法  話

HBCラジオ「曹洞宗の時間」(毎週土曜 午前6時15分〜6時19分)にて放送された、
北海道各地のご住職の法話を掲載しております。
また、実際にラジオで放送された音声データの配信も行っております。

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2012年12月29日放送

今年も残す所あと数日、12月は師走といい由来の一つに僧侶が仏事で走り回るぐらいの忙しい月と平安末期の「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」に説明されております。

皆様も大掃除や新年を迎える準備などに毎日忙しく過ごされていると思います。その中、一年を振り返ると改めて時の流れの早さを感じます。北海道は自然が多く四季がはっきりとしております。

厳しい冬を乗り越え、雪解けの春を迎え、爽やかな緑の夏、お盆を過ぎると涼しくなり、豊かな実りの秋、そしてまた雪を見て正月を迎える、こうした自然の移り変りを感じる事がまた時の流れの早さを感じる事の一つだと思います。

修証義(しゅしょうぎ)の言葉に
光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、身命は露よりも脆(もろ)し。いづれの善巧方便(ぜんぎょうほうべん)ありてか、すぎにし一日をふたたびかへしえたる。」 月日の過ぎるのは例えると、放たれた矢よりも早いし、私たちの命は朝露よりも儚(はかな)い、どんな方法を尽くしても、過ぎ去ってしまった一日、時間は取り戻すことは出来ない。とあります。

ですから、この与えられた命を大切にして日々の生活を送り、生かされている事に感謝し、変える事は出来ませんが過去を振り返り反省しまた歩みを進める。そうすれば少しでも良い時の流れを感じる事が出来ると思います。

また新しい年を迎えようとしております。皆様も良い年をお迎え下さい。


京極町 龍門寺
中川 玄雄さん


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2012年12月22日放送

みなさんは大切な人の手のぬくもりを覚えていますか?ごつごつした働き者の手・柔らかくあたたかい手、人の数だけ色んな手があります。

わたしは家族で旅行や食事に行った記憶がありません。家族の誰かがお寺の留守番をしなければならなかったからです。休日は友達が遊んでいるのを横目に、お寺のお勤めを手伝わなくてはならなく、親に反抗した事もありました。父とは口を開くといつもケンカになり、いつしか手も触れる事さえもためらうようになりました。

数年前、そんなわたしと助手席に座る父。葬儀の帰りに二人で家路を急いでいた時のことです。立派な角を持った鹿が目の前に現れ、わたしは思わず「わぁ」っと急ブレーキをかけ、とっさに腕を伸ばし父をかばっていました。父は何を思ったのか、わたしの伸ばした手を握り締めていたのです。

わたしは動揺した。ほんの数秒の出来事でしたが走馬燈のように父との少ない少年時代の記憶がよみがえったのです。父の手はシワシワながら、昔と変わらぬぬくもりを感じました。それ以来、父には車の後部座席に座って貰っています。

修証義(しゅしょうぎ)のお経の中に「光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、身命は露よりも脆(もろ)し」とあります。過ぎ去る時間は早く、命は草の葉にやどる露よりも儚(はかな)い。との意味です。

今年も残すところわずかになりました。一年を懺悔し、全てのものに報恩感謝、清々しい気持ちで新たな年をお迎えくださいますよう、お祈り申し上げます。


喜茂別町 北禅寺
富田 泰俊さん


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2012年12月15日放送

十二月は師走と言って、一年の締めくくりと新しい年を迎える準備が重なって、皆様忙しい日々を送られていると思いますが、我々曹洞宗の両大本山や各地方僧堂では一日から八日まで、お釈迦様のお悟りの日を記念して夜通しの坐禅修行をしております。

世間では猫の手も借りたいと忙しく走り回っている時に禅宗のお寺では朝から晩まで、晩から朝まで壁に向かってジーっと坐っているのです。何故そんな事をするのか?というと、お釈迦様のお悟りを追体験しよう!というのが根本の目的です。お釈迦様のお悟りの内容とはどんな物か?それは「宇宙は自他の対立の無い只一個の丸出し。」と見破られたところにあります。宇宙は端から端まで全部自分だった、という事です。そうなると全ての対立、争い事は一切解決します。一つですから争いようが無いのです。

でも、この体験をしようと思ったら生半可な修行では届きません。お釈迦様が最後の覚悟を決めて不眠不休で坐禅しての八日間だったのですから。

しかし、この体験は修行中のお坊さんだけに限りません。老いも若きも男も女も誰にでも志しさえあればできる、というのが坐禅の有難いところです。坐禅の効用は沢山ありますが、まず第一に心が落ち着きます。心が落ち着くと、やるべき事が確実に出来るようになります。坐禅は一分間すれば一分間だけ、五分間すれば五分間だけ、つまり実行しただけ心の浪が落ち着く、濁りが澄むのです。

一度坐り方を教われば、後は自宅で毎日一人で出来ます。もし良かったらあなたの町にある曹洞宗のお寺を訪ねてみて下さい。 「よく来たねー!」と、和尚さんが笑顔で迎えてくれるでしょう。


奥尻町 耕養寺
押見 敏文さん


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2012年12月8日放送

十二月八日は、ご存じの方も大勢いらっしゃることと思いますが、仏教徒にとりまして大切な日でございます。仏教を開かれたお釈迦様がお悟りを開かれた日でございます。お悟りを開かれなければ私たちはこの尊い教えに巡りあうことが出来ませんでした。お釈迦様がお亡くなりなって今もなお、この尊い教えは私たちに色々なことを教えて下さり、そしてお導き下さっております。お釈迦様の姿形は見えませんが何時もその教えに包まれているような、そしてお釈迦様と自分達は間違いなく繋がりあっているような気がいたします。

私たちはこの実社会の中で生活をしております、その中で色々なご縁の繋がり合いで生かさせていただいております。家庭においては親兄弟の繋がりであったり、学校では先生や生徒、友人との繋がりであったり自然や動物等、色々なものとの繋がりの中で生かされております。

しかし残念ながら自分の身近な周りではその繋がりの大切さを見失っている人が随分多くいるように思われてなりません。自分達とご先祖様との繋がりもそうです。この命はご先祖様から受け継がれている唯一無二の命であり、色々な繋がりの中でいかされている命であるということを忘れつつあるのではないかと思います。

命だけではありません。ご先祖様は多くの教えを残して下さっております。そのような教えを通しまぎれもなく自分達とご先祖様は繋がっていることが実感できるはずです。この繋がりを大切にしたいと思うと同時に大切にしていかなければならないと思います。

どうぞお釈迦様がお悟りを開かれたこの尊い日に、このようなさまざまな繋がりが大切であると言うことをお思い頂ければと思います。


松前町 泉龍院
平石 浩道さん


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2012年12月1日放送

信仰についてお話をいたしましょう。

先ずは「自分が、自分が」といった我を捨てて、わが身のありぎり全てを仏様に差し出して、仏様と全く一つになってしまう。自分が自分のほうから動くのではなく、仏様に包まれて、仏様に溶け込んで、自然と仏様のほうから動かされて行く。その時こそが信仰に満ち溢れた時であり、自由自在なる大安楽の境地。実に信仰とは仏様から動かされていく「行」であり、それは自然と「坐禅」という仏の姿として、その時、わが身に現れているのです。

ゆえに、ひとたび坐禅をしたら、そこから先は己の全てを捨ててしまう。例えば己の社会における地位や名誉、立場や条件等いわゆる“世間における持ち物”全てを捨てて、純粋な一人の人間として坐禅にその身を投じる。自分の全てを仏様にお任せする。後はあなたの中の仏様が現れて、あなたをして、あなたをそのまま救ってくれる。

私達が世間を生きるには、自分が“自らの力”で自分をなんとかしようと動かねばならない。しかし、そこに限界が生じ、人知では如何ともしがたい窮地に陥ったその時でも、常日頃から信仰を懐いている限り、仏様があなたの前にどっしりとしたお姿で「さあ、頼れ」といらっしゃる。これより先のあなたの進むべき道を開いてくれる。すなわち、「信仰」とは、「坐禅」とは、皆様の人生における“心の道標”であり、あなた自身が仏様になる唯一の「行」なのです。

どうぞ皆様、今後もご精進下さいます様、切にお念じ申し上げます。


森町 禅昌寺
田中 昭道さん


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2012年11月24日放送

以前、奈良県の室生寺というお寺を訪ねた時、おもしろい発見をした事がありました。このお寺には、まるで山登りをしているかのような険しい階段の道を上ってゆく「奥の院」があって、その延々と続く階段の周りには、何百年もの時を経た大きな杉の木が、たくさん生い茂っているのです。

その苔むした杉の根元や太い幹に、気の遠くなるような長い年月を感じつつ、息を切らしながら急な階段を上り、山の頂上の奥の院に着いて下を見下ろしたとき、まず目に入り、そして驚いたのは、今まで眺め歩いてきた、その杉の木の梢の若々しさでした。下から見上げたとき、うっそうと茂り、まさに老木と呼ぶにふさわしいと思っていた大きな杉の木も、その梢はやわらかく、淡い緑色をしたみずみずしい若さに輝いていたのです。

民芸運動で知られる柳宗悦さんの『心偈(こころうた)』に「古し泉は、新し水は」というのがあります。苔むしたような古い泉であっても、そこからこんこんと湧き出る水は常に新しいように、生きとしいけるあらゆる命は、いつも新鮮で、みずみずしいものなのです。

老いた杉の梢が、若々しい命に輝いていたように、私たち人間も、たとえ年をとっていても、いついかなる時も、常に躍動し続ける新鮮でみずみずしい命を、今、生きているのだということを、自覚したいものです。


長万部町 円通寺
庭野 泰雄さん


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2012年11月17日放送

本日は「布施のこころ」についてお話いたします。

当山の檀信徒に長田吉子さんという方がおりました。寺の行事があるときは、誰よりも早く来ては掃除をし、他の檀信徒の方々には、お団子の作りかたや仏様にお供えするお膳の作り方を教え、準備や後片付けの指揮をとっていました。

