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HBCラジオ「曹洞宗の時間」(毎週土曜 午前6時15分〜6時19分)にて放送された、 北海道各地のご住職の法話を掲載しております。 また、実際にラジオで放送された音声データの配信も行っております。 >>今年度の放送はこちらから 2014年12月27日放送「虫さんの命」
本日は<虫さんの命>と題してお話させていただきます。
そもそもこの教えは、罰を恐れたり、道徳的に「これをしてはいけません」と、注意されて行うものではありません。 現在は冬となり、殆どの虫さんは見かけなくなりましたが、暖かくなると、また沢山の虫さんが生まれてきます。命のバトンによって生まれてくるその命は、私達と同じく、地球という大きな生命体の仲間であり、尊いものにかわりありません。
お釈迦さまは『一切の生きとし生けるものに、無量の慈しみの心をおこすべし』とお示しです。 函館市 永全寺
2014年12月20日放送「お塔婆(おとうば)とは何ですか?」今朝はお塔婆についてのお話をさせていただきます。お塔婆というと、お墓に建っているものという印象があると思いますが、実際に何かと聞かれると、よくわからない方もいらっしゃるのではないでしょうか。 お塔婆とは、もともとは、お釈迦様のご遺骨を供養するために弟子たちが建てた塔に由来します。今でもアジアを旅行すると、ストゥーパと呼ばれる塔を目にしますが、インドから日本へと仏教が伝わっていくにしたがって、ストゥーパがなまり、卒塔婆(そとうば)となり、略して塔婆と呼ばれるようになりました。 私たちがお塔婆を建てるのも、お釈迦様をお弟子さんたちが供養したように、今は亡き大切な人を供養するためなのです。そして、それは亡き人への感謝の気持ちを伝えるだけではなく、今を生きる私たちの生き方を振り返るためにお塔婆を建てます。 道元禅師様が大切にされていたお経の一つ「法華経」にも 皆応(まさ)に塔を起(た)てて供養すべし と書かれてあります。 たとえ私たちがどこにいたとしても、また、どのような状態であれ、健康であれ体が不自由であれ、私たちが正しく生きようと決意を新たにすることこそが、塔を建てるということです。 ご法事では、その象徴としてお塔婆を建てますが、実際に建てることをしなくても、たとえ、一日の始まりに仏様の前でそっと手を合わせ合掌することだけでも、正しく生きようと塔を建てることになるのです。 最後に、「雨ニモマケズ」で有名な詩人、宮沢賢治さんが亡くなる前に書かれた詩を紹介して終わりにします。 手は熱く足はなゆれど われはこれ塔建つるもの 北斗市 広徳寺
2014年12月13日放送「先代の教え」「悩んだ時は、自然に聞いてみなさい」 これは、先代の住職である伯父がよく口にした言葉でした。 ある日、私はその意味を詳しく尋ねると、先代はこう語り始めました。
「川というのは、人生を表し、仏の道を示している。どんなに大きな川でもキラキラとした一滴の雫から始まり、それが下流へ流れる程、広く深くなる。しかし、濁ってしまうこともある。 私は、自分自身に照らし合わせ、確かにそうだなと頷くと、先代は最後にこう言いました。 「しかしな、どんなに濁ってしまった川の水でも、海は分け隔てなく全てを受け入れ、そして、清らかな水へと戻してくれる。海というのは、慈悲深い母の心を持つ仏様なのだよ」と。 私は、知らず知らずのうちに罪を犯してしまっていたらどうすればいいのだろうかと考えました。 みなさんならどうしますか? み仏の教えに反省したのならば、み仏にも人様にも謝り、そして、人の為に、お役にたつ生き方をすることだと仏様は示されています。 素直な心で生き、幸せな人生を歩まれることを切にお祈り致します。 七飯町 光現寺
2014年12月6日放送「平和への誓い〜成道(じょうどう)によせて」来る12月8日は、お釈迦様がお悟りを開かれた、道が成ると書いて、成道の日でございます。 さて、以前、壇信徒の皆様がお集まりになった時のことでした。私が12月8日は何の日でしょうか?という問いかけをしてみたところ、一人の年老いた方が、「真珠湾攻撃の日」とお答えになられ、面喰ったのを、とても印象深く記憶しております。 そうです、12月8日は、仏教徒にとっては、めでたくもお釈迦様がお悟りを開かれた成道の日でありますが、と同時に、昭和15年12月8日、太平洋戦争へと戦火を拡大していくことになる、我が国では歴史に暗い影を落とした日でもあるのです。なんとも、皮肉な因縁を感じずにはおられません。 もちろんのことですが、お釈迦様は、争いを肯定する教えを一つも残しておられません。
曹洞宗では、先の大戦を省みて
御先祖様から受け継いだ、かけがえのない命 自らの血を流さず、相手の血も流さず、決して綺麗ごとだけでは済まされないけれども、そんな難しい世の中を、なんとかして知恵を絞り、互いに、生きて、生きぬくことが、私たちの勤めだと思うのです。
来年は戦後70年となる節目の年でございます。 森町 禅昌寺
2014年11月29日放送「中道」近年、アベノミクスなる経済政策の事がよく報道されておりますが、果たして経済が豊かになれば国民は幸せな生活が送れるのでしょうか? 日本人は戦後、朝から晩まで休むことなく働き、大変苦労して日本を世界有数の経済大国にしてきました。しかし今の日本の自殺率・出生率などを見てみると、とても幸福で希望の持てる国とは思えません。 ヒマラヤ山脈の東にブータン王国という、経済的に決して豊かとは言えない小さな国があります。この国では国民の95%以上が今の生活に満足し幸福であると答えています。なぜでしょうか?それは国民のみんなが欲ばらないというのも一つの理由であります。今ある物、今の自分達で十分なのであります。だから心にも余裕があり、自分や人を責める事もなく、周りの人にも優しくなれます。ブータンはそういった精神的な豊かさを重視した国なのであります。 今の日本には政策よりも何よりも国民一人一人が戦後の物質文明一辺倒だった考えを変えて、宗教心、家族愛、地域の連帯、郷土意識、などお金や物から離れたもの、いわゆる精神文化を大切にしていかなければならないと思います。 ですが安心して暮らしていく為にはある程度の文明の発展は必要であります。 そこで仏教の「中道」の教えが必要になります。 「中道」とは二つの対立した極端な意見があった場合、そのどちらにも寄らず真ん中の道を行けという教えであります。極端にせず、自然な立場がいいということです。 物質文明と精神文化の両方を大切にする「中道」を歩む生き方が今後の日本には必要ではないかと思います。 森町 龍光寺
2014年11月22日放送「布施の実践」さて、御布施をしなさいといいますと、僧侶に対して金品を渡すことだと思っている方が多いとおもいますが、実はそれだけが御布施ではありません。 人に対し品物を施す事はもちろんですが、優しい笑顔や眼差し、また温かい言葉をかけることなどもすべて布施の実践ということになります。布施をする側もされる側も共に幸せになる事が本当の布施の実践です。 ここにおいしそうなケーキがあったとします。大好物だから凄く食べたいと一人で口にしてみました。好きなケーキを食べられたのですから、その幸せは100%になります。しかし食べ続けるとだんだん飽きてきますから、始め100%だった幸せも70%・50%とだんだん減って参ります。そして最後にはもういらないとなり幸せもあまり残りません。 ところが、このケーキを他の人と分け合って食べてみたらどうでしょうか。その人に「分けてくれてありがとう。本当においしいね。」と温かい言葉と笑顔を向けられたのなら、その幸せは100%どころか200%にも300%にも無限の喜びに繋がっていき、一人で食べたのでは決して味わうことの出来ない幸せを感じることができるのではないでしょうか。これこそが、本当の御布施ですね。 人は多くの繋がりの中で生きていかなくてはなりません。その繋がりを「対立」では無く「調和」に変えることが幸せに生きていく絶対条件です。布施の実践こそが「対立」を「調和」に変え幸せに生きていける方法になるのだと思います。布施の実践が周りを笑顔にし、またさらに自分を笑顔にする。やがてその笑顔が世界中すべての人々を笑顔にし、そして幸せに変えていけるのだと信じています。 さあ御布施をしましょう。 函館市 大龍寺
