとも、少し雪が残っていても、あざやかな黄色の花を咲かせるタンポポ。どんな場所でも、いくら踏まれても、綺麗な黄色の花を咲かせるタンポポ。その逞しさには頭が下がる思いさえします。

念ずれば花開く」で世に知られる、仏教詩人 坂村真民さんの「タンポポ魂」という詩です。

踏みにじられても 食いちぎられても
死にもしない  枯れもしない
その根強さ
そして つねに太陽に向って咲くその明るさ
わたしはそれを わたしの魂とする

タンポポはいくら踏まれても、くじけることなく、しっかりと花を咲かせ、たくさんの種を風にのせて広げますね。

今から二年前になりますが、私たちの記憶に強く残っている東日本大震災。大震災の後、ボランティア活動で被災地を訪ねました。そこで地元の方がこんなお話をして下さいました。

「町がなくなってしまう程の大津波が来ても、タンポポはちゃんと咲くんだね。私たちも負けずに頑張りますよ」

その方が指をさした先には、瓦礫の合間からタンポポが花を咲かせていました。そこに一筋の希望を見たような気がして、胸が熱くなりました。

悲しい時、苦しい時、健気に咲くタンポポを思い浮かべてみては如何でしょうか。いっぱいに咲くタンポポの花は、まさに「優しさ」です。白い綿となり空を舞い、広がっていく種は「絆」と言えるのではないでしょうか。

「思いやりの心をもって、人の為に生きる事」。曹洞宗の教えで「利行」と言いますが、大震災から立ち直り、復興の道を歩む為に大切な生き方ではないでしょうか。


札幌市 大宥寺
吉田 圭孝さん


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2013年3月9日放送

日々、私たちがお唱えしておりますお経には数多くの種類がございます。

その中には「偈文(げもん)」というものがあります。それは、詩の一節を形どったものです。

たとえば、顔を洗う時に唱える「洗面之偈(せんめんのげ)」や、トイレに入る時に唱える「東司之偈(とうすのげ)」などです。日常のありとあらゆる行いに対してお唱えする一種の呪文の様なお経です。

その様な沢山ある偈文を、『自然にお唱えできる様になって、はじめて本物の偈文と言えるのだよ』と、修行時代、ある老師がおっしゃった事が、最近やっと深く理解できる様になりました。

それは一昨年の大震災より今日まで、毎日のお月参りや、ご法事で、最後にお唱えします回向文に、今なお、ご不明な方々の早期発見と亡くなられた方々への祈りの言葉を、入れさせて頂いております。それは、その方達への思いを「忘れてはならない」という自分への戒めです。最初の頃は、意識しないと回向文に、忘れた事も度々ありました。でも、最近では意識せずとも、お唱えさせて頂いております。修行中に、老師がおっしゃった事がお陰様で、自分なりに理解できたと感謝しております。

曹洞宗をお開きになった道元禅師様は、おっしゃいました。

『ただ、我が身をも、心をも、放ち忘れて、佛(ほとけ)の家に投げいれて、佛の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をも入れず、心をも費やさずして、静止を離れ、佛となる』

と、つまりそれは、頭であれこれ考えるのではなく、見も心もお預けし、導かれるままに、歩みなさいとお示しです。

わたくしのこの思いが、いつまでも東北に届きます様に。参回忌に際しまして、心よりご冥福をお祈り致します。


稚内市 領南寺
古川 憲弘さん


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2013年3月2日放送

私事ですが、今日3月2日は私のお寺の先代住職の祥月命日であります。

祖父でもある先代住職は私が産まれる8年前に亡くなっており、当然お会いしたことも、声を聞いたこともございませんが、両親や御檀家様から私のお寺の住職をすることとなった経緯をお聞きしたことがあります。

先代住職は富山県の出身で、お寺の子どもとして生まれたわけではなかったそうです。小僧としてお寺で生活したことはあったそうですが、社会科の教職員として富山県の学校に勤務していた、とのことでした。

ある夏休み、たまたま北海道の小樽の親戚のところへ来ていた時、私のお寺「徳源寺」の当時の住職が体調を崩して、お盆のお参りができなくて困っている、という噂を聞いたそうです。小僧をしていた経験から、お経を読む事ができた為、「徳源寺」を訪れ、お盆のお参りを手伝ったそうです。それがきっかけとなり、後に「徳源寺」の八代目の住職となったわけであります。