寺でお葬式があるときは、葬儀社の方と一緒に掃除を手伝っていました。そして、何より印象に残っているのは、ご自宅から30分程歩いて寺に来ては、庭の草取りを毎日のようにしていたことです。腰をかがめ、鍬をもって丁寧に根っこからとります。モンペをはき、頭には手ぬぐいをまき、顔は真っ黒に日焼けしていました。近所の人からは「お寺では草の生えない土を使っているのですか」と言われるくらい、いつも庭は綺麗になっていました。それを30年続けました。

80歳半ばになると急に体力が落ち、寺に来ることができなくなりました。しかし、今度は私が毎月長田さんのご自宅に伺い、仏壇でのお勤めのあと、色々とお話をさせて頂きました。

その長田さんが95歳で亡くなるまで毎月のように私に言ってくれたことがあります。それは「私は長い間、お寺にお手伝いさせてもらって幸せでした」という言葉です。その言葉どおり、本当に幸せそうな表情でいうんですよね。

私にとっては本当にありがたく、もったいない言葉で、感謝の気持ちが溢れてきます。寺につくし、仏様につくして、なおかつそのことが自身の喜びであるこの心こそ布施のこころであり、尊いことです。そしてそれは私達が毎日の生活の中で実践すべきことなのです。


函館市 永全寺
齋藤 隆明さん


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2012年11月10日放送

禅の教えでは、生死一如(しょうじいちにょ)といって、「生」生きること、「死」死を向かえることを別に分けて考えておりません。生も死もひとつのもの「一如」としてとらえています。とは言うものの、私たちはなかなか生死一如として、生も死もひとつのものとして素直に受け取ることができません。肉親の死、愛するものの死、大切な人の死、人として生まれた私たちは死を逃れることは誰にもできません。

私の父である、先代住職も3年半の闘病生活の末、他界しました。父であり師匠であった恩を受けた人との辛い別れ、長年連れ添った愛する人との別れ、死は辛く悲しいことでとても耐え難く苦しいものです。しかし、この愛別離苦、愛するものとの苦しい別れを乗越えた時こそが、素直に生死一如を受け取っていけるのではないでしょうか。この世は無常です。不変なものは何ひとつありません。次から次へと移り変わっていき、形あるものはいつか必ず滅びていきます。

ならば、私たちが今こうして命があり、生かされていることはなんと不思議なことで有り難い事なのでしょうか。明日の命が分からない今、こうして生かされていることは、なによりも有り難きことなのです。

このように受け取れたなら、おのずから感謝の念がわいてこないでしょうか。「いま、ここに私が生かされているって、なんてすばらしいことだろう」とい感動がわいてこないでしょうか。

いま、このいのちあるは有り難し」お釈迦さまのお言葉です。


函館市 潜龍寺
高橋 孝道さん


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2012年11月3日放送

本日は文化の日です。文化の日は『自由と平和を愛し、文化をすすめる』と法律で定められています。文化の日は、自由とは何か、平和とは何かを考える良い機会です。

私たちの曹洞宗を開かれた道元禅師様が生涯を通じて最も強く願われたのは「この世が永遠に平和で、災いのない世の中でありますように」という事でありました。晩年、道元禅師様は現在の福井県に新たに修行道場として「吉祥山永平寺」というお寺を建立されました。「吉祥山」とは"喜びと幸せの山"という意味であり、「永平寺」とは"永遠の平和"を祈るお寺のことです。平和を祈る心と営みは、永遠に続けなければなりません。

私のお寺には平和記念碑があります。子供の頃は毎年お盆になると、町の僧侶が宗派を問わずに集まり、平和記念碑の前でお経を上げ、世界平和を祈りました。子供の頃ですから、平和の意味もわからず父と一緒にお経を上げていましたが、お参りの方々は一心に手を合わせ平和の祈りを捧げていたように記憶しています。

私たちは誰一人として戦争を願うものはおりません。皆平和で暮らす事を、永遠の平和を願っている事と思います。今の日本は戦争もなく平和で、自由です。これはものすごく幸せな事です。文化の日の趣旨のように、永遠に自由と平和を愛していける日が続いてくれるように願いを込めてまいりましょう。


木古内町 願應寺住職
越智 友昭さん


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2012年10月27日放送

おはようの挨拶とともに、今日も新しい一日が始まりました。 皆さんは今日と言う一日をどのようにお過ごしになるのでしょうか。 今日一日が終わった時に「今日はとても充実した良い一日だった」と感じられるでしょうか。 それとも「なんとなくついていない、思い通りに行かない一日だった」と感じるでしょうか。 どのように感じたとしても今日という日は過ぎ、戻ってくることはありません。

お釈迦様はお亡くなりになる前に「世の中のものは全て休みなく移り変っているのだ。 どんな人にも必ず別れの時は来る。だから悔いのない生き方をするために、 せめて生きている間を怠らず努力することが大切だ」というお言葉を残されています。

先日、読んだある本では、一〇三歳のおばあさんが書いたと言う詩に出会いました。 その詩には「生きる毎日が楽しいの。子どもより、夫より長生きさせてもらっているから、 こんだけおいてもろていいのって思う時もあるけど、こんな歳まで生かさせてもらって感謝しています。 自分が生きとるんじゃない。生かさせてもらってるの。今日もまた生かさせてもらって、ありがたいと思い、 合掌。家族との相変わらずな毎日が続きますように」 と書かれていました。

相変わらずな毎日と言うと、変化もなく、つまらないのでは…?と感じてしまう事もありますが、 変わらない毎日を過す事がどれほど大切な事でしょう。 不満ばかり感じてイライラする毎日よりも、悔いのないよう楽しいと感じて過ごす事ができ、 一日の終わりに今日も生かさせてもらって良かったと感謝できる毎日を送れるように、 一日一日をしっかりと目標を持って充実した一日を過ごしていけたらいいですね。


幌加内町 晃龍寺
松澤 宗峰さん


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2012年10月20日放送

本日は心を洗うと書きまして、洗心ということについてお話しします。

いかなる宗教も、人格の完成を説き、それを究極の目的に置いていますが、厳密に言えば、人格の完成など不可能でしょう。 不可能でないまでも、至難の業であります。

だからといって、そこに断念してしまうのではなく、たとえ、到達でき得なくても、究極の目標を目指して、コツコツとたゆみない努力を継続してゆく、 そのプロセスが大事であり、そこにこそ大きな意義があるのです。 それがまた、人生のすべてだといっても良いでしょう。 「継続は力なり」と申します。継続してゆこうとする、前向きの姿勢が尊いのです。

「四弘誓願文(しぐせいがんもん)」という、仏教徒としての、四つの誓願文の中に煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)とあります。 煩悩は尽きることがないが、断ち切るようにとの誓願をこめて努力する、という意味です。 また四つ目に、仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)と結びますが、 これは、仏道は最高の道なるが故に誓って達成するよう務める、ということです。

こうした誓願に努力するには、絶えざる反省が必要になりますが、反省とは懺悔の心であり洗心であります。 同じ過ちを、絶対くり返さなぬことであります。

今日一日、洗心・懺悔の心をもって過ごしてみませんか!


滝川市 円覚寺
本川 一乗さん


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2012年10月13日放送

私が住まいする旭川のお寺からは、大雪山が望めます。既に紅葉も終わり、まもなく頂きには、真っ白い雪が光ることでしょう。 本日は、大雪山ならぬ雪山、すなわちヒマラヤ山中にいるという、寒い苦しい鳥と書いて寒苦鳥という鳥の逸話をご紹介いたします。

この鳥は、巣を作らずに、雌雄のつがいで山肌にすむと言われます。夜ともなればヒマラヤの寒さは半端ではありません。 耐え切れなくなった雌は、「寒くて死んでしまう。」と、そして雄は「明日こそ巣を作ろう。」とお互いに鳴き続けるそうであります。 夜が明けて暖かくなりますと、今度は、「常に移り変わる無常の世であるから、今日明日にでも死んでしまうとも限らない。 巣なんか作る必要があるだろうか。」と鳴き合って毎日を過ごしているといったそういう具合のお話であります。

わたしたちは、この逸話から寒苦鳥の滑稽さや、愚かしさといった感想を受け取るわけです。 このことは、無常の意味を取り違え、無常をいいわけにして、日々の生活をのんきに、厳しく言いますと怠惰に過ごしてしまっている、そういう者へ対する違和感を読み取っていることではないのでしょうか。

たしかに、私たちの生きるこの世の中は、常に移り変わり、ひと時たりとも留まることがありません。 私も皆さんも、その家族も日々老いてゆきます。明日まで自分の生命がある保証もありません。 大変な幸運も、とてつもない苦しみも、いつまでも続くことなく確実に変化し続けてゆきます。 であるからこそ私たちは人それぞれどのような状況にあっても、日々の生活を、一瞬一瞬が輝いたものとなるよう、毅然として暮らしてゆくべきでありましょう。

まさに此の事は、人生を信じ、未来を信じることに他ならないと、考える次第であります。


旭川市 慈船寺
菊田 順哉さん


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2012年10月6日放送

また新しい一日が始まろうとしています。

さて、皆さんは今日一日で「ありがとう、ありがとうございます」と何回言葉を発するでしょうか? 家庭で、学校で、職場で、散歩の途中で、様々な人たちとの関わりの中で、「ありがとう、ありがとうございます」と感謝の気持ちを言葉に表す機会はたくさんあると思います。 逆に、当然の事だから、代金を払っているから、権利だから、「ありがとう」なんて口にしないという方もいるでしょう。 現代人は、どちらかというと、後者の方が多いでしょうか。また、有難いと心で思っていても、言葉に出してなかなか伝えられない人もいるかもしれません。

ところで、大多数の人から見るととても過酷な状況に置かれている人達が、その人の人生を、とても生き生きと生活している姿が、報道によって紹介されたりもします。 感謝できる事柄だと気がつく能力、「ありがとう」と感じる事のできる心の働き、同じような事柄に出会っても、感じ方は人それぞれですが、本当は有難い事なのに、気づくことができないでいる場合が多いのではないでしょうか?