2014年11月15日放送「もったいない」早いもので11月を迎え、そろそろ年末年始の準備を始めているところでしょうか。 特にこの時期はお参りにお伺いいたしますと、お仏壇に新鮮でおいしそうな果物や野菜が並んでおります。その他にもご先祖様への心がこもったお供えや、故人が好きだったのだろうと思われるものがお供えされているものを拝見すると、ご先祖様への感謝の気持ちが伝ってまいります。 現在、日本の食料自給率は約40パーセントで、その他は輸入に頼っているのだそうです。更にその輸入している食糧の三分の一は廃棄されているのだそうで、その捨てられた食糧品の量とは、なんと年間約5000万人が生活できる量だと言うのです。確かに、コンビニやスーパーなどで売れ残ったものがどうなるのかと考えますと、この数値もうなずけます。「うーん。もったいない!」 食べ物を粗末にしてはいけないということを小さいころから教えられておりますが、なかなかできないのが私たちなのでしょう。食べ物があふれているからこそ、なかなか気づかないことではありますが、お仏壇のお供え物のように、一つ一つに心を込めたならばきっと粗末にはできないと思います。 「もったいない」とは仏教語が元となっておりますが、現在ではそれが転じて「物の価値を十分に活かしきれておらず無駄になっている」状態を表しております。物の価値を活かすか否かは自分次第です。一人ひとりの小さな心掛けが日本や世界を変えるのです。共に実践してまいりましょう。 鹿追町 禅昭寺
2014年10月25日放送「もう一回」私は何歳まで生きたい。私は十年後何をしているだろう。何歳になったら何をしたい。誰もが一度と云わず考えた事が有ると思います。 ここでみなさんに質問です、「もし明日死ぬとしたら最後に何をしたいですか?」 さて、何をしましょう。 誰にも明日が来る保証は有りませんが、「もし明日死ぬとしたら何をしたい」という質問の答えを今日実行する人はあまりいないのではないでしょうか。 なぜなら、多くの方には非現実的な質問であり、答えも現実味が無い為、今日やらなければと思えないのだと思います。 但し、明日が来る保証がない事は紛れもない事実ではあります。 そこで、質問の答えを、自分が最後に何をしたいかでは無く、最後に何をしてあげたいか、に換えて考えてみると今からでも出来る事が沢山あります。 普段の生活の中で、人に感謝する“ありがとう”。素直に謝る“ごめんなさい”。挨拶をする“おはよう”、“おやすみ”、“おかえり”、“ただいま”。当り前の事一つ一つの言葉に心を籠めて相手に伝える事だと思います。 特に“ありがとう”という言葉は最後に伝えたい言葉の一つではないでしょうか。 人それぞれの長さがある人生の中で、多くの事を成し遂げる事は誰にも叶う事ではありません。人に与える事も満足できるほど多くは無いかもしれません。 しかし、日々の生活の中に「ありがとう」をもう一回言う、この事を心のどこかにおいて日々を過ごす事ができれば、生涯の幕が下りる時、多くの事はしてあげられなかったとしても、多くの感謝は伝えられるのではないでしょうか。 縁あってこの世に生まれてきた命。明日、朝を迎える事が出来るなら、もう一回のありがとうで人に感謝し一日を始めたいと思います。 音更町 泰源寺
2014年10月18日放送「食事の前のお唱え事」
本日は、食事の前のお唱え事についてお話しさせて頂きます。
一般的には食事の前に手を合わせて「いただきます」と言う人が多いと思うのですが、修行道場では食事の前に「五觀之偈(ごかんのげ)」という五つの偈文をお唱えします。
10月も半ばを過ぎ、おいしい物が食卓に並ぶ事も多くなる時期ですが今一度ご飯を食べる。という事についてしっかり考えてみてはいかがでしょうか。 本日は、食事の前のお唱え事、五觀之偈についてお話しさせて頂きました。 ご静聴ありがとうございました。 豊頃町 大林寺
2014年10月11日放送「供養の心と形」以前テレビを見ていたところ、ドラマの中で法事の話が出てきまして、お嫁さん役の方が法事をするにあたって『大事なのは気持ちだと思います。仕来りにこだわる必要はないと思います』と言われました。それに対してお姑さんは『形や仕来りが第一、気持ちは形には表せない』といわれました。 これは供養では心と形どちらが大事かということでしたが、これを見て私は考えさせられました。 供養の形は『祈りの形』であってそこには古くからの人の願い、すなわち亡くなった故人の心の安らぎを願う祈りがあると思います。 古来、人が亡くなれば故人を北枕にして団子を供え死に水をとり枕元には白い花を飾ります。これらは全て、お釈迦様の臨終のお姿を模したものであり、お釈迦様のように仏の世界に行き達、お釈迦様の様な仏様になって下さいと願う。『祈りの形』と言えると思います。法事でも身支度を整え少々窮屈な思いをすることで、その時間と思いが『故人に対する想い』というものを、深める事となるのではないでしょうか。 供養の心ということでは、私がお世話になった方は『供養で一番大事なことは亡くなった方の事を、その子孫、縁者が忘れずにいることだ』と言われました。また、『その縁、恩に感謝の念を抱きながら日々の日送りをしなさい』とも言われました。 供養とは縁、恩を忘れぬ報恩の心と儀礼儀式の形をもって、故人の心の安らぎを祈ることではないでしょうか? 報恩供養御和賛という御詠歌に 『歳月いつか重ねきて遠くなりたる御親達いかで忘れん御教えの厳しき声と笑顔をば』とございます。先人の教訓、慈愛を日々忘れずに故人に感謝の思いをたむける為にも仏壇、御位牌を仰ぎ見て身を正し合掌をする日送りを共にしていきたいものでございます。 広尾町 禅林寺
2014年10月04日放送「一日一日を大切に」みなさまは毎日、様々な心の持ちよう健康のありようの方々と接しておられると思います。 先日、お檀家様のお宅で読経を終えまして、うしろを振り向きましたところ、そのひとり暮らしのお婆さまは高齢のためか足腰に力が入らず立ち上がることが出来ずにいました。私は、お婆さまの体を抱きかかえ立ち上がらせて椅子に座らせることをいたしました。するとお婆さまから「今朝お風呂に入っておけばよかったわ」と冗談を言いながら感謝のお言葉をいただきました。 先代の住職は言っておりました。「出来るひとが出来ないひとのことをやっておあげなさい」と。 「情けは人の為ならず」とも申します。これはご存知のように情けは人のためではなく、いずれは巡って自分に返ってくるものでありますから誰にでも親切にした方が良いということでございます。他人に世話をやくということは結局はためにならないとお考えの方もいらっしゃるようですが。 どうぞみなさま、ご家族はじめ、ご近所の方々、今日初めてお会いになる方ともお互いを尊重し支え合い一日一日を大切に豊かな人生を過ごされますよう願うところであります。 池田町 聖徳寺
2014年9月27日放送「観音様」秋のお彼岸が終わり、いよいよ北海道の厳しい冬に向けて準備を始めなければいけないところではないかと思います。 私事でありますが、今年の冬に祖母の七回忌の法要がございます。その祖母の思い出話と言ってはなんですが、昔こんなことがありました。 私の妹がまだ幼かった頃、当時80歳を過ぎていた祖母の隣に座り「ねえ、おばあちゃんは男と女どっちなの?」と質問したのです。祖母は苦笑いするだけで精一杯でした。 この話は家族の中ではずっと笑い話として語られてまいりましたが、つい先日、お世話になっている方にお子様が誕生して抱かせて頂いた時のこと。女の子と聞いておりましたが、失礼とは存じますが、見た目だけではどうもよくわかりませんでした。皆さんも産まれたばかりの赤ん坊を見て男の子なのか女の子なのかわからなかったことがあるのではないでしょうか。祖母と妹の話に似ているのですが、私は観音様が男性なのか女性なのか師匠である父に聞いたことがあります。 観音様は「観音菩薩」「観世音菩薩」「観自在菩薩」等、名称、呼び方も沢山あるのですが我々を救って下さる時には様々な姿かたちに変化すると言われております。姿を変えることができるので、もはや性別は超越していると言えると思います。 もしかしたら幼かった妹の純粋な目で見た、いつでも味方をしてくれる優しい祖母や、また産まれたばかりのかわいい赤ん坊は、その見た目だけでなく、観音様に近い性別を越えた尊い存在なのかもしれません。 私はヒゲが濃いので、見た目で女性に間違われることはないかと思いますが、少しでも観音様の様な尊い存在に近づけるように、日々精進していきたいと思います。 網走市 法龍寺
