今、被災地の宗侶に必要なこと 「現地を慰問して」  主監 飯田整治


※内容を正確にお伝えする関係上、原文をそのまま掲載させて頂きます。
教化センターでは5月の初め、日比賛事が宮城県気仙沼市の法鏡寺(奥様のご実家)を見舞い、次いで石巻〜岩手県の海岸沿いの被災地の様子を視察。
やがて一関市在住の永平寺同安居、後藤泰彦師より「北海道管区の方々も、ぜひ被災地の様子を見聞しておいた方がよい」と勧められ、とりあえず道内在住の同安居の仲間を誘ってみた。本心では、震災後直ちに駆けつけるのでなければ意味がないような思いもあった。被災地に赴くにあたり、迷惑を掛けてはいけないと思い、津波でお寺を破壊され避難所で生活をしている同安居、大槌町江岸寺徒弟大萱生知明師と連絡をとってみた。
私は恐る恐る「そちらへ行ってみようかと思ってるんだけど」。と尋ねてみると、彼は予想外の明るい声で「えー。わざわざ来るのかー。そりゃあ、ありがてぇー!」。との返事。
このことばを聞いて私の迷いは払拭された。道内の同安居会「永峰会」(会長1−1願應寺 越智友昭師)に動いてもらい慰問団を組織。前述の内容で慰問と視察を実行した。

 あの日、大萱生知明師は、江岸寺庫裏の前で避難してきた人々の誘導をしていた。
夢中で人々を誘導していてふと山門の方を見ると、すさまじい勢いで軽トラックが流れて来たのが見えた。
咄嗟に身の危険を感じた彼は納骨堂へ逃げ込もうと走り出した。納骨堂は庫裏の奥、本堂と隣接して建っており、鉄筋コンクリート二階建ての頑丈な構造である。所が、そこへ向かって行くと庫裏の屋根の向こうに、納骨堂の屋根の高さを超える大波が見えた。彼は踵を返すと左に直角に曲がり、本堂へと逃げ込んだ。大急ぎで、納骨堂と本堂とを仕切る防火扉を閉めた。『これで安心だ』と、彼は大間で一息ついたという。堂内にはお年寄りが30名程居たという。数秒後、大音響とともに防火扉は吹き飛ばされ、轟々と真っ黒い津波が堂内に流れ込んできたという。
知明師は津波に呑み込まれた。「波、というよりもガレキの塊のなかで、三回転四回転ともみくちゃにされる感じ」だという。津波の話をし始めると、急に顔つきがこわばり、息も絶え絶えになる。所謂フラッシュバックというやつだ。何度も「もうだめか」と思いながらも、必死に立ち泳ぎをして、真っ暗闇の中で捕まるものを探したという。そこにたまたま大太鼓が流れてきて、その耳にしがみつき溺れずに済んだという。太鼓は浮かんで、本堂奥の本尊さまの付近に流れ着いたという。天井の梁に片手でしがみついていると、足の裏に大きな材木があたった感触があり、足を掛けてみると、縦になった須弥檀であったという。彼はこの須弥檀に命を救われたのである。「助かった」と思ったのもつかの間、津波の第二波に襲われる。本堂中のものが上へ上へと押し上げられて、天蓋や憧幡が激しい音を立ててつぶれてゆくのを見て、圧死の恐怖を感じたという。第二波は一波より水位が上がり、口元まで冠水し、もう数センチ水位が上がれば水死するところであった。
やがて水が引き、救助の声が聞こえた「だれかいねーかー」。知明師は必至で返事をしようとするが、全く声が出ない。薄暗い本堂内を見渡すと、畳にしがみついて浮かんでいる老夫婦が見えた。ややしばらくして、別の人たちが捜索にきた。このとき、やっと声が出せたという。彼が救助されたとき、畳にしがみついていた老夫婦の姿は既に水中に没していたという。この老夫婦は知明師の話を聞いた人によって直ちに救出されて、お墓の丘の上へ引っ張り上げられたが、間もなく死亡した。結果、この本堂に居た約30名のうち、生き残ったのは知明師ただ一人でる。本堂の壁に赤いペイントで◎Dと記されている。◎は捜索済、Dは建物内で発見されたご遺体の数である。
 救助された後、知明師はお墓の上の高台の中央公民館へ運びこまれた。ここは市街地に最も近い避難所として、当初は1500人もの人々が避難したとのこと。負傷者はステージ上へ運ばれ、毛布にくるまれた。しばらくして聞き覚えのあるうなり声が聞こえ、ふと横を見ると自分と同じような坊主頭が目に入った。よくよく見てみると兄の良寛さんだった、という。良寛さんは大けがをしており、直に病院へ搬送された。
この日、中央公民館へ運ばれたけが人数名が、低体温症で亡くなっていったという。