当たり前と思われている事柄の中に、些細な事柄の中に、「ありがとう!」と感じる事が出来る心の働きは、きっとその人の生活を豊かに安らかにしてくれます。

背筋を伸ばし姿勢を整えて、呼吸を整え心を静かにして、自分にとって感謝できる事柄は何だろう?と思いを巡らす時間を作ってみては如何でしょうか?


和寒町 隆国寺
池田 尊候さん


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2012年9月29日放送

皆さんは毎日寝る前に、その日の朝と昼に何を食べたかを思い出すことができますか?

私は、大学を卒業して本格的にお坊さんの修行をする前の約三年間を、東京でサラリーマンとして多忙な毎日を送っておりました。忙しい時には終電で帰宅することもあり、そういう時は常に頭の中は仕事で一杯でした。疲れ果てて蒲団の中に潜り込み、ふと朝ごはん昼ごはん何をたべたかな?と思い出そうとしても、何を食べたか思い出すことができません。何故なら食事をしている時ですら頭の中は常に仕事に囚われていて、うわの空でご飯を食べていたからです。

神奈川県の大本山總持寺を開かれた、瑩山禅師は「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と示されております。お茶を飲む時にはお茶を飲む事に集中し、ご飯を食べるときにはご飯を食べる事に集中する。さらには、お茶や食事だけでなく、今の自分の行いに集中しなさいという教えであります。

皆さん、朝起きたら歯を磨くし顔も洗いますよね。散歩もするし、掃除もしますよね。その時は、今やっている事にただひたすら集中して下さい。心ここに在らずでは、私のように後で振り返って「はて、何をしていたんだ?」ということになってしまいます。禅の修業は、坐禅やお経をお唱えしたりするだけでなく、日常生活すべてが修行であります。

お釈迦様は、「過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来ていません。ただ今なすべきことをしなさい。」と教えております。今を生きずに、一体いつ生きるのでしょうか?かけがいの無い時を後悔することなく精一杯生きましょう。


名寄市 東照寺
有田 昭宗さん


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2012年9月22日放送

今日はお彼岸のお中日です。彼岸というのはこちらの岸に対する向こう岸を表すことばです。こちらの岸が、苦しみ悲しみの多いこの現実の世界で、向こう岸は、幸福と安らぎの仏教の理想世界を意味しています。

子供の頃、友達の家の母さんが優しそうに見えたり、暮らしぶりが裕福に見えたりして、羨んだことがあります。そんな時、母に「それじゃ○○さんちの家の子供になりなさい。」とたしなめられたものです。そう言われると、我が家、わが母が一番であって、泣いて許しをこうことになったものです。

理想の世界もこれと同じで、我が家、我が身にあるものであって、他人さまにいただいてくるようなものではありません。また、追い求めて得られるものではないのです。

この考えは、日本の仏教宗派に共通している所でもあります。例えば阿弥陀如来の極楽浄土は西方十万億土という、とてつもなく遠い所にありながら、「南無阿弥陀仏」一つで浄土の方からやってくると言われております。また日蓮さんはこの世を「霊山(りょうぜん)世界」お釈迦さまが常に説法されている浄土であると言っておられます。また、弘法大師空海は、この世は大日如来の世界だと説かれています。いずれも、理想の彼岸はこの世、この身に実現するものだというお示しです。

永平寺の道元禅師は「ほとけを他にもとめてはならない」と教えています。

私の行いを仏と同じくするところに、仏の世界が現れるのです。その行いとは坐禅です。気がついたら、背筋を伸ばし、呼吸を調え、心を調えてまいりましょう。そこに彼岸があるのです。


札幌市 真龍寺
飯田 整治さん


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2012年9月15日放送

私たちの毎日はいつも競争を強いられているようです。時間に追われ、仕事に追われ、人に追われ、心のゆとりを失いがちです。お釈迦様は、人生とは意のままにならないものであると示されました。意のままにならない現実と、それでも走り続けなければならない今という時代に私たちは息苦しさを感じています。どこかで心に一息つけましょう。

四年前に亡くなった漫画家の赤塚不二夫さんは自身の作品の人物にこんな言葉を言わせています。
これでいいのだ。
何がおきても、どんな結果になっても最後はいつも「これでいいのだ。」なのです。とても温かく優しい気がします。悪いことをして開き直ったり、無責任で言うのは論外ですが、うまくいかない事、思い通りにならない人生を、それでも全部受け入れ「これでいいんだよ。」と自分自身を肯定してあげる優しさがそこにあります。一番を争うのとは違う別の生き方に気づくことができれば心にゆとりが生まれます。

以前、国会で事業仕分けの中継を見ていた時、スーパーコンピューターの開発について「一番ではダメなんですか。二番ではダメなんですか」という女性議員の発言が耳に残りました。これも一つの考え方です。ナンバーワンよりオンリーワンの発想の転換です。人生が思いのままにならないのは他と比べるからです。ナンバーワンになれないことで思い悩むより自分は自分というオンリーワン、それもまた人生、いや、それこそが人生と思い定め「これでいいのだ。」と受け入れることができたなら心と肩の荷を少しは軽くすることができます。自分を否定することはありません。自分をきちんと認めてあげる、「これでいいのだ。」は優しさに充ちた、自分を励ます力強い言葉だと思います。


音更町 泰源寺
田中 泰順さん


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2012年9月8日放送

これは、私が本山で修行している時に、先輩僧に聞いた話です。

いつも顔色のすぐれない一人の修行僧がいました。雑巾がけをしていてもすぐに息切れをおこし、動作もにぶい。そんなわけで、先輩に怒られっぱなしでした。そこで、先輩が理由を尋ねました。彼は、生まれつき心臓が悪く、十歳ぐらいから入退院を繰り返してきたとのこと。そして二十歳を過ぎてからは、手術もできず、将来の展望すらできない状況になってしまったそうです。そこで彼は『お寺に生まれたのだから、どうせ死ぬのならお坊さんとして死にたい』と、正に決死の覚悟で本山に修行にきたそうです。発作が起きたらおしまい、という状況のなかで彼は三年間も頑張りました。

道元禅師は「病気を治してから修行しようとしないで、仏法が一番大事と思ったら、必ず、この命があるうちに、と思って修行にとびこめ」と、おさとしになられています。また、私たちの人間としての命は、仏様の行いつまり仏道を行うことができうる、仏さまの命である、と言われています。

胃潰瘍を治すのは、酒がおいしく飲めるために、ではなく、仏さまの命の元である、肉体の健康を保つためです。同様に、私たちのこの体は、使い方によって、善人にもなれば悪人にもなります。そして何人も、悪い行いをするために生きているわけではありません。

もろもろの悪をつくらず、生死に著(じゃく)するこころなく、一切衆生のために、あはれみ深くして、かみをうやまい、しもをあはれみ、よろずを厭うこころなく、ねがふこころなくて、こころに思うことなく、うれふることなき、これをほとけと名づく
道元禅師のおことばです。


初山別村 龍華寺
松本 弘哉さん


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2012年9月1日放送

私のお寺の前には多くの水田が広がっています。秋の風を受け稲の穂が揺れ、すがすがしい風景が広がります。

お寺には可愛い子供の顔をした「稲(いな)籾(もみ)童子」という仏様が安置されています。毎年八月のお盆には、五穀豊穣を祈り、その仏様の小さな両腕に、近所でとれた稲の穂を抱かせて、皆でお参りをします。

仏様の抱いている稲の穂を見ると、春夏秋冬、本当に多くの時間と農家の方々の労力、そして大自然の恵みが稲の穂の中に入っていることを思います。

「稲は『命の根』『いのちね』なんだ。」ある農家の方の言葉です。お米自体の命、働いた多くの方々の命、そしてその土地を昔から守り伝えてくれた多くの先人の命。その「命の根っこだ」と語ってくれました。私たちはその「命の根」を頂戴して「今」を生きています。

われ恵まれて、今この食(じき)を受く、その来る処を想い、心して頂戴せん

今年も多くの「思い」と「命」が込められた新米の季節を迎えます。稲籾童子の笑顔のように、共に皆さんの幸せを願い、感謝を込めて美味しく、「新米」をいただきましょう。


増毛町 天総寺
谷 龍嗣さん


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2012年8月25日放送

本日は、宗祖道元禅師さまの教えであります、利行についてお話し致します。利行の字は利益の利に行うの行と書きます。その意味と致しましては、他に利益を与える行いとなります。道元禅師さまは、他に利益を与える行いをする時は、自分に対する見返りを求めてはいけないと説かれ、純粋に他に利益を与えようとするならば、他にも自分にも利益があると説かれております。この利行という教えを私が実感致しました体験をお話し致します。

私は、枝幸水泳少年団の指導者として子供たちに水泳を教えております。ボランティアで奉仕をさせて頂いています。水泳少年団の練習は、夜六時からですので、日中仕事をしてからの水泳指導となります。

ある日、私は日頃の壇務の疲れから、この日は水泳の指導を休みたいと思う時がありました。今日は疲れたなあ、体がきついなあと思いながら、ふと体育館の中を見ましたら、そこには元気に走り回っている子供たちの姿がありました。その光景を見て、私はこの子たちの笑顔の為にがんばろうと急に心が元気になり、やる気が出ました。

その時に利行とは他にも自分にも利益があることを実感致しました。私は子供たちに水泳を教え、利益を与える立場でありましたが、逆に子供たちから生きる元気を貰っていたのです。この時に私が、もし子供たちに水泳を教えても何も得することがないと見返りを気にしてしまったならば、元気も感動も貰えず、利行の大切さも気付けなかっただけでしょう。