2014年9月20日放送「感謝の心」檀家さんのお婆さんがお孫さんによくこういうお話をされるそうであります。 「人から何かをして頂いたり、何かをもらったりする時は、ただ、して頂いたり、もらったりするだけではなく、それと同時にその人から「まごころ」を頂いている。だからその「まごころ」を無駄にしてはいけないし、当り前だとは思わず、感謝の心を持たなければいけない」と常々言っているそうであります。 感謝の心を持つ、持ち続ける事は人として大事な事であります。感謝の心というのは、辛い思い、苦しい思いをしている時に救いになるのが感謝の心であります。今の自分があるのは誰のおかげなのか、どれだけたくさんの縁で今の自分があるのか考えてみると、自分のお父さん、お母さん、たくさんの御先祖様のおかげで私達は生まれてきたわけでありますが、今の自分というものを考えてみると家族、親戚、友人など自分と関わったたくさんの人、又は、人というのは何をするにも自分一人では何も出来ません。例えば食べる事に関していえば、農家の人達が野菜を作ってくれているから私達は食事をする事が出来ます。直接、関わった人だけではなく色々な人のつながりで今の私達が存在するわけであります。これに気づくと自然と周りの人に感謝の心が湧いてくるものであります。 幸せだから感謝をするのではなく、感謝をするから心に幸せが生まれるわけであります。 そして、自分だけで思っているのではなく相手にきちんと伝えましょう。いつもお世話になっている人に感謝の気持ちを伝えてみてください。お互い幸せな一日が送れるのではないでしょうか。 大空町 禅法寺
2014年9月13日放送「お彼岸」私のお寺には大きな柳の木があります。落ち葉掃きをしながらあまりにもよく葉っぱを落とす柳に「それにしてもよく落とすなあ」と声をかけたことがありました。その言葉を気にしてか2年前の大風で真ん中から真っ二つに折れてしまいました。 ある時、頭を剃っているとふと落ち葉掃きを思い出しました。禅宗のお坊さんは頭を剃るとき「皆が欲を離れて仏様のような落ち着いた心に近づけますように」とお唱え言をいたします。頭を剃ること、落ち葉を掃くことは私自身の心の余計な欲を綺麗にしていくことに似ているのです。何かと愚痴を言いたがる私に柳が教えてくれている気がいたしました。
2500年程前の、お釈迦様の言葉にはこうあります。
皆さん、今日という一日が始まります。 昨日の私はもういません。変わること、努力や怠けないことには勇気が必要です。 今日から一週間で秋のお彼岸をお迎えいたします。お彼岸というのはまさしくこの気づきと勇気によって我儘で自己中心的な自分を乗り越えて成長させていく時なのです。 網走市 最乗寺
2014年9月6日放送「感謝」朝食をすでに済まされた方、これからの方、感謝の心で食事を頂いていますか。 今は飽食の時代と言われ、食べたいと思うものは比較的簡単に手に入れる事が出来、余れば捨てられてしまいます。 私が總持寺に安居(あんご)し菜頭(さいじゅうの配役をいただき典座寮(てんぞうりょう)にて仕事をしているときに感じた事があります。それは丹精込めて作った団参のお膳の料理が食べ残され捨てられている現状、食べるということは生きていく為の基本的な行動で健康を保つために食べるのです。人により好き嫌いがあるのはいたしかたがないのですが、せめて口を付けたものは残さないで食べてほしいと感じました。 食べるものがないために尊い命を落としている人々がこの地球上に数知れずいるという現状を忘れてはならず、人間の命は他の多くの命によって支えられ生かされており今こうして食べられることに感謝をし、すべてのものに生命があることを感じてほしい。 食べ物が口に入るまでにどれほど人の手が加えられているのでしょうか。たとえばお米一つにしてもそれを作る農家の人、農機具や肥料を作る人、それらを流通させる人など数え上げればきりが無いほど多くの人々の色々な苦労、たくさんの縁があってはじめてお米を食べることができるのです。 食べるものを粗末にすることは命を粗末にすることになります。食事は私たちが生きて行く為に生命を頂くのです。粗末に扱わず、今食べられる事に感謝の心を持ちましょう。 阿寒町 西来寺
2014年8月30日放送「心が変われば…」私たちは日頃、心によって物事を考え、心によってさまざまな行動を起こします。しかし、なかなか思い通りにならないのが現実です。そこでいろいろな苦悩が生じ、ある時は自分を責めたり、他に対して八つ当たりすることも少なくありません。では、どのような心で対応してゆけば良いのでしょうか。 「心が変われば、態度が変わる。態度が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば、人生が変わる」という言葉があります。心が変わると言うことは、まず自分自身をよく知ろうとすることから始めなければなりません。意外なことに、他人のことはよく分かっても、自分のこととなるとあまり気にしないことが多いのではないでしょうか。自分を知るには、自分の性格や長所、短所を冷静に分析し、少しでも変えていこうと努めること、未熟な自分も素直に認め、愛することも大切だと思います。そして生活習慣を少しでも良い方向へ変えていこうとする。なかなか思い通りにならなくても、結果を焦らず、一歩一歩進んでゆくことです。そうすると他への思いやりが出てくる余裕が生まれてくるのだと思うのです。 釧路市 定光寺
2014年8月23日放送「自らを照らす」あなたはもし、一人になってしまったらどうしますか? 何を道標に生きていきますか? 「自灯明」これはお釈迦様が入滅する時に説かれた遺言にあたるお言葉で、自ら進む道は自分自身が道を照らし、あなた自身が人生の羅針盤となりなさいという教えです。 戦前から戦後にかけての詩人、そして小説家として活躍した室生犀星という方が、孤独と貧困に喘ぎながらも文学生活を営む中で、このような詩を残しました。「故郷は、遠きにありて思うもの」彼が著した抒情小曲集に収められている中の一つの句です。 心の拠り所は遠くに離れてその大切さを知る。その心情を綴ったものですが、私達人間にとっての根本的な心の拠り所、心の故郷とは何か。それは父であり、母であり、あるいは家族といった存在ではないでしょうか。 今、自分の中にある灯明、それは知らず知らずのうちに背中を見て、追いかけて育った時の賜物、聖火リレーのように親から子へと受け継がれてきた道標でもあります。しかし、親というものはいつまでも私たちのそばにいてくれるわけではありません。その背中の偉大さ、優しさは近くにいる時は見えないものですね。これから生きていくなかでもしも迷ってしまうようなことがあったならば、心の故郷、かつて指し示してくれていた親の道標を思い出してみてください。自分の心の中には受け継がれてきた心の灯火があること、同時にその灯火は誰かを照らせる灯火でもあることを忘れずに、しっかり自分の足元を照らし自信を持って一日一日を歩んでいきたいものです。そして、ふと歩みを止めて振り返った時には、「自分が進んできた道は間違ってなかった」そう思えたら素敵ですね。 釧路市 宗仙寺
2014年8月16日放送「盂蘭盆会(うらぼんえ)」夕方の全国ニュースを観ていて、ふと疑問に感じたことがあります。GW(ゴールデンウィーク)などの連休の時には「観光客による渋滞」と言うのに対し、お盆の時には「帰省した方々によるUターンラッシュ」と言葉を換えているのです。「お盆の時には帰省するもの」というイメージが、なぜ定着しているのでしょうか? そこでお盆の由来について調べてみました。 「お盆」は、正しくは「盂蘭盆会」と申します。この語源はインドの古い言葉「ウランバナ」で、「亡くなった後も飢えや渇きに苦しんでいる状態」を表していると言われています。お釈迦様の弟子で特に修行を重ねた目蓮は、亡くなった母親が上に苦しんでいる事を知ります。亡き母の苦しみを何としても救いたいとお釈迦様に相談し、教えていただいた通りに供養すると亡き母親は飢えの苦しみから脱することができた…という故事が「お盆」の由来となっていました。 自らの父母、その父母にもそれぞれ父母がいて、そのまた父母がいる…つまりは「ご先祖さま」へと溯っていく。だからこそお盆になると、私たちは自分の命の源に手を合わせるのです。このご先祖さまへの感謝の気持ちが、「お盆の時には、先祖が眠る故郷(ふるさと)に帰省するもの」という形へと定着していったのでしょう。 今日は8月16日、お盆の法要の為にお寺にお参りする方も多いことでしょう。都合がつかずお参りに行けない方も、ご先祖さまへの感謝の気持ちを胸に、そっと手を合わせてみてはいかがでしょうか? 厚岸町 吉祥寺