 以上、救助された顛末を聞き終えて、諸堂拝観。お墓は津波と火災で大半が壊されていた。特に、大理石の墓石は火災の熱で握りこぶし大に割れて見るも無残である。境内地には樹齢300年というケヤキの木が、まっ黒けの炭になって太い幹だけが立ち残っている。
津波の後の火災は凄まじく、4日間に亘って燃え続けてという。特に3月12日には火炎が、墓地内の杉の木に移り、山火事が発生。中央公民館や大念寺にも炎が迫ったという。避難所の人々は、小雪の舞う寒い中、毛布一枚で墓地の中で一夜を明かしたという。
 拝観終了して、越智会長を導師に本尊三拝し諷経。勿論、本尊さまも何もかも流されてしまっている。空王拝である。
 諷経終了して、町内を視察。町長さん初め役場の職員の多くが犠牲となり、自治体の機能が失われてしまっている。ガレキの街を機動隊の警察車両が走り抜けて行く。見ると旭川ナンバーであった。道警の旭川方面本部のみなさんである。道民としては懐かしく嬉しく思った。
 街を案内する知明師は言う。「ここは本当に、景色が綺麗で、豊かでいい街だったんだよ」と。
 三陸鉄道は鉄橋の橋脚が横倒しになり、小高い線路の上まで、ガレキの山が残っている。
 漁船や遊覧船が山裾まで流れて行っている姿は、現実のものとは思えない風景である。

 町内を見て回ったあと、盛岡市内へ移動して知明師ご夫妻を励ます会を開催。
食事をはじめてリラックスすると、堰を切ったように知明師が避難所での苦労話を始めた。
彼は、最大で700名も暮らした避難所の班長をやっていたとのこと。高校卒業後、すぐに永平寺に上って長年に亘って修行。丹羽禅師代の本山の最初の首座和尚を務めた力量は、並大抵のもではない。ただ、避難所で生活する間は兎に角辛抱の連続であった。それらため込んでいたものが一気に噴出した感があった。

 被災地に於いて宗侶は街の人々に、頼られる存在として確かな役目を担っている。彼らはその付託に応えようと、毎日涙をこらえて頑張っているのである。そのストレスは極めて大きいと言わざるを得ない。私たちは宗侶の仲間として、そのストレスを軽減してあげることができる。それは、会って話を聴くことである。それが今、われわれにできることであり、被災地の宗侶に必要なことなのである。
 我々は同行同修の仏弟子として、彼らを後方から強力に援護しなければならないのである。特に、数百年間にわたって地域の信仰のよりどころとして存在した寺院を復興することは、何をおいても真っ先に取り組まなければならない喫緊の努めである。

 5月27日の朝、ホテルの玄関前で知明夫妻と再会を約束して別れた。気丈な知明師の両の眼から、大粒の涙がポタポタと地面に落ちた。彼の辛く厳しい生活を思って、われわれもまた涙した。
 また、近いうちに復興の手伝いに行きたいものである。












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