利行とは、見返りを求めず、純粋に行った時、他にも自分にも利益がある。この利行の実践を共に精進していきましょう。ありがとうございました。


枝幸町 長林寺
島崎 元輝さん


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2012年8月18日放送

今日は「トイレの神様」というお話です。

我々、曹洞宗のお寺ではよく、トイレに神様が祀られております。 それが、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)。 この烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)さまは五大明王にも数えられることもあり、古代インドの神話では炎の神とされており、その聖なる炎でこの世の一切の汚れを焼き尽くすと言われております。現在では、トイレを清らかなところに保つということだけではなく、安産の神様としても、また金運の上昇、病気平癒にもご利益があるとも言われておりますから、トイレをきれいにするといいことがあるというさまざまな言い伝えは、このようなところからも生まれたのかもしれませんね。

トイレでの心得や作法についてはお釈迦様も示されており、また道元禅師もとても丁寧にお示しであるとおり、我々にとってトイレはとても重要な修行の場でもあります。ただ利用するというだけではなくて、それによって自分の身も心も清らかになるように、そして全世界が清らかになるようにと願い、利用いたします。

トイレにはそれはそれは恐ろしい形相の神様が祀られております。だから毎日、私たちもその神様を見習って、自分の身も心も清らかに、そして、それを利用した人の身も心も清らかになるようにと願い、トイレをきれいにいたしましょう。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰さん


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2012年8月11日放送

仏教は、言うまでもなく平和の教えです。私たち僧侶は毎朝、坐禅をし、朝のお勤めで世界平和と、人々の安寧をお祈りしています。で、あればこそ、私自身も、家庭の中が平和でなければならないはずなのですが、中々そうはうまく参りません。

世間によくあることではありますが、我が家でも、ご多分に漏れず、私の妻と母との仲がギクシャクすることがあります。先代の住職であった父を亡くしてからは、常に私が妻と母の板挟みであります。お寺でありますから、本来、仏教の理想にそった、争いの全くない、平和な生活をしなければならないのですが、これは、「言うは易く、行うは難し」であります。

四年前、年に一度の大きなお寺参りの二日前、妻と母がささいなことでケンカをしてしまいました。このことについて、妻は大変後悔します。私は妻をなだめ、なぐさめました。さて、法要前日の夜、茶の間に一人で母が座っていました。母がひどく落ち込んでいることが一目でわかりました。

それをみて、私は心から反省しました。私自身が、今日まで、お寺を護り、私を生み、育ててくれた母に対して、その恩をアダで返すようなことをしていたことに気が付いたのです。妻と母、どちらが悪いというのではないのです。私自身に優しさが足りなかったのです。

道元禅師は「在俗のものは、親の生きている時も、死んでからも孝養を尽くすものである。お坊さんは、その父母への恩をすべての衆生にめぐらし、仏道に精進しなければならない」と、言われました。肝に銘じてまいりたいものであります。


猿払村 仏心寺
榛澤 弘章さん


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2012年8月4日放送

私には、二歳になる子供がおります。最近沢山のことばを覚え始めました。そしてそのほとんどが、私ども親のマネ、口癖までも真似をします。わが子の成長に目を細めるとともに、親として子供に対する言葉づかいには、大変重い責任を感じております。

道元禅師は、誠心誠意、相手を思いやる、優しい言葉、「愛語」の大切さを説いておられます。 ふだん、自分の発した何気ない一言で、人を傷つけてしまったり、迷惑をかけてしまったり、悲しい思いをさせてしまったり・・・誰にでも思い当たることでしょう。これは愛語を忘れているために起きてしまうのです。道元禅師は「愛語を好み、使うように心がけていると、日ごろ、目に見えない愛語も自然に表れるようになる。私たち人間は、今の命がある限り、好んで愛語すべきである。」とお示しです。

とかく現代では、親が子を、子が親を殺める、そういった事件が多く報道されています。「愛語」を全く使うことのない親の言葉が、親子の会話をなくし、それによって気持ちの擦れ違いが生じて、このような悲惨な事態を引き起こしていると考えられます。 わが子と接するとき、ただ、話をするのではなく、そこに、気配りや、思い遣りと慈愛に満ちた「愛語」を使うように、常に心がけたいものであります。 なぜなら、子供は親の言葉をマネすることから人間としての第一歩を始め、その後ろ姿からさまざまな生き方を学び、それらを心の栄養として成長して往くのですから・・・


釧路市 佛心寺
山辺 龍樹さん


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2012年7月28日放送

 みなさんは「心のよりどころ」をお持ちでしょうか。私たちは嫌なことがあったときや辛く悲しいことがあった時、これらの困難を乗り越えようとするとき「心のよりどころ」を求めます。それは、妻や夫・親・兄弟・親友・恋人など人によって違いがあります。

「苦しみは分かち合うと半分になり、喜びは分け合うと倍になる」などと申します。 確かに、それはその通りであります。しかし、そうは言っても、辛いことや苦しいことを分かち合うのは難しいことです。

例えば、子供がお腹を空かせているときに、その子供に代わって、自分が腹いっぱいに物を食べても、子供は満腹になることはありません。同様に、愛する夫が重い病にかかり、間もなく目を落とそうとする時、自分の寿命の半分を夫に分けてあげるというわけにはまいりません。

また、神様・仏様・ご先祖さまを心のよりどころにしている方もあります。しかしそれは、突然の不幸や苦しみが、わが身に降りかかった時、「なんで、俺ばかりが、こんな不幸な目にあわなければならないのか!」と、天を恨み、先祖を憎むことになりかねません。

お釈迦さまは「おのれこそ、おのれのよるべ。おのれをおきて誰によるべぞ。よくととのえし己こそ、まことえがたき、よるべぞを得ん。」とお示しです。人間、真のよりどころになるものは、よくととのえし、「おのれ」をおいて他にはないのです。

今日一日、今の一息ひといきをととのえて己自身をよりどころとして、暮らしてまいりたいものであります。


釧路町 仙鳳寺
成澤 廣仁さん


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2012年7月21日放送

私達は日常を生きていく時に他との関わりを無くしては生きては行けません。しかしその関係の中で多くの苦しみが存在します。そして人は悩み、どうにかならないものかと考え、さらに苦しみは増していきます。日々の相手とのやり取りの中で、「私はこう思っているのに、なんであの人は解ってくれないんだろう?」と、思う事はありませんか?この自分の思いが叶わない心を煩悩と言います。「煩悩」とは、心身を煩わし悩ます心のはたらきのことです。そして「私ならこうやるのに…」と、自分を基準に物事を考え、ましてやそれが相手の為を思うからこそ良いことだと思ってはいませんか?

でも少し考えてみて下さい。他人は他人であり、その心をいくら考えてみても、それはあくまでも自分の想像に過ぎないのです。また、この苦しみは相手によって自分にもたらされるものと思いがちですが、じつはこの苦しみは自らが作り出しているのだと言うことを知るべきなのです。この煩悩を捨て去らない限り、苦しみから逃れる事が出来ないのです。煩悩から逃れる方法は、「私はこう思う」と言う自己中心の思いから離れ、「私はこう思うけど、相手はどうなんだろう?」と、相手の立場になって物事を考え、共に喜びや悲しみを共感出来るような、豊かな心の状態を持つことが大切なのです。

お釈迦様は、「人生は苦なり」と、私たちの人生の現実を示されました。しかし、ただいたずらに苦を嘆き悲しみより、正面から向き合い、受け入れ、そして人は多くの人の助けによって生きているんだと言うことを知り、その見えないものへの感謝の気持ち「おかげさま」を思う日々を過ごしてまいりましょう。


白糠町 瑞英寺
大嶽 俊行さん


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2012年7月14日放送

ことわざに「病は口より入り、禍(わざわい)は口よりいず」とあります。病気は飲食によって起こり、災いは言葉によって起きる、故に口を慎みなさいという意味です。

病になる、ならないはともかく、「食事は人間を創る」と言っても過言ではありません。

禅の教えでは、日常生活の全てが仏道の実践である、としています。特にその中でも、食作法は重要とされています。

皆様方も幼いころから、両親や祖父母などから、箸の上げ下ろしから、お茶碗の持ち方まで大切な躾として身に付けた方は多いと思われます。中でも、「頂きます」「ごちそうさまでした」の食事の前後の挨拶は、ほとんどの方がお使いだろうと思われます。このことばには、たいへん深い意味が込められています。

それは、食事をするに当たり、食卓に並ぶご飯やおかずが、大自然の恵みであり、また数多くの人々の汗と努力の賜物であるということに思いを馳せなければならない、ということであります。また、食べ物は野菜であれ、肉・魚であれ、全て生命をもって活動していたものなのです。豚や鶏・サケやマグロは、人間に食われるために生きているわけではありません。私たちはそれらの命を頂くことによって、自分自身の生命活動を維持しているのです。

であればこそ、「いただきます」「ごちそうさま」と、感謝の心で食事をすることを忘れてはなりません。そして、他の命を頂戴して生きる以上、それに値する生き方をしているかどうか、常に自分自身に問いかける生き方を心がけていきたいものでございます。


別海町 法光寺
斎藤 雅龍さん


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2012年7月7日放送

この国は、今や全世帯の三割を一人暮らしが占めていると言われています。皆さんの中にも、お一人で暮らしている方がいらっしゃるかと思われます。そんな昨今、「孤独死・孤立死」などが社会的問題となってきました。個人を尊重する都市型社会が、人間の横の繋がりを希薄なものにしていると考えられます。さらに、他人との関係性を絶とうという、歪んだ個人主義が拍車をかけます。

しかし、言うまでもなく人間は一人では生きられません。多くの人々のお世話になって生かされている事を自覚することが大切です。小さな子供は、無意識にそのことを知っているようです。私の息子が、まだよちよち歩きをしていた頃のことです。散歩をしていると、全く見知らぬ人に向かって、無邪気な笑顔で「こんにちは」と挨拶したのです。すると、その人も満面の笑みを浮かべて挨拶を返してくれたのでした。思えば、全く知らない人といっても、同じ時間と空間に存在する以上、互いに縁があって巡り会っているのです。無縁社会などは、有り得ないことなのです。