2014年8月9日放送「いっぺんには出来ない」暑い日が続き、最近では急に天気が変化したりする夏の時期。7月、8月と地域により時期の違いはあるでしょうが、お盆の季節ですね。 今のお盆は施食(施餓鬼)という意味合いも含まれていると存じますが、御先祖様だけでなく、様々な者に施しを与え、苦しみを抜いてあげようというお坊さんの修業期間が由来だと学びました。 皆様もお盆を含め様々な時にお寺、お墓に足を運ばれると思いますが、まず何をされるでしょうか? 手を合わせる、合掌をする、ではないでしょうか? 手を合わせるという事は体をまっすぐにし、心を一つの思う方向へ向かわせる事と存じます。手を合わせれば自ずと他の事は出来なくなり、念ずる、祈念する、思う、という一つの行いだけになります。一つの行いに集中するというのは何においても大事であり、あれもこれもと手を出しては思うようにいかない。そういった体験は皆様もあるのではないでしょうか。 ニュースでも悲しい事件を目にします。運転に加え、飲酒、携帯電話の使用、そんな事を続けていたら悲しい結末が来ると想像出来ないものでしょうか? 手は二本あり、様々な事をまとめて出来そうであります。しかしそれを動かす心は一つでありますので過信してはいけない。そういう事も合掌という動作で気付けるのではないでしょうか? 先祖供養の始まりでもあり、自分を見つめ直す事の出来る合掌。お寺やお墓に足を運んで合掌するのはもちろん、普段の生活でも実践されてはいかがでしょうか? 根室市 耕雲寺
2014年8月2日放送「お経について思う事」あなたは「お経」にどのような印象を持っていますか。私は小さな時からお経を唱えることが多かったのですが、成人過ぎても只、漠然と「尊い教えではあると思うけれど、自分とは関わりが無いもの」と捉えていました。 そんな私がお経を身近に感じたのは修行の為、大本山永平寺に上山させて頂いてからのことでした。永平寺で最初に配属されたのは大庫院という仏様や修行僧に食事を作らせて頂く所でした。朝御飯の為に他の修行僧より早く起床し、元々包丁すらまともに扱った事ない私は何もかもが勉強で休む暇も無く、毎日が眠い、辛い、頭がボーッとしている状態で「こんなに辛い毎日がこれからも続く、いっそ辞めてしまおうか」と考えていました。そんな中、修行仲間から「今日の御飯美味しかったよ。御馳走様」と言われたのです。本来修行道場に於いて味の感想を口にすることは良いことではないのですが、この言葉を聞いた私は砂漠で水を得た様な感動と活力を頂きました。「今日は疲れたから簡単な物にしよう」と思った時も美味しかったと言ってくれた方がいるという事が私を奮い立たせました。 修証義というお経の中に「愛語」という教えがあります。愛情の愛に語るという字です。見返りを求めず相手の幸せを願い、思いやりの言葉をかけてあげましょうという教えです。修行前の私は「思いやりの言葉と言っても何を言えば良いのか」と迷っていましたが、「美味しかった。御馳走様」大それた言葉ではないこんな身近な言葉で報われ、救われる人がいるという実感を得る事ができました。 私が勝手に遠くに感じていた、正に敬遠していたお経。しかしそれはとても身近で、むしろ身近すぎて忘れがちになっている事を再確認させてくれる教えの宝庫でした。どうかあなたも身近な方への優しい言葉。そこからでもお経に親しんで頂ければと思います。 枝幸町 長林寺
2014年7月26日放送「大人 だいにん」ある時、お檀家さんがこのようなお話をしてくれました。お葬儀の時に火葬場で孫が泣き叫ぶんです。「おばあちゃんが熱いから、焼かないで」って。相手の身になって、素直に自分のこととして考えることを、あらためて小さな子供さんから教えてもらいました。 思い返してみますと、わたしが幼かった頃ちょうど夏休みに入ったこの時期には、よく虫かごと網をもって山や河原に行ったものです。そして網でバッタやトンボを捕まえたとき、足が取れたり羽がちぎれて「痛いね、ごめんなさい」と心の中でつぶやいたことを思い出しました。 今思えばそのような体験も、友人との関係において、または社会の様々な場面で、相対するものに心を働かせるための大切な勉強だったのだと思います。 仏教では修行を円満した人との意味で、仏さまのことを、漢字でおとなと書いて「だいにん」ともお呼びします。 私たちは毎朝、お仏壇の仏さまやご先祖さまに「おはようございます」と手を合わせ、わずかな時間であっても今あるこの命に思いをいたします。しかし一日が始まりますと、仕事や学業などの日常に追われて、いまこの命があることなどまったく意識せずに過ごしてしまいます。 だからこそ来る日も来る日もお仏壇に向かい静かに手を合わせることは、自分の大切な方たちがどのように生きてこの命をつないでくださったかを思い返すことで、いま私が生きているということを忘れず確認し、そして素直に感謝のできる、本当の大人、だいにんとなる為のたいせつな修行なのです。 士別市 玉運寺
2014年7月19日放送「命の繋がり」本日は自分の命についてちょっと考えてみましょう。先日、ある研修会でのことです。講師を務められたお坊さんが、命のことを考えてほしいと言われて次のようにされました。お聞きの皆さまも一緒にやってみましょう。「皆さん、手を出してください。その反対側の手で小指を掴んでください。小指は自分自身だと致します。その隣の薬指を掴みます。薬指は自分のお父さんとお母さんに当たります。さぁ、それではお父さんとお母さんの名前を声に出してはっきりと言ってみてください。はいどうぞ。次に中指を掴みます。お父さんお母さんにもそれぞれお父さんとお母さんがいます。皆さんのお爺ちゃんとおばあちゃん、全部で四人、声に出していってみてください。はいどうぞ。ではその次に人差し指を掴みます。皆さんのお爺ちゃんとお婆ちゃんにもお父さんとお母さんがいました。全部で八人、声に出して言ってみてください。はいどうぞ」 いかがでしょうか。お父さんとお母さんの名前、おじいちゃんとおばあちゃんの名前までは言うことができた。しかし、その先は言えなかったという人がほとんどではないでしょうか。私もその一人です。 四代遡ると十六人。八代遡ると二百五十六人。二十代遡ると百四万八千五百七十六人。三十代遡ると十億を超えます。四十代、五十代とまだまだ増えていきます。これは我々の御先祖様の数です。御先祖様に手を合わせる、感謝をするということはこれだけ多くの方々に対して行うということです。 その中で一人でも欠けたならば今の自分は存在しません。自分が知らないたくさんの御先祖様のおかげで途切れることなく繋がっている、これが私たちの命なのです。 岩見沢市 孝禅寺
2014年7月12日放送「和顔施」おはようございます。今私はまず最初に「おはようございます」と皆さんに挨拶いたしました。1日の始まりのこの挨拶、私はとても大好きです。朝起きて一番に功徳を積む行為だからです。 そもそも功徳とは何か、と申しますと簡単に言えば良い行いをすることです。例えば席を譲ってあげたり、荷物を持ってあげたり等、何でも構いません。誰かのために、何かのために自らすすんで良い行いをすること、その行いです。でもその良い行いをすることによって、我々はどこか心の片隅に良い事をすればそのうち自分にそれは返ってくると考えてしまいがちです。仏の慈悲、功徳と言うのは一切の見返りを期待せず、ただひたすらに良い行いをすることだそうです。これがなかなか難しい。見返りを期待しているつもりはないけれど、どこか頭の片隅でそんな考えをしてしまっているのではないか?と問われると一概に否定は出来ません。なかなか難しいものです。 ですが、朝起きておはようと挨拶をすること、このことに見返りを求める人はそうはいないと思います。笑顔で挨拶する事、ただそれだけで立派な布施の功徳なのです。これを「和顔施」と申します。朝起きるのがつらい人もいらっしゃると思います。それならお昼に「こんにちは」でも構いません。晩に「こんばんは」でも良いでしょう。また、ご飯を食べるときに「いただきます」「ごちそうさま」を口に出して言っていますでしょうか?本当にちょっとした事で忘れてしまいがちですが、すぐに行う事のできる功徳なのです。ほんのすこし心掛けて口に出して周りの人に挨拶してみましょう。もしかしたらこれだけでいつもと違った一日を過ごす事ができるかもしれません。 泊村 大雄寺