もしも子どもの頃の小僧の経験がなかったら、もしも親戚が北海道の小樽にいなかったら、もしも住職が体調を崩しているお寺の噂を聞かなかったら、先代住職は「徳源寺」の住職になることはなかったと思います。そしてわたしの父である現在の住職と母も出会うことはなかったと思いますし、「わたし」という人間も存在しなかったと思います。

すべてのものは、些細な偶然をきっかけとして大きく変化をしていきます。わたしという人間が存在すること自体、偶然に偶然を重ねた奇跡のようなものであります。

「今、こうして生かされている」ということが奇跡であるということにお一人でも多くの方が気づくことができれば、世の中に満ち溢れている不平不満も減り、素晴らしい世の中になっていくのではないかな、と思います。


小樽市 徳源寺
吉田 敬徳さん


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2013年2月23日放送

私の所属する第七教区青年会北斗会では、夏休みを利用した一泊二日の子ども坐禅会を開催しております。有難いことに会を重ねるごとに口コミで参加者も増え、第四回の昨年の坐禅会には、58名の小学生児童が参加して下さいました。

さて、皆さんは『坐禅』と聞くとどのような印象を持たれるでしょうか?「足が痺れそう」、「厳しい修行」など、大変な事・特別な事と思われてはいないでしょうか。

子ども達の坐る姿、それはまさに開祖道元禅師のおっしゃる『只管打坐(しかんたざ)』の姿でした。 それまで一時も落ち着かず騒々しかった小学生が、お寺の本堂で坐蒲代わりの二つ折りにした座布団に無心に坐る姿は、感動すら覚えました。

最近、月命日のお参りをしておりますと、挨拶のできない子ども達が目につきます。また、親御さんから落ち着きが無い・言う事を聞かないと伺ったり致します。

しかし私が子ども坐禅会を通して感じたことは、心を整え、お互いに感謝の気持ちを以て接することで、たった一泊二日の体験でも、子ども達は目覚ましい成長を遂げるという事でした。

私が子供のころ大人たちから受けた『躾』というものを、改めて理解できた気がします。

皆さんも、ぜひ忙しい現代社会では忘れがちな『謙虚な心』『感謝の心』を思い出し、まずは姿勢を正し、呼吸を整え、心を落ち着ける時間を持つ坐禅を、生活の中に取り入れてみてはいかがでしょうか?


小樽市 龍眼寺
三浦 崇春さん


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2013年2月16日放送

毎日、月参りや法事、葬儀などで檀家さんの家や会場でお経をあげさせていただいたり、お話をさせていただいたりしております。

その時に檀家さんに、「自分ももういい年になったので先のことを考えるようになりました。今まで仏教の教えなどあまり気にしていなかったけれど段々と気になるようになってきました。」と言われたことがあります。親や自分が元気なうちは自分のことだけで精一杯だったのが余裕ができてきたり、先が見通せるようになると考えるようになるのでしょう。

因縁という言葉がございます。結果をつくる元となるもののことです。この場合は年齢が仏教を考える因縁でありましょうか。因縁は皆さんの人生の中で様々な場面で存在します。あの人のようになりたいというときのあの人、好きな人の側にいたいというときの好きな人、仕事に向かう姿勢を変えてくれたときの一生懸命仕事をする人などです。

あなたが他の人を見ているように他の人はあなたのことを見ています。自分のしていることが他の人に、他の人がしていることが自分に良くも悪くも影響していて決して一人だけでは生きてはいないことをしっかりと考えていただきたいと思います。

私も尊敬できる人を見て目標にしたり、皆さんにしっかりと仏教の教えを伝えていけるように精進していき、皆さんのより良い人生の因縁となりたいものです。


千歳市 妙心寺
管 公史さん


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2013年2月9日放送

本日から六日後の二月十五日はお釈迦様の亡くなられた日、涅槃会(ねはんえ)になります。

お釈迦様は、自分の死期を悟ると横になり御弟子様方に最後の説法をしました。話し終え、お釈迦様がお亡くなりになると、御弟子様方は嘆き悲しみ、その場から動くことが出来なくなってしまったのです。暫くその場で悲しんでいると御弟子様の一人が「お釈迦様は私にこのように教えてくれました」と話しました。それを聞き、また一人また一人「私はこう教えて頂いた」「私はこのように聞いた」と言い始め、夜通しお釈迦様に教えて頂いた事を語り合ったのです。

これが最初のお通夜の始まりで、この時語り合ったお話がお経になりました。お経の始まりに「にょうぜいがーもん」という言葉がありますが、これは「かくのごとくわれきけり」わたしはこう聞いたという意味になります。