仏教には「和顔愛語」という教えがあります。人に対して、なごやかな顔と、優しい慈しみのことばで接することをいいます。小さなわが息子に、この和顔愛語の実践を教えられた気がしました。にこやかな顔と優しいことばは、鏡のように自分に返ってくるものであることを実感したものです。

さて、今日一日、出会う人に対し、「和顔愛語」の実践を心がけていきたいものです。


雄武町 東陽寺
目黒 泰一さん


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2012年6月30日放送

北海道にもようやく花々が咲き揃い、一番良い季節が訪れました。

私の街に、多くの人々の心に華を咲かせた一人のおばあちゃんがおられました。 数年前に亡くなられましたが、九十歳を超えてなお、良いことは良い、悪いことは悪いと、いつもはっきりとした物言いながら、普段閉じこもりがちのお年寄りの中に入っていっては積極的に話し掛けをされたそうです。 するといつの間にか相手のお年寄りの顔に笑みが表れ、次第に会話が弾むようになり、次々にお年寄り達の心に明るい色の華を咲かせていったのです。語り合うことの大切さを私に教えて下さいました。

このおばあちゃんがあるとき私に、「老いて枯れていくのが老化だけれど、私はねぇ、老化の化という字を華という文字に置き換えて、老いて更に心に華をさかせたいんだよ。」と語って下さいました。

文豪島崎藤村の残したことばに、「老後は淋しいものだ。しかし、真の友人を持って、淋しさをじっくり味わうことのできる老人は幸せである。そのための友人づくりを早くからしておきたいものだ。」とあります。

おばあちゃんは、友人のお年寄りとともに昔の苦労話をして共感し、互いに敬い合う日々を大切にされていたのです。共に生きてきた長い時間を認めあうことで、心に華を咲かせたのです。この心の華は、今ではお仲間の方々に受け継がれ、今年も優しく寄り添うように明るく咲き続けることでありましょう。


湧別町 広福寺
吉塚 憲孝さん


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2012年6月23日放送

毎日、忙しく過ごしている私達です。あまりに急いでときを過ごしているので、やさしさや笑顔を忘れてしまったり、こころが疲れてイライラしているのかもしれませんね。

時には、一日の中に自分と静かに向き合う静寂のひとときを作ってみるのも良いかもしれません。そのようなこころのゆとりを作ることで何か日常の中における生活の変化や、物事を見る目が変わってくるようなことが起こるかもしれません。

日常生活においていろいろなことが気になるかもしれませんが、仏壇のある方はお香をともし鐘を鳴らして、その音が静かに消え静寂となる三分間程の自分だけの時間を持ってみてはいかがでしょうか。仏壇のない方も静かになれる部屋で、自分と向き合うわずかなときを過ごしてはいかがでしょうか。身体の力を抜き一呼吸して静かに自分自身と向き合うとき、疲れが滲み出たり、こころが爽やかになったり、悲しくなったり、嬉しくなったり、落ち込んだり、前向きになったり、様々な思いが心の中で浮かんでは消えていくことでしょう。

そのような時間の中で、特別な何かに出会うことができるかもしれません。それが自分自身のよりどころとなる安らかなこころの状態であったり、もしかしたらやさしく微笑んでくれている仏さまの存在を見ることができるかもしれませんね。

一日の中にわずかな自分だけの時間、こころ静かになれる静寂のひとときを持ってみてはいかがでしょうか。


訓子府町 常照寺
中條 雅道さん


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2012年6月16日放送

平成二十四年も六月に入りました。草木も葉が茂り、緑鮮やかな暖かい季節となりました。皆様、いかがお過ごしでしょうか?

我が町、大空町は平成十八年三月三十一日、女満別町と東藻琴村が合併して誕生した人口約八千人の町であります。東藻琴には、藻琴山麗に十万平方メートルの広大な「芝桜公園」があります。毎年多くの方々が観光にこられます。赤やピンク、紫や白の花が咲き、とても美しく、斜面一面が大きなジュウタンのようであります。 この美しい綺麗な芝桜は言うまでもなく、数多くの方々の手入れや管理、手間暇を惜しまない作業により、毎年美しい花を咲かせ、大勢の人々の心を楽しませてくれております。

スピーディーな現代の社会は、何事も手間の掛からないことが良いこととされています。コインを入れると商品が出てくる自動販売機、レンジでチンをするだけで美味しくいただける食事。会話することが面倒なのでメールでやりとり・・・。

しかし簡単、便利を追求することは、決して善いことばかりではありません。携帯電話と銀行のATMの普及が振り込め詐欺を生み出し、インターネットはネット犯罪という暗い闇をつくりました。これらは、人間どうしの会話や、心の触れ合いの大切さを、ないがしろにしたために起きたことだと言えます。

こんな便利すぎる現代であればこそ、少したちどまって、多くの人々が手間暇をかけてその美しさを護っている、芝桜を眺めてみてはいかがでしょうか。


大空町 満福寺
篁 融心さん


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2012年6月9日放送

ライラックの花が、夏の訪れを知らせてくれているようです。各寺院ではそろそろお盆を迎える準備が始まります。

昨年、『いそがないで 〜 苦しんでいるあなたへのメッセージ』という冊子をお盆の棚経に伺う際に檀信徒の皆様にお配りをいたしました。国内の年間「自殺者」は増加の一途を辿り、そこまでは至らなくとも一度は「自殺」を考えたことがあるという方は老若男女を問わず予想を上回る人数に成るであろうと言われる現代社会です。 先日ある檀信徒さんの娘さんが、少しためらいながら私に、「和尚さん、実は私お盆に頂いたあの冊子を読ませていただいたおかげで救われました。感謝しています。」と話してくれました。

冊子の中に「周りの人達から孤立しています。誰も私に手をさしのべてくれません。」と言う一節がありました。誰かが手を貸してくれるのをじっと待っているのではなく、自ら行動することによって何かが変わっていくことがありませんか。多かれ少なかれ、人は皆悩みや迷い、苦しみを抱えながら毎日を過ごしていることでしょう。苦しんでいるのは自分だけではないのだということに気づき、一日一日を感謝の気持ちで過ごすことが出来た時、明日からの一日一日が少しずつ変化していくことでしょう。未来を信じて今日一日を精一杯生きてください。

私自身、僧侶として自分にさせていただくことが出来る精一杯のつとめを日々積み重ね、現代社会の中で何かのお役に立つことが出来ますよう、心して精進させていただこうと思っています。


斜里市 禅龍寺
門田 道致さん


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2012年6月2日放送

昨今、少子高齢化が深刻化し日本人の仏教離れ、人との繋がりの希薄さが社会問題として取り上げる報道を耳にする方もいらっしゃると思います。新聞などでは今までの古い日本人の価値観が変容している、これは時代の流れと共に容認しなければいけない事であるという記事も目にした事があります。

本当にそうなのでしょうか?日本人は先祖を敬う心、また他人を思いやる心を失ってしまったのでしょうか?確かに情報化社会と言われすべてが昔よりはるかに便利になった世の中、目に見えない供養と言うカタチや他者を思いやるキズナを感じる事に接する機会が減ってきたのかもしれません。

しかし、一方で昨年の東日本大震災時には配られたパンを皆で分けて食事する方々の映像が報道されていました。その映像は海を渡って海外からも日本人が極限の中で助け合い、他人を思う行動に驚嘆した様に取り上げられたようです。また多くの国民が震災の惨状に心を痛め、義援金を送り支援が続いています。

道元禅師様は『正法眼蔵発菩提心』の中で「己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり」と示されました。これは自分より先に周りの人を救いなさいという教えです。東北の被災者の行動はまさにこの事の実践に他ならないのではないでしょうか。我々の心の奥底にはきっと仏教の教えの実践が自然と行動される心が備わっているのだと深く感じる瞬間でもありました。

まだまだ復興には時間がかかっているのが現状です。日本の先行きを悲観的に捉える人達も大勢いるでしょう。しかし私は生まれながらに仏様の心を備えた日本人には皆で助け合う明るい未来が待っていると思います。私は日本人の深い仏教の心を信じています。


上砂川町 道弘寺
栗原 祥弘さん


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2012年5月26日放送

昔から家の玄関を見れば、その家庭の様子が分かると言われています。履物がきちんと揃えられているか、掃除されているか。ただその様子だけで、住んでいる人の気持ちが想像出来るというものです。 私達僧侶は、日々お檀家さんの月命日の日に、お宅にお参りに伺いますので、玄関を目にする機会が多いのですが、その家庭によって実に様々です。

禅には『脚下照顧(きゃっかしょうこ)』という言葉があります。意味は、自分の足元をよく見なさいということです。自分の足元が見えていない人は、今自分が置かれている状況や、これから自分が何をするべきなのか、つまり自分自身が見えていないということです。大げさに思われるかもしれませんが、こうした小さなことに見えることが、生きて行く上でとても大切なことなのです。

まず家に帰ったら、玄関で脱いだ靴を揃える。 また、トイレから出る時には次の人が履きやすい様にスリッパを揃える。 時間でいうと、数秒で出来る事ですが、こうした事を習慣にする事で、自然と生活がキリッと引きしまったものになります。 今まで、気付かなかった事も気になる様になるかもしれません。

「継続は力なり」と言いますが、生活の中に一つのルールを作って続ける事で、甘えたい自分を少しずつ変える事が出来る様になると思います。 まずは実践してみて下さい。そして御自身の足元を見つめて下さい。 靴を揃えるという事は、次に踏み出す一歩の為でもあるのです。


三笠市 石雲寺
柿崎 宗幸さん


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2012年5月19日放送

東日本大震災から、1年2ヶ月が過ぎました。3月11日前後には、いろいろな企画で被災時の悲惨な様子や、日々耐えながら心強く生きる報道がされました。私たちが当たり前に生きている、一瞬の前触れもなくすべてが破壊されてしまう映像でした。