2014年7月5日放送「手を合わせる」昔ある番組で、「墓参りしてないから悪いことが起きるのだ」と言う話を聞きました。これは、皆さんが手を合わせている方は、皆さんが手を合わせないと悪さをするということです。本当にそうなのでしょうか? お墓に入っている方は誰でしょう? 皆さんのお爺ちゃんやお婆ちゃん、お父さんやお母さん、家族が入っているはずです。その家族が、「災い」をなすと言っているのです。皆さんは自分が亡くなり自分の子供が自分にお参りしないから、その子供を怪我させよう等と思いますか?思わないはずです。「まあ少し枕元に立ってやろうか」ぐらいは思うかもしれませんが…冗談です。でも、そのぐらいの気合で枕元に立ってくれたなら、私ならうれしい。怖いとは思わない、家族ですから。 家族が「災い」をなす事はありません。ではなぜお坊さんは、お参りしなさいと言うのでしょうか?私たちは裸で生まれ、喋ることも、食べる事も、寝返りをうつ事も出来ない、首すら坐っていない、自分では泣く事しか出来ない、そんな自分に生まれたのに、今生きている。必ず手を差し伸べてくれた人がいる事に気付かなければいけない。でなければ、今、私はいないのだから。人は知らずとも支えられて生きています。身近な人に感謝しましょう。手を合わせるという行為は、感謝の行為。どうぞ皆様も「ありがとう」と心を込めて手を合わせてみて下さい。 札幌市 薬王寺
2014年6月28日放送「相承」仏様の教え、それを師から弟子へと絶えることなく受け継ぎ伝えゆくことを「相承」といいます。 ちなみに「相」はきへんに目、相手の相、手相の相という字を書きます。 この文字の意味は、目が木に向かい合うということから、よく見て調べるという意味です。 また、向き合うことから「互いに助ける」という意味もあります。 また「承」は、伝承の承、前のものを受け継ぐ、相手の意向を受け入れるという意味の文字です。 さて、師匠から弟子へと、相伝えてゆく仏法とは、どのようなものなのでしょうか。 お経、儀式、作法、様々なことがありますが全てをひっくるめて「以心伝心するもの」なのです。 この以心伝心は、伝統技能や、技術の習得におおける師弟関係でもよく見受けられます。 技能・技術は習得段階が比較的わかりやすくまた、師匠となる人も、弟子と同じ体験・経験を経ているので、より適切に導くことができるのです。 この場合、師は弟子の心の動きを察知して、正しい道へ導くことになります。 仏道では師匠はより高い境涯、例えば山のいただきから、登山道を上ってくる弟子を観察しているようなものです。弟子は師匠をめざし、やがて頂上にいたります。山の頂上から見た下界の眺めは、経験した者にしかわからないことです。この経験の共有を以心伝心といい、そこに至る境涯を相承というのです。 私も改めて、仏様の教えを、信念と意義と真心もって、後の人々に「相承」できるように心がけたいと思うものであります。 小平町 正法寺
2014年6月21日放送「誕生と命日」先日、49日を迎えたお檀家さんにこんなお話しをしました。 亡くなって一年後は一周忌、亡くなって二年後に三回忌。 数え年で数えると分かりやすいですよ。 亡くなって一歳、一周忌で二歳、三回忌で三歳。とんで七回忌で七歳。 この世に生まれて歳をとるごとに両親から祖父母から、友人からも誕生日を祝福してもらい。生まれてきた子供の誕生日も同じように祝う。 最近「三回忌を終えたらそれっきり」という方が増えているそうです。 こんなに寂しい事はないと思います。 祝う、では無く「悼む」という言葉がございます。 死後の平安を祈る、冥福を祈ると同じ意味を持ちます。派手でなくても良い、 静かでなくても良い、 たった一人でも良いから、「悼む」心を持ってご先祖様、亡くなった方に祈りを 捧げていただきたいと思います。 最後に、ライマン・マッケイ&クリス・メイナード監修『世にも奇妙な遺言集』 の一節より、イギリスの女性政治家ナンシーアスターの遺言を紹介します。 彼女は死の床で目を覚まし、覗き込む家族を見てこう言いました 「私は死ぬところなの?それとも誕生日?」 今日も、誰かの誕生日、そして命日です。 伊達市 興禅寺
2014年6月14日放送「幸せのはひふへほ」ある国の大統領が「不幸な人とは、無限の欲があり、いくらモノがあっても満足しない人のことだ」と言いました。私たち人間は、あれも欲しいこれも欲しいと求めてばかりで、それが足りていても、もっと欲しいという欲が浮かんできます。満ち足りないからこそ欲が生まれ、欲張ることによって苦悩が生まれるのです。 禅の修行で何よりも大事なのは、欲を少なくして満足することを知る心のあり方なのです。禅道場は一汁一菜の質素な食事です。それでも充分おいしいと感じ、自然と感謝の気持ちで満たされます。
「幸せのはひふへほ」というものがあります。 人よりも優れていたい、うらやましいと欲張らずに、半分で、人並みで、普通で、平凡で、 「程々がちょうどいいと考えてみれば、スッと気持ちが楽になる気がします。」人生の達人というのは、常に分限を知って満足することのできる人なのでしょう。 安平町 見龍寺
2014年6月7日放送「ごきげんよう」
現在、放映中のNHK連続テレビ小説「花子とアン」では「ごきげんよう」という挨拶を
よく耳にします。そこで「機嫌」について調べてみました。
辞書を引くと、その解説に 更に、この機嫌ということば、元々は仏教の戒律の一つ「息世譏嫌戒」から出たことばだということを知りました。この戒は「時の人々のそしり嫌いを受けないようにしましょう」というものです。しかし道元禅師のおことばは敢えて、時の人々の機嫌をかえりみないで、一心に仏道に励むべきである、ということが説かれています。この場合、人の機嫌とは、今風に言えば社会的評価とか、評判ということになります。 勿論世間の人々に、立派な人・力のある人・きちんとしている人というような高い評価を受けることは素晴らしいことです。しかし、敢えてそれらを考えず自分ができることに全力を尽くすことが大切なのです。「第三者の評価を意識した生き方はしたくない。自分の納得した生き方をしたい」とは、有名なイチロー選手のことばです。 私たちもかくありたいものであります。 それではみなさん、ごきげんよう さようなら 札幌市 真龍寺
2014年5月31日放送「ありがとう」皆さんは普段、感謝の気持ちを言葉に表していますか。『ありがとう』というたった5文字で人はあったかい気持ちになれるのです。毎日の生活が当たり前の様に過ぎていき、つい忘れてしまいがちな感謝の心を見つめ直してみましょう。 優しく、親切に接してくれる家族や友人であったり、職場の人、近所の人など、到る所に感謝の心はあります。 先日、風邪をひいてしまい、寝込んでいる私の部屋へもうすぐ4歳になる娘が満面の笑みでかけ寄って来て『いつもありがとう』と言って、おおよそキレイとは言えない折り方で折った手紙をくれました。中身はもちろん本人なりの一生懸命描いた似顔絵で、私は思わず『ありがとう』と言いました。 娘が感謝の心、真心をもって私に手紙を書いてくれ、その娘に対しても私も感謝の心で『ありがとう』と言う。 何気なく過ごしている毎日の中にはたくさんの感謝の心がこもっているのです。そんな毎日の生活を再確認してみましょう。 今では娘のくれた手紙は私の宝物になりました。『ありがとう』 安平町 瑞雲寺 2014年5月24日放送「手を合わせる」5月も終わりに近づき、北海道はやっと春らしくなってまいりました。北海道はほとんどの地方で毎月お坊さんが月命日にお経をあげにくる月参りというものがあります。私も毎日、檀家さんの家にお経を上げにお勤めに行っておりますが、多くの方が私がお経をあげている後ろにすわり、手を合わせています。そして仏壇にむかって心の中で何か会話をしている気がいたします。 亡くなってしまわれた自分の大切な方、またはご先祖様と交信する唯一の方法は「心の中で話しかける」ことです。言い方を変えると「心の中で念ずる」ということです。自分の心の中で亡き方と会話するのはなにより大切なことです。 それにくわえて、私たちは想いを形にすることも大事だと思っております。亡き方と会話するときは、その方のお仏壇やお墓にお花を供えて、ロウソクに火を灯し線香をあげる。