教えは言葉で伝えられます。振り返ると私たちも、今日までさまざまな形で、多くの教えを頂いています。例えばお話しで教えられる事もあるでしょう。叱りつけられて教えられることもあるでしょう。相手の事を自分のこととして思い、発せられる言葉を「愛語」と言い、親からの愛語、家族からの愛語、色々な方からの愛語で私達は支えられているのです。

どうぞ涅槃会の近いこの時期に「にょうぜいがーもん」私はこうやって教えてもらった事があるな〜と思い出してみてください。


札幌市 薬王寺
田中 基裕さん


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2013年2月2日放送

普段私達僧侶がお経をお唱えし、最後に御戒名或いは先祖代々等を念じつつ、供養文をお唱えしております。これを回向(えこう)と申しますが、お経の功徳を亡き御精霊さまに回(めぐ)らして向けるという意味であります。

當寺のお檀家さんに、信心厚くご先祖を大切に祀られているお婆ちゃんがおります。先日、曾お婆さんに当たる方の壱百回忌法要を勤めさせて頂きました。無論お婆ちゃんにしても、その家に嫁いだ時にはすでにその方は亡くなっており、遺影でしか顔も知らない仏さんであります。

毎月お婆ちゃんの家に御回向に伺うと、仏壇には沢山のお花と供物が供えられております。聞けば命日には必ず子供達や親戚、近所の方々がお参りに来てくれるそうで、お茶を飲みながら仏さんからの御相伴を賜り、供物をみんなで分けて頂いてるそうです。供えた供物を頂戴する、これは仏さんから私達への供養、回向であります。供えられた供物を回らしお参り下さった人達に向けて食べて頂く。

御回向が終わり、お茶を頂きながらお婆ちゃんは決まってこの言葉を口にします。 「方丈さん、私がこの歳まで元気でいられるのも沢山のご先祖さんに護られているからだ。有難いよ。ご先祖さん粗末にしたら罰当たる。」

どうでしょうか、私達は然もすれば自分の生命は自分だけのものと勘違いしがちです。しかしながら先祖代々から生命の継承を授かり、又これからも子孫へと伝えて行かなければ為らない大切な自分の生命であります。 生命を伝えてくれたご先祖に、感謝をし恩に報いる。それを形で表すのが供養であり、回向であります。

 顔も知らないご先祖さん方に護られているからこそ、供養を形に表し御回向に徹する。お婆ちゃんの仏心に唯々頭が下がります。


登別市 透禅寺
峰田 謙二さん


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2013年1月26日放送

毎朝、学校近くの横断歩道に立って、通学する児童の安全を見守る交通安全指導員の方を見かけます。暑い日も寒い日も、雨の日も風の日も、いつも笑顔で通学する子供達に「おはよう」と元気よく声をかけ、子供達も笑顔で「おはようございます」と答える。笑顔のあるそんなほのぼのとした光景に出合いますと、まわりの者まで笑顔にさせ、その日一日の良きスタートを感じるものです。

笑顔っていいですね。笑顔には、人を元気にさせたり、幸せな気持ちにさせたりする素晴らしい効果があります。

みなさんは、笑顔のある毎日を送っていますか?苦しい事、悲しい事、嫌な事など、いろいろあり、笑顔を忘れていませんか?ちょっとしたことで腹を立てたり、なんでもないことでくよくよしたりしていませんか?

今年届いた年賀状の中にこのような言葉がありました、「一笑一少、一怒一老」、一つ笑うと歳が少し減り若返り、一つ怒ると歳が増えて老けるという意味の言葉です。世の中は何かと忙しなく、どこかいわれのないイライラや不安に満ちあふれているように思えます。そのようなイライラや不安が、笑顔を忘れさせているのではないでしょうか。慌ただしく忙しない世の中ですから、なおさら、イライラしたりくよくよしたりせずに、笑顔になりませんか。怒って老けるより、一つ笑って一つ若返りましょう。

「ほほえみはほほえみをよぶ春の風」という句がありますように、他人からの微笑みに対しても、微笑みで返せる人になれば、こんな素晴らしい事はありません。


栗山町 大聖寺
萩野 佳記さん


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2013年1月19日放送

私たちの人生の中では、様々な出来事が訪れます。楽しいことや悲しいこと、10人いれば10人の人生模様があることでしょう。お経の中にこのような話がございます。

ある家に、ひとりの美しい女が、着飾って訪ねてきました。
その家の主人が、「どなたでしょうか。」と尋ねると、その女は、「私は人に福を与える福の神です。」と答えました。
主人は喜んで、その女を家に上げ、手厚くもてなしました。
すると、その後から、粗末な身なりをした醜い女が入ってきました。
主人が誰であるか尋ねると、「私は貧乏神です。」と答えました。
主人は驚いてその女を追い出そうとしました。
すると女は、「先ほどの福の神は私の姉です。私たち姉妹はいつも離れたことがございません。私を追い出せば、姉もいなくなることになります。」と主人に告げ、彼女が去ると、やはり美しい福の神も家を出て行ってしまったのでした。