「どうして私はここにいるのだろうか」

仏の世界は「つながり つながる 生かされて、生きる」 ご縁の尊さに気づき、物を見て考えて行動している。お釈迦様は、「生かされている」「ともに生きる」ことを踏まえて日々の出会いを大切にする「思いやり」を説かれています。私達は、いろいろな「おかげ」をいただいて生きているのです。「であい」は、不思議なめぐり合わせなのです。いや、極端なことを言えば良い悪いという判断に関わらず、出逢うべき出逢いであると言えます。相手も必然的なことであったのです。

ここで「感謝する」「お願いする」「約束する」3つの心を考えたいと思います。「ありがとう」と誠実に接する時、温かい込み上げてくるものを感じるものです。きちんとした願いを抱くことによって、するべき役割や行動が再認識されるものです。私達、それぞれ見方や考え方は異なりますが、約束を守ることこそ安らぎの世界の実現への道となります。


三笠市 唱和寺
加勢 道胤さん


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2012年5月12日放送

中国大陸に凡そ1500年頃前に、「梁」という国がありました。そこの皇帝がインドから渡航し、後に中国禅宗の創始者となった達磨さんに、「私は数多くのお寺を建てたりしているが、どんな功徳(幸運や恵みやご利益)がありますか」との問い掛けに、達磨さんは「無功徳(何もありません)」と、答えたそうです。 達磨さんにお褒めの言葉を貰えると期待していた皇帝は落胆されたそうです。見返りを求めて行う打算的な行為を、真の善行ではないと諭しだったのです。

皆さんもご存知の「河合隼雄さん」の書物の中に、自宅介護のおじいちゃんが、急に怒りだすので子供達は手に負えないと悩んでいるお話が掲載されています。 しかし、おじいちゃんは無闇矢鱈に怒っているのでは無く、「お水を持ってきましたよ」と、言えばいいのに、なぜ子供たちは「お水を持ってきてあげましたよ」と言うのか、自分はかつて子供達に対して「育ててあげたよ」とか、「お金をもうけてきてやったよ」などと、言った事は無いのに、今なぜ親に対して、恩着せがましく言われる事に耐えられない趣旨の事が書かれていました。

先程の「梁の皇帝」も「おじいちゃんのお話」と同様に、私達は何に対しても「してあげたのだから」、ともすれば何らかの恩恵を受けれるという整合性を持ちますが、今のおじいちゃんのお話のように、慈しみの心で私達を見守ってくれる親心に感謝したいですね。

今年は5月13日が母の日ですし、来月には父の日が来ます。どうか見返りを求めない無償の功徳で優しく見守ってくださる、親御さん・旦那さん・奥さんに、また不幸にして他界された親御さん・ご先祖様・旦那さん・奥さん・そして、お世話になった方々に「ありがとうございます」と、素直に言いたいものです。

そして、自分の子・他人の子と区別しないのが本当の親の慈愛であるように、すべてのご年配の方に、自分の親として暖かく接していけたら本当の功徳を積む事になるのです。


砂川市 天津寺
滝本 浩典さん


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2012年5月5日放送

今日は五月五日、子供の日ですね。最近は鯉登りが都会ではあまり見られなくなって、寂しい気持ちになるのは私だけでしょうか。

皆さんは、子供の頃将来の夢は何ですかと聞かれたり、書かされた経験はなかったでしょうか。因みに、私の将来の夢は学校の先生でしたが、夢と現実とは違いました。

数年前、未来への自分に手紙を書こうプロジェクトがありました。それは、シンガーソングライターのアンジェラ・アキさんが十代の時、三十歳の自分に宛てた手紙が届いた実体験がモチーフになり『手紙〜拝啓 十五の君へ』という曲を作りました。この曲を元に全国の老若男女百人が未来の自分に手紙を書いたプロジェクトでした。

私が、もし未来の自分に宛てた手紙を書くとしたら、今の自分はどんな生き方をしているか知る必要があります。

禅の言葉に「看脚下(かんきゃっか)」という言葉があります。看は看護士さんの看、脚は月偏の脚、下は天下の下、看護士さんが患者さんを注意深く見守る様に、自分の足元を注意深く見るという事、しかし、それは単に靴が汚れているか、いないか、或いは靴下に穴があいているか、いないかを見るのではなく、自分の今、置かれている立場・状況で、自分が何をしてどんな生き方をしているのか、立ち止まって考える事です。

時間に追われ、毎日向上心なく、仕事や勉強を行ってはいないか。周りの事ばかり気にして、自分を見失っていないだろうか。

仏教では、自己の中に灯を持てと教えます。それにはまず、自分の足元、つまり心を注意深く見つめる事が大切なのではないでしょうか。


北広島市 来広寺
落合 順厚さん


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2012年4月28日放送

皆さんは日々の生活を心穏やかにおくられているでしょうか。「何の問題もなく、楽しい毎日だよ」と言える人は少ないのではないでしょうか。逆に「早く帰りたいのにこんな残業をさせられるなんて」とか「何で家の子は親の言うことを聞かないんだ」とか、常にイライラし怒りの感情を持っている人は意外と多いのではないでしょうか。

もっと言えば毎日のように紙面を賑わせている事件の多くは、この怒りの感情から生じた結果であると言えます。そういう人は周りが自分の思うように動くのが当たり前で、そうでないものには怒りの矛先を向けてしまう。まるで、世界を意のままに動かそうとする独裁者のようなものです。でも誰一人「全てあなたの思い通りに動きますよ」と契約した人などいないのです。

お釈迦様は怒りは蛇の毒のようなものだと言われています。怒りが心に生じたなら猛毒があっという間に体中に広まってしまうのです。だから怒りが生じたらすぐに消さなくてはなりません。「これが出来るのが本当に修行の進んだ者である」と言われています。でも僧侶である私も含め、なかなか出来るものではありません。

しかし諦めてはいけません。ちょっと考えてみてください。そんなに世の中に不都合で怒らねばいけないことばかりなのでしょうか。蛇口をひねればいつでもきれいな水が出てくる。暗くなれば電気をつけて灯りをとることが出来る。お腹がすけばおいしいご飯が食べられる。人間は不都合なことばかりに目が行きがちです。しかし本当はたくさんの人、そしてこの大自然のおかげで毎日の自分があるのだということに気がついたとき、怒りを無くするきっかけが見つかるのではないでしょうか。

あなたも全ての人や大自然に感謝する生き方を今日から一緒に始めてみましょう。


札幌市 龍興寺
高垣 晶敬さん


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2012年4月21日放送

私たちに、最も馴染み深い仏具のひとつに数珠があります。お葬式や法事といった仏事には、欠かすことのできない装身具となっています。そこから不幸を連想される方もありますが、ことぶきの珠と書いて「寿珠」と読むこともある通り、むしろ縁起の良い、円満と平和のシンボルでさえあります。

最近の若い人のなかには、ファッションの一つとして、幸運を呼び寄せると言われるパワーストーンや誕生石などを使った腕輪念珠を身に付けている方も見かけるようになりました。しかし、数珠はたんなる飾りではなく、その姿・形には仏様の教えが込められていることを忘れてはならないのです。

数珠の円い珠と形は、仏様の知恵と、み姿を象徴しています。また、それは私たち一人一人の姿をもあらわしています。個々の珠はどれも丸く、しかも一本のひもにつながり、さらに大きな円を成しています。これは人と人との絆が円満であることを祈る形です。家族に例えるならば、一人一人が揃って円満で丈夫で、しかも誰一人横道にそれることなく強い絆で結ばれ、そしてその関係が無限に続きますようにと、願い祈ることをあらわしているのです。

私自身も数珠を手にするとき、自分の行いや気持ちが仏様の教えに反していないかよくよくかえりみるとともに、清らかに、また円満に生きてゆく努力を誓って、数珠の意義を心得ながら、大いに愛用していきたいと思うものであります。


新篠津村 光明寺
藤原 孝徳さん


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2012年4月14日放送

多くのお寺では、法要、ご法事などで壇信徒の皆様にも一緒に読経する事を勧めております。私のお寺では、ご法事では必ず全員に経本をお配りし、声に出して一緒にお経を読むことをお願いしております。これは私の師匠である住職が常日頃申している事ですが、お経にはお釈迦様の時代から数百年間は言葉によって伝えられて来たことと、文字によって伝えられたお経も、声に出して読むことで、お経の説く世界がより具現化されると考えられているからです。『般若心経』での最後の経文、「羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」などは特にそうです。

声に出して読む事の良さはお経だけに限りません。声に出す事でその文章が具体的な世界となって目の前に現れ、また大脳も刺激され活性化すると言われています。日本には昔から『言霊』という考えがありましたが、言葉の持つ不思議な力を私どものご先祖が知っていたからでしょう。

最近面白い話を聞きました。七十五歳以上の方が運転免許を更新する時には、何枚かの絵を見せられそれを後で何の絵であったかを書かされるテストがあるそうです。
その絵ですが、・・・・・・例えば「ピアノ、バイク」などを声に出して読む事を命ぜられ、ある方はあんまり馬鹿馬鹿しいので全部を声に出して読まなかったそうです。ところが、いざ書く時に、声に出さなかった物はまったく思い出せなかったそうです。この話なども、声に出して読む事がいかに大脳を刺激しているかを示す良い例だと思います。

是非皆様で声に出してお唱え致しましょう。「羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」


札幌市 北大寺
近藤 晃由さん


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2012年4月7日放送

野山はまだ雪に埋もれていますが、今年もまた春がやってきました。 雪解けを待ちかねて、庭の花壇に真っ先に芽を出すのが、スイセンです。この花は室町時代に中国から輸入され、大本山永平寺のある北陸福井の越前海岸で栽培されたのが始まりだそうです。そのため、今でも水仙は福井県の県花になっています。