生前に好物だった物を供えたり、お坊さんにお経をあげていただいたり、定期的に仏壇をきれいにすることも大切です。そうすることで、もっと身近にご先祖様を感じることが出来ます。また、自然と手を合わせているあなた様ご自身にも、何か気付くことが必ずあります。 亡き方を想い、手を合わせる。これが皆様が積み重ねるべき功徳であり、あなた様の大切な方へのなによりのご供養となります。 心の中だけではなく、目に見える形でご供養することは、誰より皆様のご先祖様がお喜びになられることと思います。どうぞ、ご先祖様を大切に想う気持ちを忘れずにお過ごしください。 夕張市 禅峯寺 2014年5月17日放送「玄関」普段何気なく口にしている「玄関」という言葉の意味についてお話させて頂きます。 改めて意味を聞かれると知らない方も多いですよね。でも調べてみると、こんな深い意味がありました。もともと「玄関」は仏教語のひとつ。「玄」は奥が深い悟りの境地を意味し、「関」は入り口を示しています。二語を合わせた「玄関」は、玄妙な道に入る関門、つまり奥深い仏道への入り口という、深い意味があるようです。 仏教からきた言葉という事からも分かるように、玄関という言葉の生まれは中国。日本には当初、「お寺の門」という意味で使われ実際に書院造や禅寺の客殿などの出入り口がそう呼ばれていました。そして禅寺を真似た公家の屋敷や武家屋敷に玄関が見られるようになり、家の格式の高さを示すシンボルとなっていきました。江戸時代が終わり身分制度が廃止されると、武士以外には禁じられていた玄関や門が庶民の家にも登場しはじめ、釜戸や流しを置く、台所を兼ねた玄関が見られるようになります。またこの頃「玄関=建物の出入り口」という現在の意味が定着します。 何気なく使っている言葉にもいろいろな情報が隠れているものですね。私たちは日々次から次へと様々なことに流されて、自分のことを静かにみつめる機会がありません。「灯台もと暗し」というように、他人のことはよく分かりますが、自分のことは分かりにくいものです。他人の批判はできても、自分の批判はなかなかできません。他人のことを論ずるより、まず自分を見つめなくてはいけません。どんなに忙しい時でも、履物を揃えて脱ぐくらい、心のゆとりが欲しいものですね。 伊達市 大雄寺 2014年5月10日放送「心の落ち着きが大事」私には四人の子供がいます。小学1年生の長女を頭に、3歳の長男、2歳の次男、そして今年2月に三男が生まれ、妻と子育て奮闘の真っ最中です。 「4人ともなると大変でしょ」とよく言われます。勿論楽なわけはありません。1人目の時でさえ「子育てって大変だな」って思っていましたが、4人ともなれば、毎日が賑やかを飛び越している状態です。そのような状況の中に居ますと、いくら我が子とはいえストレスが溜まってきます。 そんな日の夜でした。私が、ギャーギャー泣いている赤ちゃんのオムツを替えていた時に、一方で兄弟喧嘩が始まりました。長男が怒鳴り散らし、次男がワーワーと泣き叫んできました。両手はふさがり、喧嘩の仲裁と、体の疲れと精神状態もイライラの限界になり出した時に、ふと長女が私に話しかけてきました。 「あのね。」私はつい、ギッっとした目つきで長女をにらみ、「お姉ちゃんも歯を磨いて早く寝なさい!いつまで起きているの!」と、きつく当たってしまいました。長女はすごく寂しそうな顔を浮かべ、今にも泣き出しそうな表情のまま妻の方へトボトボと行ってしまいました。 娘はおそらく、接する時間が短い父親との会話を楽しみたかったのでしょう。自分が愛娘に冷たい態度を取って悲しませてしまったことに深く反省いたしました。 いつも気を付けているはずなのですが、急な事態であたふたすると、いつの間にか心に余裕がなくなってしまい、結果失敗を招いてしまいます。 お釈迦さまは、「禅定を修めていれば心が散乱することがない」と説かれておりますし、道元禅師も「坐禅に徹底することが仏道の正門」と、心を落ち着かせ、正していくことをお示しくださっています。 人間は心安らかに保ち、落ちつきを得ていないと正しい判断ができなくなるものなのだということを痛感いたしました。 「こういう時にこそ心の安らぎと落ちつきが必要なんだよ」ということを、娘を通じて再認識させていただいた日でした。 苫小牧市 定賢寺 2014年5月3日放送「くれない族」皆様方は、くれない族という言葉を御存知でしょうか。くれない族とは〜してくれないとよく口にする人や、そういった考え方の強い人の事で、くれない族は1984年、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、テレビで放送された田村正和さん、大原麗子さん主演のドラマ、くれない族の反乱から生まれた言葉です。 くれない族とは〜してくれないですから、例えば、分かってくれない、慰めてくれない、挨拶してくれない、感謝してくれない、といった事です。皆がしてくれるはずだ、自分は黙っていても、皆がしてくれるはずだ、でも、してくれない。だから、自分は不幸だと。皆様方はどう思われますか。 さて、皆が皆、同じ見方、考え方をするとは限りません。〜してくれない、と人に言い、人が態度や考え方を変えてくれるなら、世の中幸せですが、そんな事はまずありえません。〜してくれないは、他人に対する私達自身の依存心ではないかと思います。人が変わらない、と悩んだり、嫌な思いをしたり、腹を立てたり、立ち止まっていても、限りある時間の無駄になってしまいますし、根本的な問題は何も解決致しません。 人が変わらないなら、まず、自分が変わらなければならないのではないでしょうか。そして、自分自身の物事や人に対する見方・考え方を変えていかなければならないのではないかと思います。幸せは自分の心が決めるという言葉がありますが、まさにこの言葉通りだと思います。日々、くれない族にならないよう、努力したいものです。 夕張市 錦楓寺 2014年4月26日放送「本物とは」この度「本物とは」という題名で法話を致しますが、皆様は“真似”というとどの様な印象をお持ちになるでしょうか。 私がある一軒のお宅に御月参りにお伺いした時のことです。お経を始める前に何となくお供えの丸餅が目に入りました。艶があり大きさも揃っており、とても綺麗な丸餅でした。それから何度お伺いしても同じ大きさで同じ艶、方向もきちんと合わせてお供えしておりました。 その時私は大本山永平寺の七十八代目貫首、宮崎奕保禅師のお言葉を思い出しました。 宮崎禅師は「仏の真似を一日真似れば一日の仏、三日真似れば三日の仏。一生真似ればそれは本物だ。」と言っておられました。真似をすることは簡単ですが、真似をし続けるとなると、なかなか難しいものです。 諸説ございますが、「学ぶ」は「真似る」の語源とも言われております。 皆様も今日から小さな事で良いと思います。初めは型から入るのも宜しいでしょう。中途半端に真似るのではなく、きちんと何かを学ぶつもりで良い真似を始めてみては如何でしょうか。 継続していけば、きっといつか本物になると思います。 江別市 禅龍寺 2014年4月19日放送「初心忘るべからず」清新の気風である四月の半ば、皆様はどのようにお過ごしでしょうか?進級や進学、就職による新しい環境になじもうと一層励まれているところでしょうか。 春の四月はだれしもが新しいステップに立つ季節であり、みなさんそれぞれが新鮮な気持ちを持って発心し、新しい物事に取り組まれる時期であります。 しかし、この初心というものはとても肝心なものです。かの道元禅師は「発心正しからざれば万行空しく施す」と、まず最初の踏み出しの第一歩の姿勢を正せとおっしゃいました。自らのやる気・求める心が何に向かって、どう志をおこすかがしっかりしていないと、気持がぶれたり何も得ずただ時間だけが無駄に流れていくものです。 さらに、その発心も一度起こせばよいというものではありません。道元禅師が「一発菩提心を百千万発するなり」とおっしゃいましたように、今日も明日もつねに発心し退転せんとする心を奮い立たせ、横にそれようとする心を軌道修正しながら相続することで初めて道は成就されるのです。 私たちの新鮮な気持ち・発心は、年月が経つほどに勢いは次第に衰え、惰性に流れがちです。しかし、その新鮮な気持ち・初発心をつねに持ち続け、惰性に流れようとする自分の姿勢を立て直し歩み続けることが大切なのであります。 禅の言葉に「三十年来行脚し来たれ」という言葉があります。