諺に「禍福は糾(あざな)える縄の如し」という言葉があります。

意味は、災いと幸福は、寄り合わせた縄のようにかわるがわる来るものだ。幸福と不幸は表裏一体のものだ、ということです。

私たちの人生には、生があれば死があり、良いことがあれば、反対に悪いことが起こります。私たちは、災いを嫌って幸いだけを求めてしまいます。しかしながらお経では、人生には幸いと災いとの両方があることを受け止めて、そのどちらかのみに執着し、求めてはならないと説いています。

どちらにも振り回されないよう、人生をしっかり見つめて歩んでいきたいものです。


恵庭市 大安寺
押見 俊哉さん


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2013年1月12日放送

「歳月は人を待たず」新たな歳を数え皆様方はどのような願いを立てましたでしょうか。

昨年は、まだ記憶に新しいオリンピックやiPS細胞の研究といった様々な感動を頂きました。その感動を感謝に変え、自己の感性向上に繋げたいと思います。

私達が、日頃唱えるお経に『修証義』(しゅしょうぎ)という経典があります。我らが道元さまの『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)を底本として編纂・軽装化された経典であります。その冒頭『生を明らめ死を明らむるは…云々』とあり、「生と死、所謂、命ということを明確に…」と始まります。『正法眼蔵』の中では、その前後に、善悪の定義と、意(こころ)と行いについて深く諭されます。善とは物でも命でも活かし、喜ぶこと。悪とは自他を殺し、悲しませることです。曰く『悪を為さず、善を行ぜよ』『善悪は三歳の子供でも知り得るも、八十老翁とて行い得ず』と。簡単な言葉でありますが、自分は三歳の子供より正しいと考えてはいけない。純粋であった意(こころ)がいつしか歪んではいないか、輝かしい眼差しを失ってはいないか。「今の自分」の立場でしか考えられない見方を正していきます。

更に、曰く『一法を通ずるものは万法を通ず』と。オリンピック選手の皆さんは、どれ程、辛い思いと厳しい鍛錬を重ねたことでしょう。ひたすらに「一」を磨き、百不当の壁を乗り越え、一つ一つを窮め尽して、夢の舞台に立つからこそ、感動のドラマが生まれたに違いありません。純粋で豊かな感性と、地道且つ、ひた向きな姿勢こそが、新たな「命」を生み、そして、明るい未来が拓かれるものと信じます。

悩み、苦しみも向上の一つ。

「意(こころ)、行い」のあり方が、そのまま、「命」のあり方なのです。


室蘭市 安楽寺
軽部 文弘さん


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2013年1月5日放送

先ずもって一昨年の、東日本大震災・福島原発事故により、未だに避難生活を余儀なくされている多くの皆様方に、心からお見舞い申し上げ、お正月をふるさとで過ごせる日がやってくることを心からお祈り申し上げるものであります。

さて、今年は巳年。

昔、中国のと或るお寺に、インド伝来という仏像とお釈迦様の仏舎利を、暇なく礼拝している修行僧がおりました。彼は、「これは天竺から伝わった尊い仏像と仏舎利である」とまわりの人々にも常に自慢するのでした。そんなある日、お寺の住職が彼に言いました。「お主が礼拝しているものは、尊いものではないぞ。その仏舎利の入れ物を開けて見なさい。」と、修行僧は、「それでは尊い仏舎利を見せて進ぜよう」と、得意満面で入れ物の厨子を開いて見せました。すると、なんと、そこには毒蛇がとぐろをまいてこちらを睨んでいた、とのことです。

どんなに尊い教えや、ありがたいものでも、それに執着してしまうと、自分自身や他人にまで害毒を与える、毒蛇のようになってしまいますよ。という戒めです。

年頭にあたり、自分自身の心の中と行ないをよくよく反省し、毒蛇が身の内に潜んでいないか、またその毒蛇を心の中から追い出して、清々しく暮らしてまいりたいものであります。


曹洞宗北海道管区教化センター
統監 藤原 重孝


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