冬の寒さによく耐え、雪の中でも花を咲かせる水仙は、雪中花ともよばれ、その生命力の強さはどんな苦難にも負けない頼もしさを感じさせられるものです。先の大震災での皇后陛下と水仙の花の心温まるエピソードは、いまだ記憶に新しいところであります。

このように気高い美しさを持つ水仙でありますが、反面、強い毒を持っています。
私の母が嫁いで間もないころ(と言っても五十年以上も昔のことですが)、家の畑でニラを採った際、近くに生えていた水仙の葉をニラと間違えて、一緒に収穫してしまいました。さて母は、それを夕餉のおかずにと、卵とじにして食卓に出しました。 その食後、家内中が激しい嘔吐に襲われるという、大変な食中毒騒ぎを起こしてしまったことがあるそうです。

春の訪れとともに、フキノトウやツクシ、行者ニンニク、クレソン、タラの芽など、たくさんの山菜が採れるようになります。 しかし、春の山菜はその生命力の強さに比例して、アクも強くなります。これらのアクには水仙ほどの毒性は無いものの、やはり人体には有害で沢山食べると著しく寿命を縮めてしまうそうであります。

何事に対しても、欲望の赴くままになせる行いは我が身をダメにしてしまうものです。用心して春の味覚を楽しみたいものであります。


札幌市 真龍寺
飯田 整治さん


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2012年3月31日放送

般若心経というお経、名前ぐらいは聞いたことがあると思います。もう十年以上も前になりますが、ある方から、ぜんきゅうの般若心経という本をいただきました。作者は丹波善久さんといいます。お坊さんのような名前ですが、この方は小石で鳥を創ったり、流木で色々な作品を創る、石の鳥と流木の造形作家です。河の上流にある石が、水に押し流されて河口にたどり着くころ角がとれて丸くなる石、たくさんの苦難を乗り越えて海岸にたどり着く流木、その小石や流木に人生に似たやさしさを感じて作品を作っているそうです。

本の内容ですが、般若心経はあなたの心に
自分中心にものを見ていませんか?
必要以上にこだわっていませんか?
ものを差別なく見ていますか?
疑いの心をもっていませんか?
自由な心でおおらかに生きていますか?
と問いかけています。

般若心経は空の教えです。空という字はそら、空気のくうと書きます。そして空とは、いらいらするな、くよくよするな、ぎすぎすするな、おおらかにおおらかに生きていきなさいということです。

それではなぜお仏壇、お墓の前でお経を唱えるのか? この般若心経でいうならば、私はいらいらしません、私はくよくよしません、私はぎすぎすしません、おおらかにおおらかに生きていきますと誓いを立てる意味でお経を唱える。さらに善いのは、お仏壇・お墓の前で、私はいらいらしていません、私はくよくよしていません、私はぎすぎすしていません、おおらかにおおらかに生きています、と報告できた時はじめて亡くなった方、ご先祖様が喜んでくれる。私は、これが本当の一番の供養だと思います。


寿都町 龍洞院
野上 良元さん


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2012年3月24日放送

最近は随分風邪が流行っているようで、私も風邪で診療所に行き順番を待っていたところ、ひとりの小さな子供が看護士さんに注射をされておりました。 そうしますと子供は痛いので母親に助けを求めるような目をしながら大きな声で泣き、その横で様子を見ている母親は泣いている子供自身より何倍も痛みを感じ、目に涙を浮かべていました。 この光景を見て親子の愛情を感じた訳でありますが、このような経験はどなた様もなさった事が有るかと思います。

では私達は他人の痛み・悲しみ・喜びをどれだけ自分のものとして捉える事が出来るでしょうか。 僅かに同じ気持ちになる事が出来ても、なかなか全てを受け取ることは出来ないものです。例えば水に溺れた人を助けるには自分もまた水に入らなければ助けることは出来ません。 このように思いやりの心を持って相手の立場に立ち、共に行動する時、自分も相手もひとつになります。

真実を持って相手に接した時、その人もその心を感じ取り相手を信じてそれについてくるのです。 何事も為すにあたって心を込め、少しでも相手の立場になってあげることが大切です。


江別市 禅龍寺
万年 守道さん


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2012年3月17日放送

暑さ寒さも彼岸までの如く、長い冬が終わり、北国にもようやく春の息吹が少しずつ伝わってきました。春の光と共に命の尊さや大自然の恵みに感謝しながらご先祖様を供養し、ご加護を願うお彼岸の時季を迎えました。毎年毎年同じ営みの中で季節はとどまることなくやってきます。大自然は偽りのない真実の姿を変わることなく、私たちに多くの恵みを与えてくれます。

曹洞宗の経典の中に「修証義」というお経がございます。その「修証義」の第四章の中に「衆生を利益すというは 自己得度先度他の心を起こすべし」とお示しです。言い換えますと「人々を救おうと思うなら、その人々に優しい心、思いやりの心を起こさせなさい」となります。優しい思いやりのある真心を具(そな)えた人は、周りの人から必要とされ、大事にされます。 また優しさや真心を持った人になれば、周りの人から「あなたがいてくれて良かった」と思われることでしょう。

彼岸に至る六つの方法として六波羅蜜がございます。その第一は布施です。布施とは、慈しみの心を持って、物だけではなく真心、そして思いやりや行いを布施といいます。

天地万物のお蔭と感謝する心があれば、自ら貪りの心をなくし、施しの心となってあらわれます。

春の陽気を全身に浴びながら、ご先祖様、仏様にご挨拶をし、いつも忙しくて忘れてしまいがちな「こころ」をみつけましょう。
今日彼岸 菩提の種を 蒔く日かな
お彼岸にはぜひお寺へ、お墓へお参り致しましょう。


札幌市 禅徳寺
柿崎 孝彰さん


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2012年3月10日放送

禅寺といえば、精進料理を思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか? 精進料理の味付けには六種類の極意があります。それは苦い・すっぱい・甘い・辛い・しょっぱい。それと、淡い味です。

さて、最後の淡い味とはどんな味のことなのでしょう。 みなさん、おわかりでしょうか? 淡い味とは、一口食べておいしいと感じる味ではなく、食べ終わってから、じわじわとおいしさを感じる、そのような味のことです。素材本来の味がわかりやすくなる淡い味を心がけていれば、おのずと、おいしく、見た目もよく、また栄養的にも優れた、心身を養う料理となるはずです。

昨今、どんな料理にもマヨネーズをかけたり、トウガラシを振ったり、さまざまな調味料をかける若者が増えています。これではせっかくの料理も、本来の味や、料理を作ってくれた人の真心が分からなくなってしまいます。

永平寺の道元禅師は料理をする人の心得として、「軽くあっさり」「清潔で清々しく」「正しい手順で丁寧に」という三つの徳目を示されました。食べ物を頂く私たちは、この調理をしてくれた方の真心と素材の本当の味を理解することができるような食べ方を心がけなければなりません。

食という文字は、「人」と「良」という文字が重なり合ってできています。食が乱れるということは人が乱れるということだと、肝に銘じてゆきたいものであります。


札幌市 含笑寺
谷川 正純さん


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2012年3月3日放送

皆さんに質問を致します。皆さんの命は誰の命でしょうか? 朝からお坊さん変な事を言う、自分の命は自分のものに決まっていると皆さんは思っているでしょう。 では、自分の意志でこの世に生まれて来た人はいるでしょうか。

私達には必ず両親がいます。そして、その両親にもそれぞれ二人ずつ親がいて、その親にもまた両親がいるという風に、何代もさかのぼると私達には無数のご先祖様がいます。 無数の私達のご先祖様、誰か一人欠けても今の私達の命はここにありません。

私達の命は無数のご先祖様に頂いた命なのです。そして、この頂いた命を養うために私達は大自然から沢山の命を頂いています。私達が毎日口にする食べ物は全て命あるものです。大自然から沢山の命を与えられてはじめて私達は生きて行けるのです。 自分のものだと思っている私達の命は実は頂いた命、与えられた命であり、自分のものなど一つもないのです。 自分の命ではないから、私達は自分の命も他の命も大切にしなくてはいけないのです。

今日は三月三日ひなまつり、桃の節句です。おかげ様で私には高校二年、中三、中一、小四と可愛い四人の娘がおりますが今夜は私も自分の命を大切に、あまり白酒を飲み過ぎないように致します。


札幌市 常禅寺
目黒 全章さん


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2012年2月25日放送

昨年、小樽商科大学が開校100周年という節目を迎えました。

私自身、僧侶という仕事以外で他団体のボランティア活動をしておりまして、その中で小樽商科大学の学生さんと色んな場面で一緒に活動する機会がありました。その一人に応援団の団員である学生さんが居ました。

その学生さんから、昨年9月に応援団でお寺に来て合宿をしたいという申し入れがあり、内容を聞くと、応援団としての合宿はもちろん、禅寺なので座禅や写経、法話もお願いできませんかとのこと。 そのような趣旨であれば、是非お越しくださいと、一泊二日というタイトなスケジュールではありましたが、お寺に来ることになりました。

当日は私の予定もありましたので、来て頂いた当日の夕方からまず写経を1時間程してもらいました。写経ですからやはり、姿勢を正し正座をして書いてもらいましたが、昨今の生活環境でしょうか、写経自体よりも皆さん足のの痛みを堪えるのが大変なようでした。

座禅に関しては、全く経験があるはずもなく、座禅の仕方やその意味を一つ一つ教えながらの座禅となりましたが、一様に興味を持ち一生懸命取り組んでおりました。

私から最後に、少しだけ法話をさせていただく時間をもらい、話をさせていただき、1つのことだけ、お話をさせていただきました。

それは、何かを知ろうとする気持ち、やろうとする気持ちを、常に持ち続けてくださいと、お伝えをさせていただきました。 また、それを行動に移す努力もしなければなりませんと。