これは結果を待たず、歩みの一歩一歩に初々しい発心の思いをもって、修あるのみという姿勢で歩き続けよというものです。 皆様も新しい環境に対して臨む初々しい気持ちや心構え・発心を忘れずに毎日の生活を大切にお過ごしください。 札幌市 薬師寺 2014年4月12日放送「今でしょ!」「いつやるか?今でしょ!」「誰がやるか?君だよ」 昨年、ある予備校の先生がコマーシャルで言った言葉で、流行語大賞にも輝いた言葉です。これは受験生に対して、今が勉強する時でしょう。今やらないで、自分がやらないでいつ誰がやるのと、受験生を叱咤激励した言葉だそうです。 この言葉を聞いてあることを思いました。それは、道元禅師が中国に修行に渡られた時のこと。あるご老僧が炎天下に汗を流しながらきのこを干していました。その姿を見た道元禅師は、このようなきつい仕事は若い人に任せればいいのにという思いで、「なぜこの仕事をあなたがやらなければいけないのか」と尋ねました。すると老僧は「他人のしたことは、私のしたことにならない」と。道元禅師は更に「では、涼しくなってからなされたらどうか」と尋ねると老僧は「またとない時をやり過ごして、いつやるというのか」と。道元禅師はこの言葉を聞いて自分の未熟さを痛感されたそうです。 私たちの人生は過去の今が積み重なって現在があり、現在の今が積み重なって未来を作り上げていきます。過去と未来を繋いでいるのが今ですから、今を大事にしていくことが過去を無駄にせず、より良い未来を築きあげていくことになるのです。 年度が変わり新たな環境で、新たな心境で臨まれている方も多いことでしょう。 「いつやるの?」「今でしょ!」「誰がやるの?」「自分でしょ!」 またとない今を大切にすることが、新生活をより豊かなものにしてくれることでしょう。 岩見沢市 孝禅寺 2014年4月5日放送「唯我独尊」今月八日は、お釈迦さまがお誕生になられた日でございます。お釈迦様は、お生まれになられてすぐに七歩歩かれ、右手で天を、左手で大地を指され、「天上天下唯我独尊」と言われたそうであります。 これは「この世に自分より尊いものはない。つまり一人一人が一つしかない命をいただいている尊い存在である。」という意味です。 今の世の中、毎日のように、ニュースや新聞で痛ましい事件が後を絶ちません。 とてもつらく悲しい事であります。 この事は、お釈迦さまが言われた「天上天下唯我独尊」この世に自分より尊いものはない。ひとりひとりが1つしかない命を頂いている尊い存在であるという精神からかけ離れております。 自分自身がこの世界で唯一の存在ならば、あの人もこの人も、尊い存在なんだということを忘れてはいけません。そのような気持ちで他人と接することが出来れば、他人のことを思いやることも出来るし、やさしく接する事も出来ると思います。一人一人がこの事を心がけていけば、つらく悲しい問題も事件も起こらなくなると思います。 新年度を迎え、入学、就職など、多くの出会いがある時期でございます。新しい出会いを迎える時には、不安や期待など色々な気持ちが起こるものです。 その時に、もう一度「天上天下唯我独尊」の教えを思い出していただければ、お互いに新しくいい出会いの時を迎える事が出来ると思います。 新年度、気持ちあらたに、今一度「唯我独尊」の教えを心がけていきましょう。 札幌市 禅燈寺 2014年3月29日放送「怒り」
本日は御仏のみ教えの中でも、一番守ることが難しいと言われている「不瞋恚戒(ふしんにかい)」についてお話をさせて頂きます。
仏教では私たちの住まわせて頂いているこの世界を「娑婆」と言います。これはインドの古い言葉で「サーヴァ」という単語から来ているのですが、「異なる物が寄せ集まっている」と言う意味です。
仮にこの世が全て自分のもので自らの支配下に置く事が可能であれば、何でも思い通りに事が運ぶのでしょうが、自分以外のもので出来ている世の中ですから、そうは行かないのが当たり前です。
ところが私達はいつしかこの事を忘れてしまい、何でも自分中心に考えてしまい、物事が思い通りに行かない場合にイライラしてしまうのではないでしょうか。
イラッとした時は、一歩立ち止まり心の中の空気を入れ換える様にしたいものです。 札幌市 天童寺 2014年3月22日放送「仏道」日々強くなる日差しに春の訪れを感じる今日この頃。ただ今春のお彼岸です。昼と夜との長さがほぼ同じという、この時期に修行される春のお彼岸は「仏道実行週間」と言えましょうか。お寺参り、お墓参りに行く、ご家庭のお仏壇でお参りするなど、普段より一層ご先祖様を大切にして、仏道に精進する一週間でありたいものですね。
さて、仏道とは「ほとけさまのみち」と書きますが、その道には、どのような意味があるのでしょうか。 華道、書道、柔道などなど日本には「道」とつくものがたくさんありますが、それぞれその道を通して学ぶ人の生き方なのですね。私たちは道を通して古きよき教えを学び、受け継ぎ伝えて来たのではないでしょうか。 仏道、それは仏様から学ぶ人としての生き方です。より人らしく、仏様の心を持って毎日の生活を送るために、ご先祖様を大切に、ご家族を大事に、仏の道を真っ直ぐに歩みたいものです。 札幌市 大宥寺 2014年3月15日放送「座禅のすすめ」
皆さんはなにか悩み事があるでしょうか。 例えば一カ月前に前に一度だけ嫌なことを言われたとします。しかしそれを何度も何度も頭の中で思い返し百回繰り返すと、たった一度だけ言われた嫌なことが、百回言われたことになってしまいます。全く同じ一言を言われてもすぐに立ち直る人と、いつまでも悩んで落ち込んでしまう人がいるのはその為です。悩まない為には、頭の中で考えて繰り返すということをやめていけばいいのです。 曹洞宗の教えには、何も考えずにただ坐る座禅というものがあります。座禅をして何も考えずに、頭の中で繰り返すことをやめていく。そうすることで、もう悩まない人生を歩んでいくことが出来ることと思います。皆さん、これを御縁にお寺で座禅をしてみてはいかがでしょうか。 札幌市 峯光寺 2014年3月8日放送「柔軟心」
皆様方は日頃、他人についてどのような考え方をされていますか。
他人についてどのような考え方をするかにより、他人に対する私達の行動や、相手に対する感情は変化していきます。そして、人についての考え方は、相手との人間関係がうまくいくかどうか、幸せな気持ちで過ごす事ができるかといった事に大きな影響を及ぼします。ですから、人についての考え方が適切でなければ、私達の人間関係や社会との関係も良好ではなくなってしまう可能性が高いのです。
心理学では一般に、決めつけた考え方というのは、自分の頭になるべく負担をかけない、或いは気持ちを落ち着けたりするために、私達人間が自然に身につけた、自分を守って生きていくための適応策の1つだと考えられています。この決めつけた考え方が極端でなければ問題はありませんが、この考え方が人間関係や社会との関係に悪影響を及ぼすような場合には、人を見る眼を養う事が必要となってきます。 夕張市 錦諷寺 2014年3月1日放送「尊い自分」長く厳しい冬の北海道にも、ようやく春の兆しが感じられるようになりました。 さてこの世にあるものは全てお互いに関連しています。草や木・鳥や獣・人間はもとより、水も空気も含め、何ひとつとして独立して存在しているものはありません。 そしてそれらは全て、かけがえのない存在なのです。つまりは、私自身・あなた自身が、かけがえのない尊い存在なのです。同様に全て存在するものは尊い、ということになります。
私達の大本山永平寺の山門には このように、水に限らず、空気でも、食事でも、ガソリンなどのエネルギーでも、それらのものが、かけがえのないものであり、自分と等しい尊い存在である、と考えれば、何一つとして粗末にできるものはないのです。水や空気を汚すということは自分自身を汚すということです。 これは、人間関係にも言えることです。御先祖様を大切にする人は、自分自身を大切にしています。そのような人は自分の周りの人々も大切にしているものです。 春のお彼岸も近づいてまいりました。尊い自分に目覚めて、周りの人や、自然の恵みを大事にして暮らしてゆきたいものです。 江別市 秀岳寺 2014年2月22日放送「いただきます」