この不況の折、特に若い方々には、社会に出たとき、厳しい現実が待っております。その現実に負けない、自分自身のパワーをつけておかなければならないと思います。


小樽市 昭龍寺
今井 龍興さん


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2012年2月18日放送

二月に入り北海道では一面の雪景色ですが、福井県永平寺では若いお坊さんがこれから修行に入る季節でもあります。

私事ですが今から二十五年前、永平寺に修行に行って参りました。それまではお寺の事は全く知らず、お経も覚えていない、ごく普通の学生でした。家で修行に行く身支度をしていると、母親が「衣の衿の中にお金を縫い付けておいたから、何かあったら使いなさい」と言ってきました。そのときは何も知らない私は、なんでお金を衿の中に縫い付けたんだろうと思っていましたが、その答えはすぐにわかる事になりました。

修行に入り、今までとの生活とは全く違う世界に入って来たわけです。最初は右も左もわからず、戸惑い、ただついて行くだけでやっとでした。もし私一人だけがこの生活・修行をしていたら、耐えきれなかった事でしょう。

でも周りにも、私と同じ修行をしている雲水が沢山いました。雲水とは修行僧の事です。私もその中の一人なんです。 皆が皆同じ生活を送っています。同じ生活をする事によって、それがあたり前になり普通の事になっていくわけです。

もし辛い事があったとしても、それは自分一人だけじゃなく、自分の他にも同じ位に辛い人もいるんだと思い、また自分の事を心配していてくれる人が必ずいるという事を忘れないでいてほしいです。私は修行に行く前に母親が衣の衿の中にお金を縫い付けておいてくれて、私の事を心配してくれていた事にとても感謝しております。幸いに、そのお金を使わず無事お寺に戻ってこれました。


小樽市 南龍寺
吉田 龍洋さん


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2012年2月11日放送

昨年、熊が頻繁に住宅地周辺に出没しているという事がありました。 そのニュースの中で、熊が出た周辺の道端に、卵をパックごと、コンビニのおにぎりをまるごと捨てていたりと、エサになりそうな物があちらこちらに捨ててあるという現状でした。 山にどんぐりや山ぶどうなどの食べるものがないから人里に探しに出てきているのですから、エサになる物があればそれを食べその味を覚えてしまうと、また探しに来るという悪循環になるでしょう。

さらにコンビニエンスストアでは、わざわざ家庭のゴミを持ってきて捨てていくという、心無い人が多くいて、ゴミ箱の撤去を検討している所があると報道されていました。自分で出したゴミは自分の家で処理をする、良識のある方には当たり前のように聞こえるとおもいますがそうでない人がいるという現状です。誰も見ていないからいいだろう、自分ひとりぐらいいいだろう、という非常に自分勝手な考え方、行動により、非常に多くの人々に多大な迷惑をかけている事になっている状況であります。

最近は自己中心的な考えを持った人が多すぎるように思います。

いけない事をしている人を見つけても注意すると反対に怒られる、だから見てみぬふりをするという場合もあるでしょう。自分一人で生活している、生きているという訳ではなく、さまざまな物・多くの人・多くの自然などと共存している、その中で自分たちは生かされているという現実をもっと実感していかなければならないと思います。


小樽市 興聖寺
清水 義英さん


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2012年2月4日放送

今日は信仰のある生活についてお話しいたします。

現在、仏教の信仰の中心というと「仏像」「経典」「お墓」「仏壇」そして「お寺」が思い起こされますが、これらのものは、お釈迦様が亡くなられたあと、後世の人々によってつくられたものです。「仏像」や「お墓」はお釈迦様や亡き人を偲ぶ追慕の念により、「お経」はお釈迦様の教えを確実に伝えるために、「お寺」は僧侶を育成し、人々に仏法を広めるために造られたのです。

では、お釈迦様を信仰するというのはどういうことをいうのでしょう。永平寺を開かれた道元禅師は、「仏道を志したならば、最初から焼香・礼拝・念佛・お清め・お経といった儀礼を学ぶのではなく、座禅を専らにして身と心を清め、お釈迦様のように生きよ」とのお示しです。

お釈迦様のお言葉に「人間の価値は、その人の生まれや、家柄、地位・財産によって決まるのではなく、その人の清き行いによって決まる」と教えられています。

現代社会において、仏教を信仰するということは、仏さまに手を合わせることは勿論、大切なことではありますが、それ以上に、日頃の自分自身の行いを反省し、背筋を伸ばし、呼吸をととのえ、清らかな行いを積み重ねていくように心がけたいものであります。


余市町 大乗寺
石塚 正教さん


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2012年1月28日放送

あなたは一日に何時間眠っていますか?

ある寝具メーカーの調査によりますと、多くの人が人生の三分の一は寝ている、という調査結果があるそうです。という事は一日の三分の一は八時間、一年の三分の一は二九二〇時間、人生八〇年と計算すると、その三分の一は二十三万六千五百二十時間で、約27年も寝て過ごす事になるのです。私は何かもったいない気が致しました。

以前に「短く深く眠る方法」という本で、八時間が最適の睡眠時間という医学的根拠はない、人間にとっての普遍的な最適睡眠時間と言うものは存在しない、現に睡眠時間三、四時間で九〇歳を過ぎても現役で活躍されている方もいるし、成功を収めた方も数多くいるし、睡眠は生活のリズムで、短い人は短いリズムで、長い人は長いリズムで習慣化すると、読んだことがありました。

それならば人生八〇年で、これから仮に五時間睡眠で一日にプラス三時間の人生を送るとすると自分の場合だとあと四〇年で四万三千八百時間の人生の持ち時間が増える事になります。私どもの開祖道元禅師は「いたずらに過ごす月日は多けれど、道を求むる時ぞ少なし」と言われ、時間の大切さを説かれております。

お金は失ってもまた稼ぐ事が出来ますが、時間は失ってしまったらそれで最後なのです。この瞬間も最初で最後なのです。日本人の平均寿命が世界一の長寿国になったとはいえ、一日が二十四時間である事には変わりありません。

皆さんは限られた時間をどう使いますか?


小樽市 東光寺
齋藤 亨弘さん


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2012年1月21日放送

一月も三週間が過ぎました。新年の挨拶も終わり、普段通りの生活に戻って来ているのではないでしょうか。

新年の挨拶と言いますと、私の家では一月一日に家族がそろって「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」と挨拶をします。この新年の挨拶には「無事に新年を迎えることが出来ました、今年一年も皆が健康で過ごせますように。」という気持ちを込めています。

新年に限らず、会えばお互いに挨拶をすることは当たり前だと思っていました。しかし最近では、「おはようございます」「こんにちは」など普段の挨拶を言わない人がいます。 私の近くに住む家族は、朝に顔を合わせても黙ったままで、私が「おはようございます」と言っても返って来ません。家族の会話が無い印象を受け、両親は子供に挨拶を教えていないのではないかと思ってしまいます。 その一方、両親も子供もきちんと挨拶をする家族が居ます。元気に挨拶をしてくれ、朝から気分が明るくなります。この家族は会話があり明るい印象があります。

勿論、私の勝手な想像でしかありませんが、たった一言の挨拶で他人が受ける印象は雲泥の差があることは間違いありません。

挨拶というものは、たった一言で感謝の心や人に元気をあげられる、すばらしい言葉です。


小樽市 正林寺
小泉 義道さん


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2012年1月14日放送

世界の人口がついに七〇億を超えました。このまま増え続けると、人類が滅亡する、と真剣に心配される方があります。食糧・エネルギーなどが間に合わなくなるというのです。

仏教の説話に、「地獄と極楽は、人口も食料も全く同じなのに、地獄の人々はやせ衰えていて、極楽の人々はふくよかである」と、あります。理由は、地獄の人々は食べ物を奪い合い、取り合う。極楽の人々は、それを譲り合い、分かち合う、という点にあります。

この度の大震災でも、震災直後、人々が飲料水等に殺到したため、スーパーやコンビニから水のペットボトルが消えたりしました。これは、大勢の人々が、我も我もと先を争って買い急いだためです。ここからもわかる通り、生活に必要なものや、生きるために必要なものは「奪い合うと足らず、分け合うと余る」ものなのです。 つまり、人類がたとえ百億、二百億になろうとも、分け合い、支え合う精神を持てば、滅亡などしないはずです。

永平寺の道元禅師は「人みな、生分あり、天地これを授く。我走り求めざれども必ず有るなり。」と言われています。あくせく走り回り必要以上のものを追い求めても、人それぞれ胃袋に入る量は決まっているのです。

私もまた、自分自身の生活を省みて、食べ物やエネルギーを、必要以上に求め、浪費していないか、よくよく点検していきたいものであります。


余市町 永全寺
平岩 聖司さん


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2012年1月7日放送

昨年は、東日本大震災をはじめ、国内外で地震・水害等が続きました。被災された皆々様に、心からお見舞いを申し上げ、新しい年が復興の喜びに満ちたものになることを、心からお祈り申し上げるものであります。

さて、今年は辰年です。水を司る龍神さまの年です。永平寺の道元禅師は『海中に龍門という処があり、大波がゴウゴウと音を響かせている。その大波を魚が通り抜けると、龍に変わる。海中には特別な違いはない。魚のウロコも体もそのままであるが、必ず龍になるのだ。』と、示されました。

この言葉に続いて、お坊さんは、修行道場で互いに切磋琢磨して、仏さまとしての行を積むと、その身そのままに仏様になるのだ、と諭されています。道元禅師の言うところは、僧侶が修行道場に身を置くことの大切さを示されているわけです。さらに言い換えれば、厳しく辛い処に身を置き、ひたすら精進してゆくことが、自分自身を大きく成長させることになるのだ、ということなのです。

年があけた新年にもかかわらず、辛く苦しい思いをしながら、精進の日々を重ねている皆さんも、今年は龍門の魚のように、自然に龍に変化し、それこそ昇り龍のごとき、幸運に恵まれることを祈念するものであります。

世の中はこころ一つの置きどころ。楽も苦となり、苦も楽となる。


曹洞宗北海道教化センター
統監 藤原 重孝


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