私たち日本人が用いる挨拶に「いただきます」という言葉があります。食事をする前に、また物をもらうときなどに用いますが、感謝の形と心を表すこととして、仏教の精神とともに伝えられた、日本独特の文化です。この言葉は英語等、外国語にピタッと当てはまる表現はないようです。諸説あるようですが、「いただきます」の「頂き」は、山の頂きを書きますが、これは人からものをもらうとき掲げたりすることから、また禅寺では食事の前におかゆの入った器を掲げ御経を唱えし、それから食事をいただきます。そのような動作から「頂きます」となったそうです。
また、人から物をもらうときなど相手を敬い、尊敬の念を持ち、「いただきます」を用いるのです。
「いただきます」とは感謝する心です。また「有り難う」と頭を下げる事でもあります。さまざまな恵みや、恩恵があり私たちは生かされているのです。 石狩市 龍澤寺 2014年2月15日放送「涅槃会」今日、二月十五日はお涅槃会。お釈迦さまのお亡くなりになった日です。 二月に入りますと、それぞれのお寺の本堂には、お釈迦さまの様子を描いたお涅槃の掛軸がまつられます。頭を北に顔を西に向けて右わきを下にして横たわっています。その周りには大勢の弟子たちや信者、動物たち昆虫に至るまですべてのものたちがお釈迦さまの死を悲しみ泣いています。 お釈迦さまは、二十九歳の時に出家し、三十五歳で悟りを開きます。その後、四十五年の長きにわたり布教伝道の旅を続けられました。 そして八十歳の長き生涯を終えられようとしているとき、お釈迦さまは、弟子たちや集まったものたちへこれが最後の説法であるぞと静かに話されました。「弟子たちよ、いたずらに悲しんではならない。どのように長く生きようともすべては無常の中に生かされているのだ。会うものは必ず別れ、生まれたものは、必ず死ぬのである。私が説いて来たみんながしあわせとなる教えと、自分を信じて正しい行いを精進して行きなさい」とさとされました。 私たちは、偉大なるお釈迦さまの最後のお言葉に寄り沿って今日を精一杯に生きて行きましょう。 北広島市 龍仙寺 2014年2月8日放送「越冬」北海道の長い冬も、終わりに近づいています。冬に檀家さんのお宅へお参りに伺うと、どうしても凍てつく寒さと降り積もった雪の話をすることが多くなります。「寒いのは嫌だね」とか、「雪はもういらないね」などと繰り返し言いながら歳を重ねてゆくのが、北国で暮らす私たちの生活様式なのかもしれませんね。 「何事も かはりはてたる 世の中に 知らでや雪の 白く降るらむ」という歌があります。作者は、今から400年と少し前の戦国時代、織田信長の部下であった佐々成政です。何もかもが変わってしまったこの世の中なのに、雪はそうと知らないのか、前と同じように降り積もっている。織田信長から、豊臣秀吉の天下へ、世の中が移り変わったことを嘆いた歌だとされております。 お釈迦様が諸行無常という言葉でお示しになった通り、あらゆるものは移り変わっていきます。自分自身も、周りの人々も、環境も変わっていきます。去年の冬と今年の冬は、同じようでいて、決して同じではないのです。 しかし、移り変わっていくことを嘆いてばかりもいられません。以前NHKのドキュメント72時間という番組で、東京の墓地にお墓参りに来ていた女性が、「昨日があって今日があって明日があるのと同じで、父と母がいて今の子供たちがいてその先に孫がいてつながっているわけだからお参りに来るのだ。」とおっしゃっていました。 おそらく私たちの御先祖も、私たちと同じように、寒さや雪の話をしながら目の前の冬を乗り切ってきたのでしょう。そして私たちが毎年やってくる冬をつつがなく過ごした先に、きっと次の世代の命があるのですね。 次につなげる冬、そう考えて残りの冬をすごしてみませんか。春は、もうすぐそこです。 千歳市 大禅寺 2014年2月1日放送「東北旅行」これは町の子供たちと一緒に東北に旅行に出かけた時のお話です。 この時、わたしが残念に思ったのは天気のせいでも電車のせいでもなく、誰一人として子供たちに声をかけ、行動する乗客がいなかったことです。せっかく座れたこの席を譲れば自分が損をする。なぜ見知らぬ者に譲らなければならないのか。何の徳もないことだ。知らぬ存ぜぬ無関心。これが今の世の中なのかと目の前に突きつけられたような寂しい気がしました。この時の子供たちは一体、何を感じたのでしょうか。社会の中で人の優しさに触れずに育つ子供たちは、果たして本当に人に席を譲ることが出来る大人へと成長してくれるのでしょうか。知らぬ存ぜぬが当たり前のように思ってしまうのではないでしょうか。 このままではいけません。私たち一人一人の行いは、そのままが未来へと繋がっているのです。あなたの優しさの行いは必ず人に伝わり、お互いが笑顔で結ばれます。そして、その優しさの行いはさらに人から人へと伝えられていくものなのです。 伊達市 大雄寺 2014年1月25日放送「和顔愛語」
子供が幼稚園に通う日々の中で、先生と子供たちを見ていて改めて考えさせられることが多々ある。 苫小牧市 中央院 2014年1月18日放送「感謝の心」
新年になり2週間以上過ぎましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
「ありがとう」文字にするとたった5文字のこの言葉ですが気恥ずかしさや意地になったりでなかなか言えないことがあると思います。
その時は正直、そんなことを思っているとは思いもよらなかったので驚き「いや、いいよ」と返すのが精いっぱいでした。ただ心の中では「ああ、そんな風に思ってくれてたんだ」と暖かい気持ちが沸々と湧いてきました。
最近では「ありがとう」と思っていてもなかなか言葉に出して伝えることが出来ない人が多くいるかと思いますが、「ありがとう」と相手に言うことは、自分の感謝の気持ちを伝え、相手の心を優しい気持ちにしていくものです。 小樽市 正光寺 2014年1月11日放送「向き合う伝える支え合う」ある混雑している場所での出来事です。イヤホンを付けて携帯電話を使用している青年と、その横には電話でお話をしている男性がおりました。青年が移動する際、手で引っ張っていたバッグが男性の足にぶつかりました。青年はそのことに気づいたのですがチラッと振り向き、ちょこっと頭を下げただけで行ってしまわれました。 男性はものすごい目つきでその青年をにらんでおりましたが、もしその時青年がひと言「通して頂けますか」と言っていたなら、ぶつかった時にきちんと謝っていたなら、又、男性が電話で話に夢中にならずに通話を控えていたなら周りのことに気が付くことができたのでは、と思いながら私自身「気を付けなければなあ」と教えて頂きました。 このような出来事は、いろいろな場所でさまざまな形でございますよね。「自分さえよければ」ということではなく、自分の行いをみつめ、相手と向き合い、お互いに気持ちや思いを伝えあい、尊重し理解し合い、共に仲よく支え合いながら過ごしてまいりましょう。 古平町 禅源寺 2014年1月4日放送「年頭のご挨拶」本年もまた、当「曹洞宗の時間」をよろしくお願い申し上げます。 さて、東日本大震災以来、地球規模での天災が続いています。本道でも昨年3月には、爆弾低気圧による猛吹雪で、道東方面で痛ましい死者がでてしまいました。国内では台風26号による伊豆大島の災害、フィリピンでは台風30号の高波による、大災害等々。これら、未曾有の大災害の犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたしますとともに、このような大災害が起こらないことを、切に願うものであります。私たちは常に、自然の恵みを受けると同時に、その災害にも遭遇してしまうものです。例えば、野山に積もる雪は、大きな恵みをもたらしてくれるものですが、一方で、しばしば、雪害を起こし、私たちを苦しめます。これらは、人生上に起こる、悲しみ・苦しみや、喜び・楽しみと同じことでもあります。 生きているからこそ、幸福と不幸や苦楽を感じることができるのです。私のところでは、昨年ふたごの弟が亡くなりました。常に健康に気を遣い、よく精進しておりましたので、私よりも、ずーっと長生きするものだと思っておりました。辛い出来事ではありましたが、「世はみな無常なり」という、お釈迦様のみ教えをあらためて、実感させられたものであります。 お聞き取りの皆々さまには、今年一年、健やかに、心穏やかにお過ごしになれることを心からお祈り申し上げるものであります。 曹洞宗北海道管区教化センター 統監 |
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